第89話
翼くんの本の話は、出逢いのバーから始まっていた。
───『胸ぐらをグッ!と引っ張られてお姉さんの顔が近付く!
お姉さんの唇が俺の唇に触れた瞬間、口の中にコク深いバーボンが一気に広がっていった!
「んっ!!」
ゴクッ!
冷たい筈のバーボンが喉元を通る時には.焼けるような熱さに感じる……
口の中が空っぽになると、そっと唇が離れていった。』───
うわわっ!いきなりこの話からなの?!しかもこの本って、全国で発売されてるよね?!は、恥ずかしい……
厳格な父親には、絶対に見せられない……
翼くんに気付かれないようこっそり溜め息をついて、読み進めていった。
───『『人として好きなのか、女として好きなのか、もう一度考えてみろ。』
親友のシュウから言われた言葉を、ずっと考えていた。その答えが出たのは、日帰り旅行のつもりが大雨で泊まりになった温泉旅行の時だ。
『翼くんにとっては、挨拶みたいなもの……』
笑顔を初めて見れた事が嬉しくて、衝動的にキスしてしまった時の事を思い出す。
本当に、本当に……触れただけのキスが、天にも昇りそうなくらい嬉しかったのに……
俺……マジだ……
人としても勿論、一人の女の子としても、百合ちゃんの事が本気で好きなんだ……』───
私も触れただけのキスは覚えている。あの時は何故キスをしてきたのか理解出来なくて、でも、ドキドキを抑えられなくて、必死に挨拶だと思い込もうとしていた……
───『元彼のリュウジが何故亡くなったのか聞いたのは、翌朝だった。雨上がりの晴れたきれいな空を見た百合ちゃんは、何かを怖がるように、目を背けた。
事故で突然亡くなった元彼や愛する旦那と離婚した心の傷は、俺が癒していけばいい……だけど、それは大きな勘違いだった。
出逢った頃の百合ちゃんに笑顔が無かったのは、仕事を辞めさせられ、知り合いの居ない地方で姑からの嫌がらせにあい、友人とも縁を切られ、実家にも帰して貰えず、百合ちゃんには心を閉ざすしか自分を守る術が無かったからだ。』───
そうだ……あの頃、元夫が実家を尋ねてきて、離婚届けを出していないと聞かされたんだった……そして翼くんは、スキャンダル対策の為に、連絡が取れない免許合宿へ送られた……
───『逢いたい……ただ、逢いたい……
スマホを取り上げられ、部屋の電話は外線が繋がらない、そんな中で考えるのは、いつも百合ちゃんの事ばかりだ。
無事に俺のマンションから脱出出来ただろうか……元旦那に怯えて俺の腕の中で震えていた百合ちゃんを思い出す。
抱き締めたい……大丈夫だと、俺が必ず守ると伝えたい……逢いたい……百合ちゃんの温もりが欲しい……
人を本気で好きになる事は、こんなにも胸が苦しくなるんだと、俺はこの時、初めて知った。』───
翼くんの本は、私への愛で溢れていた。まるで、壮大なラブレターみたいに……
───『初めてお互いの気持ちを確かめ合えたのは、映画の台本を読み合わせしていた時だった。動きもつけ、つい、百合ちゃんにキスをした事がきっかけだ。
俺に背中を向け、怒りに身体を震わせる百合ちゃんを後ろから抱き締め、必死になって言葉を紡ぐ。
「お願い……俺が百合ちゃんを好きなのと同じくらい、俺を好きになって……」
俺がどれだけ百合ちゃんを愛しているか、わかって……
お願い……俺の気持ちを受け入れて……
その後の事は、あまり覚えていない。
無我夢中で百合ちゃんの唇を塞ぎ、身体を抱え込むようにして、求め続ける。
百合ちゃん……好きだよ……ずっと、ずっと俺の傍にいて……
そんな気持ちを伝えるよう、心のままに、甘い吐息を絡ませ合った。』───
───『初めて身体を重ねたイギリスの夜は、一生忘れないだろう。
キスを落とす度に、色づいていく肌を……
唇から微かに漏れる、甘い吐息を……
一糸纏わぬ身体から伝わってくる百合ちゃんの温もりは、俺の中を何とも言えない幸せで満たしていく。
俺を、心から受け入れてくれる百合ちゃん……
本気で好きになった女性を抱く事が、こんなにも心が震えるとは……
「愛してる……」
溢れ落ちるその言葉さえも足りない……それ以上に、愛しく想うこの気持ちを、どうしたら伝わるか……
もっと……もっと……俺の全てを百合ちゃんに……
そんな想いを伝えるよう、言葉で、身体で、俺の全てを使って百合ちゃんを求め、愛を与え続けた。』───
───『妊娠が発覚し、親子で幸せに過ごす将来を夢見ていた時、事件は起こった。』───
あっ……元夫が起こした事件の事だ……
ここからは私の知らない、退院した後の翼くんの様子が書かれてあった。
───『思い通りに動かない右足を引きずって、マンションの部屋の中、必死に百合ちゃんの姿を探した。けど、どんなに探しても、百合ちゃんは居ない……
「百合ちゃん……」
部屋に一人残された俺の口から、思わず溢れる名前……どんなに愛しい人の名前を呟いても、返事は聞こえてこない。明け方まで二人で身体を重ね合ったベッドに、今夜から一人で眠りにつく。
それが今の俺にとって、どれだけ残酷な事か……』───
───『文字どおり、絵に描いたような、荒れた生活だった。全ての色が消えたモノクロの世界の中で、現実逃避するように毎日酒を飲んでいた。
テレビからも俺の事件は、日に日に姿を消していき、まるで俺は、もう不要な人間だと言われたかのような感覚に襲われた。
「誰か……助けて……百合ちゃん……」
こんな時でも無意識に呟く名前は、ただ一人……だけど、もう百合ちゃんは居ない……
「くっ!」
テーブルに置いてあった酒瓶の蓋を開け、記憶が無くなるまで、直接喉に流し込んだ。』───
私の知らない翼くんの様子に、読みながら涙が頬を伝った。
俳優の道も断たれ、歩く事もままならず、部屋の中たった一人で絶望感に襲われながら、酒に溺れて過ごす毎日……
私のせいで、こんなにも辛い思いをさせていたなんて……
「うっ……うぅ……」
泣き声を漏らさないよう、必死に抑える。
私に泣く資格なんて無い……酷い目にあわせておきながら、逃げるように翼くんの元を去った私なんかに……
微かに震える手に気付かれないよう、次のページをめくった。




