第5話 口の中の将棋の駒
殺害方法は毒殺、使われた毒物は青酸カリで間違いないことが、解剖の結果、判明した。さらに警察は解剖により、胃の内容物までも検査した。どのようにして被害者が毒物を接種したかを特定するためである。
単純な例を挙げれば、昼に死んだ被害者の胃の中から、ヨーグルトとおにぎりが発見されたとする。しかし、被害者は今朝、朝食にヨーグルトしか食べていない。この場合、おにぎりに毒が盛られており、被害者はそれを食べたために死んだ可能性が高い。
要するに、胃の内容物を調べれば、通常は何に毒物が含まれていたかが判明するのである。警察も当然そのつもりだった。
しかし、驚いたことに被害者の川本の胃の中からは、警察が事前に川本の母親に聞いていた、朝食として食べたトーストとサラダしか発見されなかった。
といっても正確にはこれだけではない。
何故か将棋の駒も、胃の中から発見された。これは食べ物として摂取したと言うより、川本の死後、口に大量の将棋の駒を詰め込まれたために、胃に入ったんだろうというのが警察の見解だった。
さらに、解剖により検査された胃の内容物を分析すれば、消化具合等からいつ被害者がその食べ物を口にしたのか、おおよその時刻が判明する。その結果、当然ではあるが、トーストとサラダは、死んだ当日の朝、川本が食べたものであることが確実となった。
解剖の結果を聞き、警察は困惑した。それでは、いったいどうやって犯人は青酸カリを川本に食べさせた、あるいは飲ませたのだろうか。
おにぎりやパンのような固形物に青酸カリを含ませて食べさせた可能性は、解剖の結果、限りなく低くなった。
胃の中に食べ物がないのであるから、残るは水やお茶などの飲料水に青酸カリを投入し、被害者に飲ませたこと以外は考えられない。まさか、青酸カリの水溶液をコップに入れて、そのまま飲ませたわけではないだろう。
しかし、現場の状態、解剖結果から川本が飲料水を接種した痕跡は発見されなかった。もし青酸カリを含んだ飲料水を接種したことにより死亡したとすれば、現場に飲料水の零れた跡が発見されるか、川本の体内から青酸カリを含んだ飲料水の成分が検出されるはずである。
いかにして、犯人は川本に青酸カリを摂取させたのか、その点が捜査員の間で検討されたが、未だに結論が出ていない。これが捜査が暗礁に乗り上げている原因だった。
「へえ、ますます奇妙な事件だね」
「でも、解剖で判明したことはこれだけじゃないんですよ」
「どういうこと?」
「被害者の口の中から大量の青酸カリが発見されたんですよ」
「どこが不思議なの? 青酸カリが死因なんだから、それは犯人が何らかの方法で、被害者に摂取させた跡なんじゃないのかな」
「それが解剖によると、それはあり得ないらしいんです。致死量を遥かに超える濃度の青酸カリが口内から検出されたらしくって。被害者の死体を解剖し、さらには血液を分析した結果、そこまで濃度の高い青酸カリが摂取されたのではないことがわかったんです」
「つまり、犯人は被害者を毒殺してから、改めて高濃度の液体状の青酸カリを口に流し込んだってこと?」
「さすがですね、どうやらそういうことらしいです。つまり、今回の犯人は青酸カリを被害者に何らかの方法で摂取させて殺害し、次に口に将棋の駒を大量に口に詰め込み、再度口に液状の青酸カリを流し込んだ、というのが警察の見解です」
「当たり前の話だけど、生きている最中に、それだけの青酸カリが流し込まれたってことはないよね?」
「警察の話だと死後らしいです。死体の臓器や血液を調べれば、どの程度の青酸カリを摂取して亡くなったかわかるらしいです」
「うーん、謎だらけだね。つまり被害者は2回青酸カリを飲まされたわけだね。それも1回目は生きている間に、2回目は死んだ後に」
「そういうことですね」
「たまちゃんはどう思う? 被害者の死後に青酸カリを流し込むことに何か意味があったのかな」
歩が珠姫の方を見ると、珠姫は携帯でメールを打っている最中だった。
「たまちゃん、どこにメールを打っているの?」
「ちょっとね。まっ、後でわかるわ」
珠姫はメールの相手を歩に隠して、意味ありげに微笑みながら送信ボタンを押した。
「死体が発見された時には、部室の鍵は空いていたんだよね?」
「ええ」
歩は部室の鍵の状況についての情報を聞き始めた。
「将棋部の部室の鍵は普段はどこにあるの?」
「いつもは職員室に保管されていて、部活をする時に鍵を取りに行き、部活の終了後に職員室に返しに行っているそうです」
「死体の発見時、部室の鍵はどこにあったの?」
「鍵は被害者のポケットの中から発見されたらしいです」
「被害者のポケットの中? そもそも鍵は誰が取りに行ったの?」
「いい質問ですね。さすが瀬川さん」
「いやあ」と歩が照れると珠姫に睨まれた。
「にやにやしない!」
「はいっ……」
