第9話
「どうぞ。」
「お邪魔しま~す♪って、えっ……?」
部屋に入った翼くんは、またしても絶句している。
「……」
「どうしたの?」
「いや……」
「すぐに作るから、適当に座っていてくれる?」
「う、うん……」
六畳一間の部屋には、簡易的な台所と調理家電の他、段ボールを棚代わりにして小さな鏡を置いた鏡台が壁際に、段ボールの上にテーブルクロスを掛けたちゃぶ台を真ん中に置いてある。
「……何も無いね。」
「引っ越してきたばかりだしね。それにあまり荷物を増やしたくないのよ。」
「どうして?」
「ん……何となく?」
「そっか……」
翼くんはちゃぶ台の近くに座り、私はエコバッグから食材を取り出して夕飯の支度を始めた。
そうだ。ちゃぶ台に気を付けて、って言っておかないと……
「翼くん、そのちゃぶ台……」
バキッ!ドサッ!
言いかけた瞬間、段ボールが潰された音が!
「うわっ!!な、何で?!」
翼くんの声に振り向くと、壊れたちゃぶ台の横に転がっている翼くんの姿があった。
「ゆ、百合ちゃんごめん!肘を着いたらテーブル壊れちゃった!」
「ああ、気にしないで。翼くんこそ、怪我は無い?」
「俺は大丈夫!ホントにごめんっ!」
「それ、引っ越しの時に使った段ボールだから。」
「えっ?!」
テーブルクロスを捲って、段ボールを見せてあげる。
「マジで段ボールだ……」
「だから、気にしないで。」
潰れた段ボールを避けて、テーブルクロスを畳の上に広げる。
「床で食事になるけど、いい?」
「うん……本当にごめん……」
「だから、もう気にしないで。」
台所に向かい、下ごしらえを再開する。
「そ、そうだ!何か手伝う事は無い?」
翼くんが立ち上がって、私の隣までやって来た。
「翼くん、料理できるの?」
「学校の調理実習はやってるよ~♪」
それって、ほぼ経験無しの部類よね……
「……庖丁が一本しか無いから無理かな。」
「そっか……」
翼くんは、しゅん……と頭を項垂れてしまった。まるで、耳と尻尾が垂れ下がったワンコみたいだ。
う~ん……段ボール壊したのを気にして、手伝いを申し出てくれたのかなぁ……だったら、何か……
「そうだ、炒め物をお願いできる?」
「やるやるっ♪」
途端に元気になった……やっぱりワンコ系……
そう思いながら、フライパンを用意する。
「まずは挽き肉を塊にならないよう、ほぐしながら炒めてね。」
「りょ~かいっ♪って、今日はカレーだよね?」
「そうよ。煮込む時間があまり無いと思って、キーマカレーにしたの。」
「もしかして、さっきから野菜を細かく切っているのは……」
「火の通りが早いから、煮込み時間が少なくて済むのよ。って、翼くん、手を動かして!挽き肉が塊になってるよ!」
「うわっ!ヤバいっ!」
それから翼くんは手を休める事無く動かし続け、私はその横でみじん切りした野菜や調味料を入れていき、あっという間にキーマカレーが完成した。
「頂きます。」
「頂きま~す♪」
二人で手を合わせ、ご飯代わりに買ったナンをちぎって、カレーを頂く。
そういえば、男性と一緒に料理をしたのって初めてかも……龍二と付き合っていた頃は二人とも実家暮らしの学生だったし、元夫は台所へ一歩も入らない人だったし……
「ん!旨いっ♪百合ちゃん、マジで天才!」
「そんな、大袈裟よ。」
「大袈裟じゃぁ無いって!女の子と一緒にご飯作ったのって初めてだったけど、楽しいもんだね♪」
「初めてなの?」
「うん♪」
まぁ、私も男性と一緒に作ったのは、初めてだけど……
それにしても、素直に美味しいって言って貰えるのは、嬉しいかも……
「百合ちゃん?」
「……」
元夫から美味しいなんて言葉を聞いた事が無い……
ご飯を作るのは当たり前だと思っていたし、まさかその事に気が休まらないと言われるなんて、思いもしなかった……
お義母さんからは、もっとまともな食事を食べさせろって言われていたけど……
「百合ちゃん?」
「……」
「百合ちゃん!!」
ハッ!
翼くんの声で、我に返った。
「どうしたの?」
「それはこっちの台詞だって!急に黙り込んでどうしたの?」
「あっ、ごめん……ちょっと考え事をしてた……」
「難しい事は後回しにして、温かいうちに食べちゃおうよ♪」
「そうね。」
再びナンをちぎってカレーを食べ始めた。
「あ~!マジで旨かった!百合ちゃん、俺と結婚して♪」
ぶっ!
ガラスコップに入れた食後のコーヒーを、思わず吹き出しそうになる。
「な、何を急に!」
「ダメ?」
「駄目に決まってるでしょ!」
「チェッ……百合ちゃんのケチ……」
こ、この小悪魔が……
「そんなに拗ねられても無理だから。」
「だって本当に思ったんだもん!こんな温かい百合ちゃんのご飯が食べられるなんて、幸せだろうな~♪って!」
「いつも、温かいご飯を食べていないの?」
「温かいって言っても、物理的ではなくて、気持ちが込められているって感じかな♪もう二十年以上食べて無いかも。」
「えっ?お母さんは?」
「いないよ。」
い、今、サラッと凄い事を言ったような……
言葉を失っていると、何かに気付いた翼くんが、取り繕い始めた。
「そ、そんなに暗くならないで♪いないって言っても、まだ幼稚園の頃に病気で死んじゃっただけだからね!」
「でも……寂しかったよね……」
「幼心にも、母親とさよならするって理解してたよ。それにちゃんと増岡さんがいたし、寂しくは無かったかな。」
「増岡さん?」
「お手伝いさんね。父親が仕事で忙しかったんで、俺の身の回りを世話してくれてたんだ。」
いくらお手伝いさんが傍にいるって言っても、寂しい時に抱き締めてくれる人は居なかったんだ……
もしかして翼くんが私に構ってくるのは、お母さんの代わりに、甘えたり気を抜ける場所が欲しいのかも……
そう思うと、無意識に翼くんの頭へ手を伸ばし、なでなでしていた。
「えっ?ゆ、百合ちゃん?!」
翼くんはキョトンとした顔をして、私を見ている。
し、しまった!いくら何でも27歳の男の子にする事では無かったかも!
「ご、ごめん!」
咄嗟に手を離すと、翼くんはガバッ!と縮こまって自分の膝に顔を埋めた!
「もうっ!カッコよく頼り甲斐のある男に見られたいのに、百合ちゃんの前だとうまくいかないんだけどっ!」
嫌がってる訳ではないのね……
再び手を伸ばして、翼くんの頭を撫でる。
「……私の前では、カッコつけなくてもいいよ。小悪魔ワンコにしか見えないから。」
「それも複雑……」
翼くんはきっと、ヒカルって人のように自分の悪口を言っている人にも、笑顔で何事も無かったかのように接しているんだろうな……華やかな世界にも、色々あるって言ってたし……
せめて私だけでも、普通の男の子のように接してあげようかな……
そんな事を思いながら、翼くんの頭を撫で続けた。