第88話
【どんなに長くとも夜は必ず明ける。】 ― シェークスピア
<約一年半後 ・ 百合子目線>
「Misa! See you next week!(ミサ!また来週!)」
「Bye-bye!(バイバイ!)」
抱っこしている美砂の手を取り、ベビーシッターへ手を振る。
「さて、お家に帰ろうね♪」
「あ~う~。」
最近は人見知りをするせいか、私がお迎えに行くと、美砂はご機嫌だ。
「今日も日差しが強いね~!」
少し見上げた空からは、射し込むような日差しが照りつけてくる。ふと、遠くの空に、雨雲を見つけた。
「おっと!スコールがくる前に帰らなきゃ!」
私は今、ハワイに住んでいる。翼くんが怪我を負った日、浦和くんに、従業員用の託児所が併設されているホテルでの勤務を、お願いした。
そしてハワイへ移住し、翼くんとの子供、女の子を産んだ。ハワイの美しい砂浜から、名前を美砂と名付けた。
住む所から産婦人科の病院まで手配をして貰い、浦和くんには本当に感謝しか無い。
一生働いて、恩を返さなきゃ……
勤務先である、ロイヤルインフィニティホテル・イン・ハワイの敷地を出て、徒歩5分で住んでいるアパルトメントに着く。その間には小さなスーパーもあり、買い物を済ませて、足早にアパルトメントの門まで帰ってきた。
「ふぅ……何とかスコールがくる前に戻れたね♪」
「あ~♪」
美砂の顔を覗き込みながら笑顔を向けると、美砂は嬉しそうな声を上げた。
ふふ!笑顔は翼くんにそっくり♪
その日もいつもどおり、アパルトメントのエントランスロビーを通り抜けようとした時だ。
ロビーのソファに座っていた人から声を掛けられた。
「百合ちゃん……?」
……えっ?
耳に優しく馴染んでくるこの声……自分から離れたくせに、ずっと待っていたような……
胸が高鳴りを押さえつつ、ゆっくりと振り返って、声の主に目を向ける。私が振り返ると、声の主は、嬉しそうにソファから立ち上がった。
「やっぱり、百合ちゃんだ♪」
つ……翼くん……
久しぶりに見る翼くんの姿に、ずっと蓋をしていた愛しい想いが溢れ出しそうになる。それと同時に、怪我を負った翼くんから逃げるように離れた罪悪感も……
「……っ!」
咄嗟に顔を背け、踵を返してその場から立ち去ろうとする。
「待って!まだ走れないんだ!」
翼くんの切迫詰まった引き止めに、思わず足を止めた。
走れないって……まさか怪我の後遺症……
押し寄せる罪悪感に俯いていると、明るく優しい声が聞こえてきた。
「百合ちゃん、見てて!俺、歩けるようになったんだ♪」
恐る恐る、翼くんに振り返る。翼くんは大地を踏みしめるかのように、一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ほら!もう日常生活には、困らないよ♪」
翼くんが怪我を負った時、事務所の社長である翼くんのお父さんから聞かされた話が頭を過る。
確か、自力で歩くのは、難しいかもしれないと……
翼くんは、どれだけ過酷なリハビリを重ねたんだろう……一番苦しい時に、私は……私は傍にいてあげられなかった……
懸命に歩いて私の前に立った翼くんへ、笑顔を向ける事も、掛ける言葉さえも見つからない。
「その……元気だった?」
俯き気味に視線を伏せる私を見て、翼くんはぎこちない笑顔を浮かべている。
こんな、苦しそうな笑顔にさせたい訳じゃぁ無い……
「うん……」
何とか声を絞り出して、頭を縦に動かす。
「えっと……話したい事があるんだけど、迷惑じゃ無ければ、部屋に上げて貰ってもいいかな……?」
「……うん。」
遠慮がちに尋ねてきた翼くんに返事をして、黙ったままアパルトメントの部屋へ招き入れた。
「どうぞ……」
「ありがと。」
美砂を寝かしつけ、小さなテーブルにコーヒーを置き、向かい合わせで腰を下ろす。暫くの沈黙の後、思いきって頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「えっ?えっ?な、何で……?」
「私、翼くんから逃げた……私のせいで怪我を負わせたのに……」
「なぁ~んだ!そんな事?」
えっ?
聞こえてきたのは、責める言葉では無く、明るい間の抜けた声だった。思わず頭を上げて、翼くんに目を向ける。
「事務所の社長から聞いたよ。俺の為に別れてくれって頼まれたんでしょ?」
「えっ?」
「社長、反省してたよ。百合ちゃんに悪いことしたって。」
でもそれは、親なら心配して当たり前の事……美砂が産まれて自分が親になってから、社長の気持ちはよく理解出来る……
「……で、これなんだけど……」
ぎこちない笑顔を浮かべながら、翼くんは鞄の中から一冊の本を取り出した。
「……これは?」
「読んで貰ったら、わかると思う。」
「わかった。」
「取り敢えず感想を聞かせて貰えたら嬉しいんだけど……」
「……?うん。」
不思議に思いながらも、翼くんから本を受け取る。タイトルは『雨上がりの晴れた空~ひとまわり離れた恋の詩~』、作者は『鳥井翼』。
「えっ?!これって……」
驚きのあまり、思わず翼くんの顔を見る。翼くんははにかみながらも、説明してくれた。
「うん……俺が書いたんだ。俳優とモデルは廃業して、ってか、元々夢だった物書きになったんだ。」
「そうなの……」
これが、翼くんが書いた本……
感慨深げに、表紙をめくった。前書きは数行だけが書かれてある。
───『【誠の恋をするものは、みな一目で恋をする。─ シェークスピア】
最初は憧れにも似た感覚だったかのもしれない。だけど、たぶん俺は、一目で恋をしたのだと思う。百合ちゃんと出会ったその日から……』───
これって、私との話なの?
目次を見るのももどかしいように、手早くページをめくり、本文を読み始めた。




