第3話 現場検証(中編)
「死体の写真はあるか?」
「警部が確認すると思って、印刷しておきました。どうぞ」
羽田は手際よく、予め印刷しておいた死体の発見現場の写真を俺に手渡す。羽田が俺と出会って二ヶ月、度々ぶつかってはいるが、確実に息が合ってきているのである。羽田は俺の行動の先を読んで、何かと準備をしてくれるようになった。彼女は間違いなく優秀な刑事だった。
「サンキュ。相変わらず仕事できるね」
俺が渡された写真には、橋本が仰向けに、少量であるが頭から血を流し倒れていた。仕事から帰った直後に死んだのか、スーツを身につけ、足には革靴を履いている。
「うわっ……。何度見ても死体の写真は慣れないな」
「同感です」
羽田も捜査一課に配属された初めの頃は死体を見て、何度も吐き気をもよおしたと言っていた。徐々に克服していったらしいが、死体に眉をひそめる俺の心情がよく理解できるのだろう。俺の仕事態度に不満は抱いているものの、死体を見て怖気付くことを怒りはしなかった。
「いかがですか、警部?」
「いかがですかって……。顔の作りはいまいちだな。俺の半分程度か」
「誰も橋本の顔立ちを訊いているわけではありません。何か気になる点はありませんか?」
「気になる点ねえ。羽田さん達も見たんだろう。そう簡単には――んっ!」
俺は写真のおかしな部分があることに気づき、声を上げた。
「どうしましたか?」
「羽田さん、確か橋本は二階のベランダから転落したと言っていたな?」
「はい。それが何か?」
「じゃあ、どうして橋本は靴を履いているんだ? 自宅の二階のベランダが落ちたんなら、玄関で靴を脱いでいるはずだろ」
「さすがですね、警部」
「俺を試したのか……」
真面目なこの部下は俺の能力に疑いを抱き、羽田は敢えて不審な点がある写真を見せて、俺の観察力を試したようだ。部下に自身の捜査能力を疑われる俺も俺だが、上司を試す羽田も羽田である。堅物そうに見えて、意外と一筋縄ではいかない女だ。
怠け者の上司としっかり者の部下、俺達は署内でも良いコンビともっぱらの評判である。
「失礼しました。その点については私達も不審に思い、簡単にですが捜査しました」
「俺を試したのか、人が悪いぜ。――それで捜査といっても、どんなことをしたんだ?」
「午前七時頃に、橋本の昨夜の行動について、会社の同僚に聞き込みに行ったところ、昨夜は橋本を含めた同僚の数人で飲みに行っていたらしいです」
「橋本は死ぬ前に酒を飲んでいたのか。何時まで飲んでいたんだ?」
「その同僚の証言によると、午前二時過ぎまで飲んでいたそうです。そこからタクシーで橋本は自宅に帰ったそうです」
「橋本を送ったタクシーの運転手からの証言は取れているか?」
「はい。先程タクシー会社に問い合わせたところ、運転手は簡単に判明しました。橋本を乗せたタクシーの運転手によると、午前二時四〇分頃に橋本を自宅に送ったそうです」
「なるほど。要するに酒をたらふく飲んで泥酔した橋本は、タクシーで自宅に帰り、そのまま靴を履いたまま玄関を上がり、二階のベランダに行き、うっかり転落したってことか」
「我々はそう判断しています。おそらくベランダの欄干に両腕を乗せて涼んでいたところ、誤って転落したのでしょう」
「それで一応説明はつくな」
「それに、家の中から土足で歩いた足跡が発見されました。もっとも家の中の足跡なので、あまり鮮明ではなかったのですが、いくつかの足跡は発見当時、橋本が履いていた靴裏と一致したので、橋本が靴を履いたまま、玄関に上がったと思われます」
「足跡といえば、昨夜は雪が積もっていただろう。自宅付近の足跡の状態はどうなっていたんだ」
俺が橋本の自宅周辺の状況に関する質問をすると、羽田は、よく気付きましたねと感心したように、俺の質問に答えた。
「その前に橋本の自宅、つまり我々が今いる場所の付近の道の状態を説明しましょう。橋本の自宅前の道が舗装されておらず、むき出しの土の状態で残されていることは、警部もご存知ですよね」
「ああ。この家の前の路地は、降り積もった雪の上を捜査員や野次馬がかき回したせいか、茶色の土の色が混じっていたな」
「その少し前の道の道路まではしっかり舗装されていまして、橋本の自宅に通じる道、いわゆる路地の部分だけが舗装されていなかったわけです。ちなみに橋本宅の隣のマンションの入り口は、舗装されている道路の方に面しております。マンションが面している道路の方から橋本の自宅までの間の路地に、足跡が発見されました」
「ちょっと待ってくれ。一応わかりやすいように図を書く」
「了解しました」
俺はスーツの内ポケットから小さなノートを取り出し、現場周辺の建物や道路、及び報告された足跡の位置を記入する。ペンを忘れてしまったので、座っているソファーの前の机に置かれているペンを使おうと思い手を伸ばしたところ、「現場の物を勝手に使わない!」と羽田に手を弾かれた。ノートには羽田から借りたペンで現場周辺図を書いている。
