第4話 現場検証(後編)
「いかがですか、警部」
俺は二階のベランダに出て、ベランダからの景色を見回した。二階のベランダに案内した羽田が、一通り観察を終え、ぼんやりと欄干に両手を乗せて、外の景色を眺める俺に声を掛けた。
「下着が見える」
「はっ?」
「だから隣のマンションの住人の下着が見える。全く、下着を隠さずに干すなんて、無防備にも程があるぜ」
俺は笑いながら言い、スーツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、マンションのベランダに干されている下着を撮影しようとする。
「ちょ、ちょっと警部! さすがにそれはまずいですって。無断で女性の下着を撮影するなんて、キャリアといえども問題ですよ!」
「冗談だよ冗談。キャリア警察官の現場保存ジョークだ」
「ネーミング的に、いかにも世間に叩かれそうですね……」
羽田が俺の犯罪寸前の行為を慌てて止める。本当に冗談だぞ。
「通報者の部屋のベランダはどれだ? 確か二人いたな」
「ええと……」
通報者の部屋番号は暗記していると思うが、念のためだろうか、羽田は自らの手帳を開く。
「二〇三号室と三〇三号室ですね。二〇三号室の方が鈴木洋子さんで、三〇三号室の方が田中仁美さんという名前だそうです」
「二〇三号室と三〇三号室か。ええと、一つ二つ……」
俺は指で数えながら、通報者の二人のベランダの位置を確認した。
「なんだ、正面じゃないか」
「ほんとですね」
俺の言う通り、橋本の自宅のベランダと通報者の二人のベランダは、正面に向かい合っていた。その距離は四メートル程しかない。
「――上がダイナマイト田中で、下がミラクル鈴木か……」
「勝手に変な呼び名を付けないでくださいよ……」
「ははっ。田中と鈴木じゃ普通過ぎると思って。――おい、羽田」
「何ですか、警部」
あるものを発見した俺は、声のトーンを上げて羽田に声を掛けた。羽田は、俺が次に何を言うか期待しているのか、興味深そうな目付きでこちらを見ている。
「見てみろ、田中のベランダ。物干し竿が二本もあるぜ」
三階の田中の部屋のベランダには、三メートル程度の物干し竿が二本立て掛けられている。
「……それが何か?」
「おいおい、二刀流だぜ! 二刀流! テンション上がらねえか! さすがに俺も二刀流使いを見たのは初めてだぜ!」
「……。それだけですか?」
「ああ、それだけだ」
「はぁ」
「露骨にがっかりすんなって」
「警部、少しは真剣に考えてくださいよ、いつまで遊んでいるんですか」
「わかってるって。ちょっと考えるから待ってくれ」
俺はそう言って、五分くらい顎に手を当て、橋本の死について思考を巡らす。
「例えばの話をしてもいいか?」
「へっ? ――すみません、どうぞ」
いきなり、例えばの話を切り出され、一瞬気の抜けた返事をした羽田が、簡単に謝罪し、気を取り直して、続きを促す。
「もし、これが殺人事件だったとしよう」
「はい。橋本は事故で死んだのではなく、誰かに殺されたということですね」
「橋本の自宅の入り口に面する路地には足跡が二つ、被害者と発見者の足跡だけ。犯人の足跡は確かに発見されなかった。だが、こう考えてみたらどうだろうか。犯人は向かいのマンションのベランダからジャンプして、こちら側のベランダに飛び移ったと。そして、家の中に潜み、帰ってきた橋本がベランダで涼んでいるところを突き落とした」
「はあ……。おっしゃることはわかります。でも、帰りはどうするんですか?」
「帰りはもう一度飛べばいいのさ。行きと同じ要領でな。――というわけで羽田」
「何か嫌な予感……」
「ちょっと飛んでくれるか?」
「はっ?」
俺の唐突な提案に虚を衝かれたのか、羽田が部下にあるまじき返事をする。
「ん、聞こえなかったのか? ちょっと向こうのベランダまで飛んでくれるか?」
「ここから?」
「そう、ここから」
「四メートルの距離を?」
「そう、四メートルの距離を」
「落ちたら?」
「まあ、ちょっと痛いだろうな。何せ少なくとも俺たちがいるベランダから地面まで三メートルぐらいある。ここから落下したら、さすがに擦り傷くらいはできるんじゃないか」
「いやあの橋本さん死んでるんですけど……」
「まっ、幸い今日の俺はバンドエイドを持っているから安心してくれ。何なら怪我したところに二枚重ねて貼ってやるぜ」
「……」
四メートルの距離を華麗に跳躍して向こうのベランダに着地する自分の姿を想像しているのか、羽田は少し黙り込んだが、すぐに正気に戻り、
「って真顔で何を言っているんですか! 四メートルあるんですよ! オリンピック選手でもない普通の警察官の私が飛べる訳ないでしょう!」
「ちっ、乗せられなかったか」
「当たり前でしょうが……。これで『えっ、 バンドエイドがあるんですか! それじゃあ、安心ですね。ちょっくら羽田行ってきますわ』とか言ったら、私完全に危ない人じゃないですか!」
冗談だよ、と俺は笑いながら言った。
「それにしても、さすがに向こう側のベランダまで渡るという案は無理だな……」
「これだけ離れているんですからね。もう事故死でいいじゃないですか。無理矢理殺人にしたがるのは小説の中だけで十分ですよ」
「むう……」
羽田にそう言われても、どうしても納得しきれない。だが、事故という結論を崩すに至るだけの根拠を提示することもできなかった。
「一応、橋本の身辺調査を頼めるか。ほら、事故死だとは思うが、念のためさ。橋本の家族や職場、あとは仲の良い友人におしゃべり程度の聞き込みをしてくれればいいから」
「了解しました」
捜査の責任者たる警部と一介の刑事である巡査の関係である以上、羽田は上司である俺の命令に逆らうことはできない。警察という厳格な縦社会の中においては、上からの命令は絶対である。多少は不満に思っているだろうが、羽田は俺の命令をすんなりと聞き入れてくれた。
「警部はどうするんですか?」
「俺か、俺は一旦署に戻る」
「何か他の仕事があるんですか?」
「ああ、交通課の婦警とランチを食べる約束をしていてな。聞き込みにわざわざ俺が行く必要もないだろ」
「駄目だこの上司……」
不満を呟きながら頭を抱える羽田を横目に、軽やかなステップで俺は警察署に戻った
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