スリープモード 3
頭の中で否定した。
幻惑なんてそんなはずがない、奶流が俺にそんな事をする理由がない。
ただ、彼女は心から俺の目のことを気にかけてくれていた。
俺の目を治す手掛かりを求めて風蓮渓谷を訪ねようとして。
そうだ。
奶流と出会ったのは森で、あの時彼女は楼焔に脅されていた。
あの時に、彼女が楼焔の奴に何かされたのだとしたら。
俺は顔を上げてプロメデに言った。
「プロメデ、多分これは楼焔てやつの仕業だと……」その時、俺の言葉を遮ってサイオンが言った。
「啓羅、楼焔だ。奴がまた地上に現れた。場所は、風蓮渓谷だ」
「え、風蓮渓谷に」なぜまたあの場所に楼焔が。
まずい。
俺に手当を施したせいで奶流が、摂津さんたちが狙われているのじゃないか、すぐに地上に戻らなきゃ。
俺はもうプロメデやみんなを顧みずに工房を飛び出すと、心に風蓮渓谷を念じて地底の空間を突破し、一気に地上に出た。
でもすでに遅く、俺の目に飛び込んで来たのは渓谷の森の静けさを破壊する轟音と、炎の地獄の光景だった。
風蓮渓谷の高く青い空にヒュウと音を立てては、いく筋もの白い光の軌跡が現れ、次々と雨のように地上に降り注ぐ。
だが、美しいその光は地上に到達すると爆音をあげ、一瞬にして周囲の森を樹々を焼く紅蓮の炎となり、あたりに黒煙を巻きあげた。
これは流星雨、クラーケンが暮らす海をも沸騰させた楼焔の仕業だ。
村は、家は、みんなはどうなったんだ?
大地を蹴って俺は空に駆け上がり、風炎と煙をくぐり抜けて村に急いだ。
その頃、突然の流星雨と山火事に晒された風蓮渓谷で、家の窓から外の様子を伺いながら摂津が言った。
「炎の気がここに近づいている。奶流、私達はこの場所を離れるべきかも知れない」
「狙われている、と言うことですか?」
「おそらくそうね」
急いでいくつかの大切な道具類や薬だけを携えると二人は家を出たが、その目の前に突如として流星舞う空中から降りて立ちはだかる者がいた。
炎のような赤毛と鋭く冷たい紅蓮の瞳を持つ男。その姿を見た奶流が息を呑んだ。
「やあ、お久しぶり。相変わらず美しいな、奶流」
「あなた、楼焔!」
「早くも俺の本名を覚えてくれたとは喜ばしい。奶流、派手な演出を用意して君を迎えに来たのだよ、さあ俺の手を取りたまえ」
満面の笑みで楼焔は言うと奶流に向けて手を差し伸べた。
「嫌です!」
奶流は後ずさり、楼焔の動きを見据えていた摂津が彼女を庇うように前に出た。
「楼焔さん、どう言ったお誘いかは存じませんが、あいにく奶流にはもうお相手がいるのよ。どうかお引き取りください」
摂津の言葉を聞いた楼焔は端正な顔を歪め、喉を鳴らすようにくつくつと笑い出した。
「お相手、ねえ。土臭いタイタン族の合いの子のことか。あれはノーカウントだ」
さらに楼焔は摂津に向かって言った。
「まあ、あれは邪魔な石ころではあったな。しかし、風の血統の瞳を植え付けたことで、あれの力は封じた。君たちにはとても感謝しているよ。ご老体、あなたは素晴らしい封じ手だ。世が世なら戦の参謀に迎えたいほどに」
その言葉を聞いた摂津は、臙脂のドレスの上に着けていた白いエプロンの下から右手を出すと、楼焔にスプレー缶を向けて奶流の体を押しやった。
「炎のバトルオーラ、この辺りの火事は彼の仕業よ。逃げて奶流。この悪党に私たちの力が利用された」
その瞬間、スプレー缶から白い霧が噴射され「うわっ!婆あ何をする」と楼焔が叫び両腕で顔を覆った。
「早く奶流、遠くへ逃げなさい!」
摂津は楼焔に向かってさらに一歩を踏み出しながら叫んだ。
楼焔に利用されたって、何のことなの?