「えっと、俺が太陽でお前が月だとすると――マンションは橋本宅から見て土星の方向に建っているのか」
「どういう方向感覚の持ち主なんですか……」
俺が冗談を言って、方角を適当にノートに書き込もうとしたところを、携帯電話で正確な置関係を確認した羽田が訂正する。
「つまり、橋本の自宅、マンション、道路、路地の位置関係はこんな感じなわけか」
俺はささっと描いた地図を羽田に見せる。死亡した橋本宅の前の路地と、北と南の両側にある道路は直線ではなく、「工」の字のような位置関係になっており、垂直の線の部分が路地である。通報者のマンションの入り口は北側の道路に面している。
「その通りです。路地を挟んでいる北側の道路、南側の道路はアスファルトで舗装されており、車も適度に通行するため、人の足跡を確認することができませんでした」
「それにしても、橋本の家の前の道だけが舗装されていないのか。何か不自然だな」
「そうですね。最近は隅々まで道路工事が行き届いているので、結構珍しいですね」
「未舗装道路マニアとかが喜びそうだな」
「とにかく、南北の道路で挟まれた路地で足跡を見つけたわけか」
「はい。昨日は大雪だったこともあり、足跡が残っていたそうです」
「それで、足跡はどういう状態だったんだ?」
「死体の第一発見者の巡査によれば、発見者の自分と橋本以外の足跡はなかったそうです。こちらが足跡の残った状態の路地の写真です。死体を発見してからパトカーが到着するまでの間に、巡査が撮影したそうです」
羽田は数枚の写真を桜井に見せる。
「どれどれ……、なるほど。確かに足跡が残っているな。このうちの一つが橋本の靴跡で、もう一つが巡査の靴跡というわけか」
羽田から手渡された写真には橋本の自宅前の路地が写っていた。二つの足跡が残っている。雪の下に未舗装の地面があるため、白い雪に若干茶色が滲んでいる。
「ん? この写真、何かおかしくないか……」
「どこですか?」
何だろうか、路地の写真に何か違和感がある。確かに二人分の足跡が写真には写っており、程良い深雪のおかげで、足跡以外の路地はキャンパスのように真っ白で、綺麗な平面に整えられていた。
この一見不自然な点がない写真に、俺は直感的に何かおかしな点を嗅ぎ取っていた。しかし、直感に過ぎないので、上手く言葉にすることはできなかった。。取り敢えず自分の直感については、また後で考えることにして、写真から判断できることを口にすることにした。
「つまり、橋本と巡査以外は死亡前後にこの家に入った人間は誰もいないということか」
「そうなりますね」
雪で覆われた橋本の自宅に至る路地の上には、死者と発見者の足跡しか発見されなかった。これの意味することは明白である。
「ふむ。要するに、橋本の死は事故の可能性が高いってことか」
「そうですね、誰かが橋本をベランダで突き落としたなら、その誰かの足跡も残っていなければなりません。発見された足跡の状態から、その誰かもいなさそうですし。橋本の死体を発見した巡査は『殺人事件だ! 密室殺人だ!』と騒いでいたので、鉄拳で黙らせておきました」
「鉄拳で黙らせるなよ……」
羽田の暴力的な発言につっこみを入れ、俺は腕を組みながら書いた地図を見つめる。
本当に事故でいいのだろうか。何かが引っかかる。俺の勘が、橋本の死を事故で片付けてはいけないと告げていた。
俺の人生において、こういう時の自分の直感は大抵の場合的中していた。もっとも、直感であるので、論理的に言葉で説明することができないが……。
「ん? そういえば、橋本がタクシーで自宅に送られたのが午前二時四〇分頃だったな。橋本がベランダから転落する時刻が午前二時五十五分。タクシーを降りてから十五分も経っているのは何か不自然だな」
「そう言われば、少し気になりますが……」
タクシーの運転手が橋本を自宅まで送ったのが午前二時四〇分頃、タクシーの運転手が証言する時刻の前後に五分程度の開きがあったとしても、橋本がタクシーを降りて、ベランダから転落して死ぬまで十分以上の時間がある。
「家の中で発見された橋本の足跡はどういう状況だった? 家の中をうろうろしたとかだったか?」
「いえ、玄関から二階のベランダまで、ふらふらすることなく階段を上っていました」
橋本の自宅のベランダは二階の書斎に設置されており、書斎に行くには玄関から入り、廊下の途中、リビングの手前にある階段から二階に上る必要がある。
「つまり、タクシーを降りて一直線にベランダに向かったわけだろ。自宅まで送ってもらった橋本が、たかだかベランダまで十五分も掛かるのは、時間が掛かりすぎていないか」
「酔って足元がおぼつかない状態だと、十五分くらい掛かっても、それ程おかしくないのではありませんか?」
「だが、なにか引っかかるな。念のため、二階に上がってベランダを確認してもいいか」
「了解です」
橋本が転落した状況を確認するため、俺は羽田を伴って二階に上がった。
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