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新月の忌み子  作者: のすけ
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紅龍と蒼龍 1

「ヘパイストス様、どうぞお好きに料理してください。なにせこいつは俺に風の血統の瞳をえぐり出させる気でいたんですから」

 イオが父さんに言った。

「いや、それには及ばぬ。啓羅、ともにある場所に向かうぞ。訪れるには潔斎が必要な場所だが、ここで身を清めたのだからちょうど良かった。お前が今日この温泉を訪れたことさえ偶然ではないのだよ」


 潔斎、という事は神聖な場所なんだな。

 どこにある場所なの、と聞くことさえあまり意味がないと今では俺は知っていた。

 なぜなら父さんには人間が感じるような距離感や時間の感覚はないし、移動は一瞬だ。


 俺は滝の温泉で体を癒し、その後父さんに促されて衣服を纏った。

「イオ、ありがとう。俺行ってくるよ」

「ああ、啓羅」

 手を挙げてイオは俺と父さんを見送ってくれた。


 以前に鍛錬のため父さんに火星に連れて行かれた時と同じように、気がつくと俺は見たこともない場所に立っていた。

 夕暮れのような明るさの世界で、広い海原の中に浮かび上がってできた、岩の要塞のような島にいる。


 島のいたるところに古代に作られた白っぽい石造りで太い柱を持つ建物が立ち並ぶ。

 文明の証のようだけれど、今は誰一人住んではいない。

 壁はキュクロプスの世界と同じく、きらめくとりどりの色合いの鉱石を含んでボウっと淡く光を放ち、幻想的な風景を作っている。

 建物の間を縫う緩やかな上り坂の石畳の通りを歩いて突き当たりまで登り詰めると、目の前にひときわ豪華な造りの建物が現れた。


 太い柱の一本一本に天空を目指して登る龍の彫刻が施されている。

 この場所はきっと神殿か城だ。

 足元の床には俺の姿が映るくらい表面を滑らかに磨かれた白い石が敷かれ、青い石を配して炎をかたどった模様がいくつも規則的に描かれている。


 その時気付いた。

 俺はかつて夢でこの場所に来たことがあるぞ!


 ホールを奥に進むと周囲に足音が響く。

 どうしてここに俺は一人きりなんだろう?夢でそう思ったんだ。

 そうだ、その時誰かが俺を呼んで……。


「啓羅」と俺を呼ぶ声がした。

 父さん!


「父さん、ここはどこなのですか?」

「ここは、俺を祀った現世の神殿からこの世と繋がる異世界の空間だ。この島の周りの海は、ポセイドンの暮らす海と繋がっている。現世に暮らす人間の目には稀に蜃気楼の館として垣間見ることができるがな。ここの海ではクラーケンにも会えるぞ」


「そうなんですか、クラーケンに。ここに父さんは暮らしているのですか?」

「俺は人間のように日々の暮らしを営むという事はない。俺の存在、力、そう言ったものの拠り所と言ったところだな。啓羅よ、お前はお前自身を見据えて内在する力を自覚する必要がある。この場所はお前自身を高めるのに適している。この場所で己が宿す力を見つめ、解放するのだ」


 俺が俺自身を高める?

 解放するって一体どうしたらいいのだろう。


「どうすればいいんです父さん。父さんの力でタイタンの目を強化することはできないのですか?」

「啓羅よ、お前のタイタンの目の周囲に刻まれた言葉を覚えているか。『主の心に従え』この言葉の意味がわかるか」

「はい、『主の心に従え』その言葉、覚えています」

「だがその真の意味をお前は(いま)だ悟っていない。タイタンの目はその力にすがるものではない。お前自身が従えて統べるべきものなのだ。啓羅、自ら統べよ。人間の暮らすこの大地を救いたければ、心からの祈りをもって己を捧げ、力の手綱を取れ」

 そう言うと、俺の前からヘパイストス様の姿が消えた。


 己を捧げよ、か。

 でも父さん、今の俺に何があるというのですか?

 力もなく知恵も乏しく、キュクロプス達に助けられてやっとここまで来たというのに。

 でも、そうだ。

 俺はまだ命を長らえてこの世界に留まっている。

 守りたい、この世界を俺の意志の限り。

 そして取り戻したい、奶流を。

 そうか。

 誰かのせいに、何かのせいにするなってことなんだ。


 目よ、タイタンの目よ、俺に力を貸してくれ!

 俺はこの世界を愛している。この世界に暮らすたくさんの人間を愛している。

 タイタンの目よ再び開いてくれ!俺は守りたいんだ、この世界を。


 愛する人の顔を思い浮かべて、まだ見ぬ力に向かって俺は祈り続けた。

 何時間なのか、あるいは何日なのか。

 この場所は時の流れが曖昧で日の出も日没もないので、どれくらいの時が過ぎたのか知ることもできない。

 祈り疲れた俺は、神殿を出て淡く茜色に染まる周囲の切り立った岸壁を慎重に下って海岸に降り立った。

 打ち寄せる紺青の波を眺めていると、彼方の波間から何かが浮かび上がった。


「クラーケン!クラーケンじゃないか!」俺は声を挙げていた。

 クラーケンは二つの目をわずかに細めると、波間を塗って俺の方へ近づいてきた。

 しかし物言わぬ彼の脚の何本かは他の脚と色が違って細く、生々しい肉色をしている。

 新しく生えて来たもののようだ。

「お前、その脚……」


 そうだ、楼焔の流星雨がこの海も熱湯に代えて、おそらくクラーケンも何本かの脚を失ったのだ。


 そう思った時、額が疼いた。

 それは痛みのような熱を帯びた感覚に変わり、はっきりとした痛みになった。

 かつてこの目が開き始めた時の激しい頭痛を思い出す。


 痛みが増す中でまた俺は念じた。

 タイタンの目よ、俺に従い、力を解放してくれ!

 俺の思念と痛みがぶつかり合っているように思える。


 やがて、重力を無視するように体がゆっくりと宙に浮かんで頭痛が弱まった。

 ああこの感覚だ!

 周り中の視界が開けて気持ちが高揚する。

 やった!頭痛が消えタイタンの目が再び開いてるのがわかる。


「クラーケン、俺……」

 そう口にすると、波間から宙に浮いた俺を見つめていた彼はゆっくりと瞬きをした。

 そして俺は初めて心で彼の肉声を聴いた。


「ついに重力を手なづけたな。もうその金の補助具がなくとも、逆さ吊りになろうともお前は平気だぞ」

 彼は俺の両足首の金の輪を脚でさすと言った。

「その力を相手に食らわせてやることもできる」


「そうだ、父さんとの訓練で前にそうされた事がある。思い出したよ、他にも色々とね」

「啓羅、楼焔はこの海さえも煮えたたせて太陽を奪還し、多くの命が失われた。今度こそヤツを倒してくれ」

「ああ、もちろんだ!」


 今度こそ、楼焔を倒す。


 そう思って俺は首に下げた雷の短剣に触れた。

 この剣もさらなる味方だ、今の俺にはそれがわかる。

 剣は手の内で伸び、俺は鞘を払うと目の前の空間を切り裂いた。

 この剣で作った空間は敵を放り込んで閉じ込めることもできるが、俺の場合は自由に行き来できる。


 よし、まずは地底に還るぞ。

「またな、クラーケン」

 そう言うと彼は脚を一本持ち上げて見せ、静かに海中に沈んで行った。

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