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第86話

 「な、何で……?」


何の明かりも無い、百合ちゃんの気配さえも感じない雰囲気に、思考が固まってしまった。


ゆ……百合ちゃんは?


嫌な予感が胸を覆いつくしていく。


「う……嘘だろ?」

「翼っ!待て!」


社長が止めるのも構わず車椅子から立ち上がり、自由に動かない右足を引きずりながら、リビングへと向かう。

勢いに任せてドアを開けて、ライトのスイッチを押した。


「百合ちゃん!」


明かりが付いたリビングは整然と片付けられてあり、生活感をまったく感じさせない。


「百合ちゃん!百合ちゃん!」


右足を引きずったまま、キッチンへと向かう。いつも見える所に飾られていたペアのマグカップの片割れが無く、男性の顔が描かれたカップだけが、虚しく残されてある。

それは明らかに、百合ちゃんがこの部屋から出て行った事を、物語っていた。


「こんなの……」


こんな事、信じられるかっ!


足を必死に引きずり、息を切らせながら、最後の望みとばかりにベッドルームへ行く。


「はぁ、はぁ……百合ちゃん……何処……?」


弱々しく百合ちゃんの名前を呼びながら、ドアを開けた。そこに百合ちゃんの姿は無く、化粧品や洋服など、百合ちゃんの私物だけが忽然と消えている。


「ゆ……百合ちゃん……何で……」


何で……出ていく理由なんて何も……


ベッドルームで呆然と立ち尽くす俺の後ろから、社長が声を掛けてきた。


「翼、すまない……必死に探したんだが、実家にも帰って無いらしく……」


えっ……?


その一言で、すべてを察した。


社長が追い出したんだ……俺と別れるように仕向けたんだ……

母親が死んで引き取られて以来、社長には逆らわず、専務の嫌味にも耐えて生きてきた俺の……やっと見つけた唯一無二の大事な女性ひとを……


「……帰ってくれ……」


怒りに震える拳を握り締め、背中を向けたまま呟く。


「子供がいると知っていれば……」


社長の言い訳がましい言葉を聞いた瞬間、自分の中で、何かがプチッと音を立てて切れた。


「出ていけっ!!」


こ、こんなの……受け入れられない……百合ちゃんが居なくなるなんて……


初めて俺に反抗された社長は暫く黙っていたけど、やっと絞り出すような声を出した。


「……明日、また来るよ。」


そう言い残して、社長は静かに部屋を出て行った。




 「百合ちゃん……」


部屋に一人残された俺の口から、思わず溢れる名前……どんなに愛しい人の名前を呟いても、返事は聞こえてこない。明け方まで二人で身体を重ね合ったベッドに、今夜から一人で眠りにつく。

それが今の俺にとって、どれだけ残酷な事か……


倒れるようにベッドに身体を横たえると、フワッと百合ちゃんが使っていたシャンプーの香りがした。


百合ちゃんは、確かにここに居た……一緒に寝て、何度も抱き締めながら朝を迎えて……

でも、もう残り香の主は居ない……


段々と胸が締め付けられるよう呼吸が浅くなり、涙が勝手に溢れ落ちてきた。


「うっ……うぅっ……な、何で……」


主の居ない残り香がする枕に顔を埋め、泣いた。こんなに泣いたのは、子供の頃に母親が死んだ時以来かもしれない。

ただ、ひたすら、百合ちゃんの温もりを求め、声を殺して泣き続けた。




 長い長い、暗くて出口の無いトンネルに迷い込んだみたいだ。明けることの無い夜に、色の無いモノクロな世界に、一人取り残されたような……毎日が、そんな感覚だった。


 テレビのワイドショーでは、俺の事件を連日放送していたが、事件から日が経ち、傷も癒えてきた今では、話題にものぼらなくなっていた。


 事務所の社長は、毎日、三食分の弁当を持ってくるが、ほとんど会話も無く立ち去っていく。腫れ物に触るような接し方が、余計に俺を苛立たせていた。


「あ……酒が無くなった……」


寝そべっていたソファから、ゴロンと転がり落ちるように下りて、テーブルに置いてあるスマホに手を伸ばす。リダイヤルして暫くすると、シュウが電話に出た。


──「おぅ!翼か!調子はどうだ?」

「まぁ、酒飲む元気はあるよ。」

──「まだリハビリ行ってね~んだろ?」

「行ったって、意味ねぇ~しな。」

──「意味ねぇって……」


シュウの苦笑いが聞こえる。俺も苦笑いを返しながら、話を続けた。


「酒が切れたから、持ってきてくんね?」

──「お前……あの量を全部飲んだのかよ……」

「やる事ね~し、暇なんだよ。」

──「ちゃんと食ってんのか?」

「シュウ、保護者みて~だな。」

──「その返しなら、ろくなもん食ってね~だろ。何か持ってってやるよ。」

「悪りぃ~な。」


通話を切って、思わず溜め息を吐き出した。


シュウにはお見通しか……


スマホをテーブルの上に投げ出し、再びソファへ身体を横たえた。


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