そんな珠姫に叱られる歩の様子に、鈴原は顔を曇らせたが、話を続けた。
「鍵は昼休みが始まると、すぐに被害者の川本さんが職員室に取りに来たらしいですよ。川本さんは将棋部の部長だから先生方も不審に思わず、特に声は掛けなかったそうです」
「なるほど、つまり被害者は犯人と昼休みに部室で待ち合わせ、そこで毒を飲まされたんだね」
「はい、警察もそのように想定して、捜査を進めていたらしいです」
「なるほど」
ここまで話したところで、鈴原は「ちょっと失礼します」と言って席を立った。どうやらトイレにいくようだ。
鈴原がトイレの個室に入ったと同時に、珠姫はヘッドフォンを外し、即座に鈴原が飲んでいたアイスコーヒーのストローの中に唐辛子を詰め始めた。
「突然動いたと思ったら何をしているの……」
「いいからいいから」
珠姫は本当に嬉しそうにしている。いたずら好きの本領発揮と言ったところか。何が彼女をそこまで鈴原への嫌がらせに駆り立てているのだろうか。
珠姫が大量の唐辛子をストローに詰め終わった直後、鈴原がトイレから出てきて自分の席に戻った。
「お待たせしました。ええと、どこまで話しましたっけ?」
「鍵のことは話し終わったから、その次からだね」
歩がこう言うと、続きを話す準備として喉を潤すために、鈴原はアイスコーヒーを飲もうとしてストローに口をつけた。
「それでは続きを――ってぶほっごほっげほっ……」
当然ながら珠姫がさっき詰めた唐辛子が、ストローでコーヒーを吸うことにより一気に鈴原の口の中に飛び込んだ。鈴原は顔を真っ赤にして、ごほごほとむせている。
珠姫はそんな鈴原が悶え苦しむ様子を大爆笑しながら携帯のカメラで撮影している。
たまちゃん、段々性格悪くなっていくな……、と歩は思ったが口に出さなかった。
歩がマスターに持ってきてもらった水を飲むと、ようやく鈴原は落ち着いた。
「何をするんですか! これって葉月さんの仕業ですよね!」
怒るのも当然だ。鈴原が鋭い声で珠姫に怒りをぶつける。
「あらら、わからない? 実験していたのよ」
「実験?」
「そう。犯人はこうやってストローに毒を詰めて、何らかの飲料水を飲ませたのかもしれないでしょ」
「それは……」
確かにその可能性はあり得るが、何も唐辛子でやる必要があったのだろうか。
「ってそんなわけないじゃないですか。それだったら現場はもっと汚いはずですよ! 今の私のように毒物と一緒に飲んだものが現場に散っているはずじゃないですか!」
鈴原の言う通りである。鈴原が吹き出したアイスコーヒーのおかげで、机の上はびしょびしょに濡れており、正面にいた歩にも少々コーヒーが掛かっていた。
珠姫はあらかじめ机の上にあった食べ物や携帯電話、ゲーム機を横の机に避難させていたため被害はなかったが。
もし、飲料水に毒物を入れて飲ませたなら、現場も今と同じように飲料水が飛び散っているはずである。それは珠姫のように、ストローの内部に青酸カリを詰めて飲ませても同じことだ。どうやら被害者が飲料水とともに青酸カリを摂取した可能性は低そうだ。
犯人が綺麗に掃除した可能性はあるが、その場合も体内から飲料水の成分などが発見されるはずである。例えばコーラに青酸カリを入れて、それを被害者が飲んだのならば、青酸カリの成分を含んだコーラが被害者の体内から検出されるはずである。
「そうね。実験は成功だけど、今回の事件の解決には関係なさそうね。残念残念」
珠姫は悪びれる様子もなく、けろっとしている。
「も、もう……。怒る気もなくなりましたよ」
何を言っても効果がない珠姫の様子に鈴原もお手上げの状態だ。マスターに渡されたティッシュで汚れた部分を拭くと続きを話し始めた。ちなみに、鈴原の服にはコーヒーの染みが付いており、若干コーヒー臭い。
「事件の続きなんですが、警察の捜査が難航するなか、一人の女生徒の証言により捜査が一気に進展したんですよ」
「へえ、どういう証言だったの?」
「それが発見者の一人の将棋部の女の子の証言なんですけど、被害者の死体を発見した直後、茶色の細い物体を、これまた発見者の一人である今野さんが拾うのを見たって言うんですよ」
「それは重要な証言だね。今野さんというと、死んだ川本君の元彼女だね。つまり、三人で部室の死体を発見し、一人が先生を呼びに行き、今野さんを含めた二人が現場に残った。先生が来て、現場から三人を遠ざける前に、今野さんはその茶色の何かを現場から持ち去ったわけだ」
「そうなんですよね。証言した生徒は、今野さんは警察に拾ったものを提出したと思っていたらしいです」
「しかし、実際今野さんは現場で何かを拾ったことを内緒にしていたわけだ」
「その生徒は警察の方から数回事情聴取を受けたときに、その話が一切出なかったことを不思議に思ったらしいんです」
