第3話 宿題とラブレター
11月5日 月曜日 朝
月曜日の朝、歩が学校の教室に入ると、香助が困った顔をしていた。
「どうしたの、香助? 飼っていた筋肉が逃げ出したの?」
自分の席に鞄を下ろした歩が、香助に話し掛ける。
「ああ、それもあるが、もっと重要なことが起きたんだ……」
「えっ! 筋肉逃げたの!?」
自分で言っておきながら、歩が驚く。どういう状況だろうか。
「それは先週の話だ! もうとっくに捕まえたがな!」
「すごいね、もう状況が理解不能だ……」
香助は両手をすり合わせながら言う。
「歩! 宿題を写させてくれ!」
「宿題って、――4時間目の数学?」
「そう! すっかり忘れてたんだ!」
「それはまずいね……」
「ああ、かなりまずい……」
香助が怯えるのも無理はない。4時間目の数学を担当する上岡は、かなり多くの分量の宿題を毎回生徒に課し、次の授業では、始まるとすぐにチェックをし、忘れた生徒を皆の前で叱り飛ばす教師であり、生徒からは恐れられていた。
「このままじゃ俺吊るし上げられるぜ……」
「うーん、それはかなりピンチだね。でも宿題の分量が多いし、多分終わらないと思う。僕は土日でやったけど、二時間ぐらいかかったよ。途中式も書かなきゃいけないし、写すだけでも一時間は掛かるんじゃないかな」
「まじかよ……、だからお前、土曜オセロで遊んだあと、数学の問題を解いていたのか。歩だけ罰として宿題が多めに出されたのかな、と勘違いしていたぜ……」
「どうして僕が隣で宿題してたのを自分と無関係と思ったのさ……」
「困ったな……。俺詰んでるじゃねえか」
香助が「詰む」という将棋用語を使うのは、歩と珠姫の影響だろうか。ちなみに「詰む」とは将棋の「王将」の逃げ場がないことを意味し、負けが確定している状況を指す。
「歩……、上岡が来たら『こーすけ君は昨日逃げた筋肉を捕まえに行きましたー』と、天然っぽく言ってくれるか?」
「嫌だなその役回り……。セミ捕り感覚じゃないか」
歩と香助が話す横で、影が薄いと周囲に言われている、クラスメートの橋本翔太が暗い顔をしていた。
「どうしたの? 橋本君、もしかして君も宿題やってなかったの?」
突然歩に話し掛けられた橋本は、慌てながら返事をした。
「い、いやいやいやいや。そんなことあるわけないじゃないか。ははっ、3回はやったよ!」
「えっ、3回もやったの!? 何の意味が……」
橋本は歩の発言に明らかに動揺していたが、その様子を気遣った歩は、数学の宿題について、敢えて深くは聞かなかった。香助は「そのうち1回でもいいから俺によこせよ」と不満げに呟いてた。
「だよねえ。あの上岡先生の宿題をやっていないのって香助ぐらいでしょ」
「うううっ……」
頭を抱えた橋本の苦悩に満ちた声をよそに、歩と香助が雑談をしていると、朝の予鈴が鳴る午前8時20分の少し前に桂が教室に入ってきた。自分の席に座るまでに、クラスの女子の大半に挨拶をすることを欠かさないのは何とも女受けがいい桂らしい。
桂の席は、教壇から見て、一番右奥の窓際にある。
桂は教室の隅の席に荷物を置いて、ニヤニヤしながら歩と香助の方にやってきた。
「歩、香助、聞いてくれよ!」
「ん、何かあったの?」
「ああ、実はこれを見てくれ」
そう言って、桂はズボンの左ポケットの中から、広辞苑並みに分厚いエロ本を取り出した。
「なにこれ? 朝から教室で止めて欲しいんだけど」
「おっと、こいつは違った。反対側のポケットだ」
「というか、よくその本がポケットに入ったな……、さすが我がライバル……」
香助が無駄に感心していると、ポケットの中から一通の封筒を取り出した。封筒は白く、横長の長方形の形をしており、可愛らしいハートのシールで封がされている。もっとも、桂が少し前に開封したため、既にシールは粘着力を失っている。
「何これ?」
「まあ中を見てみなって。今朝、靴箱に入っていたんだ」
歩が桂に言われるまま封筒を開け、中に入っていた手紙を読んだ。横から香助も覗き込む。
『桜井君へ。どうしても伝えたいことがあります。1時間目と2時間目の間の休み時間に、屋上で待っています』
手紙には可愛らしい文字で桂へのメッセージが書かれていた。
「果たし状だ!」
香助が手紙を覗き込んで声をあげる。
「典型的なボケをするなって! 型破りなボケをするのが、将棋探究部の暗黙の掟だろ」
「おっと、そうだったな。すまねえ、俺としたことが」
「勝手に変な掟作らないでよ……。――これって、もしかしてラブレター?」
「ああ、間違いなくそうだろ。俺のファンのカワイコちゃんが自分の気持ちを伝えたくて必死に書いたんだろうな。くー、しびれるぜ!」
「そうかあ? 伝えたいことがあるとしか書いてないぜ。邪馬台国の位置かもしれねえぜ」
「もうそいつは何者だよ……。伝えられた俺も『……、そうかそこにあったのか邪馬台国は。この勝負、お前の勝ちだ』としか言えねえぜ」
「いいリアクションだな!」
暗黙の掟通り、香助の型破りなボケに桂がつっこむ。
「でもえらく中途半端な時間だなこれ」