でも、できない。
私だけ逃げるなんてことできない、私を助けて力になってくれた摂津さんを置いてなんて。
摂津さんのあのスプレー、あれは確か瀬識流が考えた台所用の消火剤だ。
おまじないで水の気を閉じ込めてるから小さくても強力だって瀬識流が言ってた。
それなら、これも効果があるかも。
着ている青いドレスのポケットを探ると、水の気が強い植物のエキスを集めた薬の原液の小瓶が手に触れた。
大事な薬。
もう一段階調合するとこれは啓羅のための火傷の薬になるのだけど。
水の気の消火剤を浴びた楼焔の両腕が赤黒く変色し、まるで火傷でもしたようになっている。
彼は紅い瞳を怒りにぎらつかせて摂津を突き飛ばし、彼女は地面に倒れた。
「摂津さん!」奶流は駆け寄った。
「痛たた、ひどいわ。ああ奶流、なぜ逃げないの?」
背中を地面に打ち付けて苦痛の表情を浮かべた摂津はそれでも言った。
奶流は無言で手にした小瓶の蓋を外すと楼焔の眼前に走り出て、彼に向かって一気に中身の液体を振りまいた。
すると楼焔の体に緑の光が刃物のように切りつけ、ジュウと言う音を立てて何かが焦げる臭いがした。
「ああっ、焼き切られる!痛い痛い、俺の顔があっ!」
楼焔が身悶えし、彼の動揺に感応するように、激しい流星雨が突然に止んだ。
その隙に奶流は摂津の腕を取って立たせ、森の方向に駆け出した。
湖の方へ、水のある方へ向かえば。
しかし行く手は流星雨が招いた山火事が拡がり道を塞いでいる。
「道がない。どうしたらいいの」背中を押さえた摂津を庇いながら奶流は呟いた。
その時背後から「待て。このじゃじゃ馬め!」と楼焔の声がした。
「奶流、俺の顔に傷をつけるとは。お前には少々調教が必要だ!来い!お前が従わなければその婆あは危険な封じ手としてここで処刑してやる」
仁王立ちした楼焔。
その顔の右頬から鼻の上を越え左の目の下にかけて、斜めに走る赤く新しい傷跡が見えた。
その時、彼の後ろから声がした。
「待て、悪党!摂津婆ちゃんと奶流に触らないで!」
そう叫びながら駆けて来たのは、刺股を槍のように構えた瀬識流だった。
振り向いた楼焔が小さな瀬識流を見て吹き出した。
「何だ?お前は」
「私は瀬識流よ。この放火魔、ストーカー」
瀬識流は刺股を振りかざすと、楼焔にたち向かった。
しかし次の瞬間、瀬識流の刺股は遠くに弾き飛ばされ、赤く細長い炎で作られた鞭を手にした楼焔は苦笑した。
「ふん。やれやれ地上随一の美女が住まう土地でありながら、出会うのはじゃじゃ馬にお転婆か」
瀬識流は悔しそうに楼焔を見ながら立ち上がった。
「坩堝はどこ?」と摂津が言う。
「村が火事なの、坩堝婆ちゃんは火を消すために残った。きっと奶流たちが危ないって、私に応援に行けって言ったの」
「ああ坩堝。神様お願いです、村と坩堝をお守りください」気丈な摂津が唇を噛んで祈った。
「瀬識流、無茶しないで。摂津さんを頼むわ」
まだ応戦しようと目論んでいる様子の瀬識流に向かって奶流は言った。
これ以上みんなを危険な目には合わせられない。
楼焔の狙いが自分だと言うのなら、せめてこの男とここを離れること、今できる事はそれしかないのかも知れない。
啓羅が必ず助けてくれる、ただそう信じて奶流は言った。
「楼焔、私があなたに従えば、これ以上この場所を破壊しないと約束してくれますか?」
楼焔は、赤い瞳を意地悪く揺らして奶流を見据えた。
「奶流よ、俺に従うか。その身を差し出す覚悟があると言うなら約束しよう」
「奶流、やめて」
「奶流だめだよ。啓羅が悲しむよ」摂津と瀬識流が悲鳴のように訴えた。
「茶番には飽きた。奶流、こっちへ来い!」
楼焔の両の瞳が怪しい光を放つと、奶流の左の首筋にあった紅い小さな痣が呼応するように光を帯びた。
熱い、そう感じて奶流はそっとその場所に手を伸ばした。
夢の中を歩くように地面の感触が曖昧になって、足が楼焔の方に向かって行く。
目の前に立った奶流の顎に楼焔が手を掛け、持ち上げて水色の瞳を覗き込んで言った。
「奶流、あの忌み子が助けに来ると踏んでいるのか。ああ、奴はじきに現れるさ。お前の目の前で俺に叩き潰されにな」
その言葉が終わるや否やドドドドッと周囲に重い爆音が響き、振動と共にあたり一帯が白い霧に包まれた。
周囲の木立を包んでいた炎が消えて「待て!楼焔」と、空中から声が響いた。
「啓羅!」奶流が、摂津と瀬識流が声をあげた。
薄らいだ霧の向こうの空中に現れた啓羅は、右肩に銀のランチャーを構えて摂津たちの周囲に広く円を描くように連射した。
ドシュドシュッ!と付近に重い音が響くたび炎がかき消えて水蒸気が立ち昇る。
「現れたな、忌み子め。ここで貴様を殺す」楼焔は啓羅を指差してそう言った。
「瀬識流、村の火事は消したよ。ここは俺に任せて、早く逃げて」
そう言うと啓羅はさらに一段高く駆け上がり、湖の方向に向けてランチャーを連射し続けた。
シューシューと白く沸き立つような霧の中から、激しい炎に遮られていた森の小道が黒く現れた。
「わかった啓羅、奶流を助けて」瀬識流はそう叫ぶと摂津の手を引いて走り出した。
村は、坩堝さんはもう大丈夫なんだ。
瀬識流と摂津さんもきっともう大丈夫、奶流は束の間安堵した、が。
「君はここで見物するがいい。プレゼントをあげよう」
楼焔が言うと奶流の首に真紅に輝くネックレスと、そして両の手首に二つの真紅のブレスレットが現れた。
「似合うぞ、白い肌に映えるな。俺はしばし忙しいゆえ、じゃじゃ馬の君には軽い拘束を加える。安心したまえ、ほんの遊びだ」
楼焔が口角を上げて笑うと、ネックレスとブレスレットは真紅の手枷と首枷に変わった。
さらにその三つは紅蓮の炎の鎖で繋がり、奶流の体は側の立木に繋ぎ止められていた。
「人質にするの?卑怯だわ!」
楼焔は水色の瞳で睨みつける奶流の手を取るとその甲に口付けた。
奶流はとっさに片手で楼焔が腰に携えていた短刀を引き抜くと、彼の首元に突きつけた。
だがその瞬間、炎の鎖がゴウッと音を立てて燃え盛り、奶流の全身に灼熱の痛みが走った。
「炎の鎖は俺の心だ。お前の肌を焼くことはない。ただ、あまり俺に逆らえばわからぬよ」
短剣を取り落とし、木の幹にもたれて痛みに耐える奶流を見下ろすと楼焔は言った。