「なるほど。もし警察が、今野さんから現場に落ちていたその茶色の何かを渡されていたら、死体の第一発見者の生徒に見覚えがないか確認するはずだもんね。現場で何かを拾う今野さんを見た生徒は、さぞ不思議だっただろうね」
「そうなんですよ。それで、警察は次に今野さんに事情聴取して、そのことを聞いたらしいんです」
「今野さんの反応はどうだったの?」
「それが……、意外とすぐに現場で、被害者が倒れていた付近の床から茶色のものを拾ったことを白状したそうです」
「へえ。いったい何を拾ったの?」
「ヘアピンだったらしいです」
「ヘアピン? 女の子が髪に付けているあの細長いやつ?」
「はい。今野さん曰く、現場で茶色のヘアピンを拾ったとのことです」
「なるほど。犯人が被害者を殺害した時に落としたかもしれないね。――その場合、今野さんが犯人ということになるけど」
「それが違うらしいんですよ。今野さんが警察に渡したヘアピンは今野さんのものではなかったらしいんです」
「誰のだったの?」
「それが、前田さんのだったんです」
「前田さんは、容疑者の一人で、被害者の川本君の現在の彼女だね。ヘアピンを隠していた理由について、今野さんは何て言ったの?」
「警察が理由を聞いたところ、前田さんをかばうためだと話したそうです」
「それは不思議な話だね。今まで聞いた話だと川本君を巡ってかなり険悪な関係だったはずなのに。今野さんはそんな相手をよくかばおうと思ったね」
「警察も不思議に思ったらしいんですよね。ただ、険悪だったというのも他人の証言に過ぎず、今野さん曰く、前田さんのことを周囲が言うほどそこまで恨んでいなかったそうです」
「今野さんとしては、心変わりした相手である前田さんではなくて、自分を捨てた川本君を恨んでいたということなのかな」
女性の気持ちはよくわからないけど、旦那は恨めど愛人は恨まず、ということだろうと歩は理解した。
「それで現場で前田さんのヘアピンを見た時に、とっさに拾ってしまったそうです。きっと一年生の仲の良かった頃の思い出が彼女の胸中には残っていたんですね」
「それにしても、現場に落ちていたヘアピンは瞬時に前田さんのものだとわかるものなの? ヘアピンって、僕にはどれも同じに見えるんだけど」
「前田さんのヘアピンって、先端部分に本体と同じ茶色のひまわりのデコレーションがされた特徴的なヘアピンだったらしいんですよ。それで、今野さんは現場で落ちていたヘアピンが前田さんのものだと思ったらしいです」
「つまり、今野さんは死体を発見した時に、前田さんのヘアピンを発見した。もしかしたら前田さんが川本君を殺したのではないだろうか。そうでなくとも、このままでは前田さんが犯人扱いされてしまう。ここは前田さんのためにヘアピンを回収しておこう。こう思ったわけだね」
「はい。事実かどうかはともかく、今野さんは警察にそう証言したそうです」
「結局は、死体を発見した生徒の一人がたまたまヘアピンを拾う今野さんを見ていたから、今野さんの気遣いも徒労に終わったわけか」
「そうですね。次に警察が話を聞きに行ったのは前田さんでした。警察は現場にヘアピンが落ちていたことから前田さんを最有力容疑者と考えていたそうです」
「で、前田さんは何て言ったの?」
「前田さんは、確かにヘアピンは自分のものだけれど、いつどこで落としたのかわからない、自分は昼休みに将棋部の部室に行っていない、そう証言したそうです」
「犯人だったら嘘をついている可能性があるけどね。つまり、本当は被害者に毒を飲ませたときに落としたとか」
「警察もそう考えたらしいです。さらに、X高校の将棋部が、たまたま事件の前日の13日に大掃除をしていたことも、前田さんが犯行時にヘアピンを落としたのではないかということを裏付ける根拠になりました」
「要するに前日の13日に大掃除を行った以上、それ以前にヘアピンが落ちた可能性はない。もし落ちていたら大掃除のときに見つかっているはずだもんね。ということは事件当日の14日にヘアピンは落ちたに違いない、警察はそう考えたわけだね」
「そうです。警察は事件当日に部室に落ちていたヘアピンの持ち主の前田さんが犯人だという前提で、今でも捜査を継続しているそうです」
鈴原はそう言って事件の概要をひと通り語り終えた。
「事件の概要は以上です。といっても、細かい部分の説明は省略しましたが、推理に必要な説明は瀬川さんの意見を伺いながら適宜補足していきたいと思います」
「わかった。事件の流れと警察の捜査状況については概ね理解したよ。いくつか聞きたいことがあるんだけど――」
歩が事件について質問をしようとしたところで、「ペナント」に新たな来客が入ってきた。
「あれっ? 桂に香助に銀子。どうしたの?」
「よっ、歩に部長。奇遇だな」
「ペナント」に入ってきたのは歩と珠姫と同じく、将棋探究部に所属する桜井桂、土橋香助、中村銀子の三人だった。