歩と一緒に手紙を読んだ香助が、手紙について疑問を口にした。
「確かに。1時間目と2時間の間の休み時間って10分しかないよね。10分で何を伝えられるのだろうか」
清海高校では、一時間目の授業は午前8時40分から始まり、午前9時40分に終了する。そこから、10分の休み時間を挟んで、午前9時50分から2時間目が始まる。
「案外ショートギャグを何発か見せられて終わりじゃねえか」
香助が桂を冷やかすように言った。
「なんでお笑い芸人みたいになってるんだよ。お前らは女心がわかってないなあ。きっと俺への恋心のあまり、一刻も早く自分の気持ちを伝えたかったんだろう」
「そうかな……。それにしても休み時間の10分に呼び出すのは不自然すぎるよ。普通は放課後とか、もっと時間が充分にあるときに呼び出すんじゃないかな」
「だろ! 歩もそう思うよな、絶対ショートギャグ関係の呼び出しだって!」
「どうして香助はそこまでショートギャグ押しなのさ……」
香助は、10分間の短い休み時間に好きな男子を呼び出すのは不自然だという自分の意見に、歩の同意を得られて嬉しそうだ。
「桂! お前何か短時間で、できる一発ギャグはあるか? 相方がいなければできない漫才や大掛かりな装置を使ったコントじゃダメだぜ」
香助は、桂を呼び出した相手がショートギャグを披露するという仮定で話を進める。
「俺がギャグを用意する必要があるのか?」
桂は意味がわからないというふうに、歩に助けを求める。
歩はさっきまでの様子とは打って変わって、面白そうな雰囲気を感じ、香助に追随する。
将棋探究部の部員では、大抵悪ふざけは香助か桂が始めるのだが、歩も面白いと思ったら二人に乗っかることが多い。
「あるね。向こうがショートギャグを屋上で披露して面白くなかったらどうするのさ。かなり気まずいと思うよ。そこで桂もショートギャグを披露して雰囲気を和らげないと」
桂の予想に反して、歩は香助の意見に同調し、拍車を掛ける。こうなっては自分一人が反対しても無駄だろうと桂も観念して、ショートギャグの仮定に付き合うことにした。
「屋上で、女子にわざわざショートギャグを見せられるために呼び出されるシチュエーションが想像出来ないんだが……」
桂は顎に手をおいて自分にできる芸を考える。
「――とっさにできるものといったら、空中散歩しかないぜ」
「すげえなそれ!」
桂が歩と香助の予想を上回る返答する。
香助は思わず驚嘆したが、一方の歩は苦言を呈す。
「だめだね、それじゃあインパクトが強過ぎる」
「どこがダメなんだ、歩?」
桂と香助は揃って、歩に訊く。
「向こうの一発芸が意外と地味だったらどうするのさ。――例えば早口言葉とか。テニスでいうと相手は淡々とラリーを続けたいのに、桂がいきなりスマッシュを相手コートに打ち込むようなものだよ。もっと簡単に言うと、素人歌自慢大会にミリオンセラーを連発している歌手が参加するみたいに、凄すぎて逆に場が白ける可能性がある。もっと地味だか派手だかよくわかんないけど、技量の高さが垣間見える芸のほうがいいな」
「そんな絶妙な立ち位置の芸なんて俺にはないぜ」
「香助、何かいい案ある?」
「そうだな……」
桂が先程考え込むのと同様のポーズで、香助も手を顎に当てて考える。考える仕草や食べ物の好き嫌いなど、この二人は何かと似ている点が多い。
「般若心経を反対から唱えるっていうのはどうだ」
「なんだそりゃ?」
「文字通りだぜ。通常般若心経は『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』から始まり『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経』で終わる。これをそのまま言っても面白みがない。そこで反対から唱えるんだ。つまり、『経心若般訶婆薩提菩諦羯僧羅波諦羯羅波諦羯諦羯』から唱え、『経心多蜜羅波若般訶摩説仏』で終わるってことさ」
「もはや何を唱えているんだそれは……」
「だろ! レベル100の坊主でもできねえぜ!」
「お前が般若心経を逆から唱えていたらレベル100の坊主にぶん殴られると思うがな……。――いやそもそもなんでお前は般若心経を暗記してい
るんだよ……」
桂が香助の記憶力に驚く一方、歩は香助のアイディアを採用する。
「確かにそれは絶妙なアイディアだね。面白いかはともかく、披露する側の技量の高さが窺い知れるね」
「だろ? 俺の十八番だがお前に譲ってやるぜ」
「嘘だろおい……」
その後、桂は1時間目の国語の授業の間、ひたすら般若心経を反対から唱える練習をした。
授業中に真剣な表情でぼそぼそ呟く桂を見た生徒は、「桜井君が不思議な呪文を唱え始めた!」「異世界から魔物でも召喚するのだろうか……」「それにしてもこの呪文長いな……。魔王クラスが召喚されそうだ」と不思議に思ったそうだ。
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