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第84話

 翼くんのお父さんが去って行った後も、その場から動けずにいた。


  『君が傍を離れてくれる事が、あの子を守る一番良い手段なんだ……』


翼くんのお父さんから言われた言葉が、重くのし掛かってくる。


私は……私には、翼くんと別れる事しか残されていないの……?


だけど、翼くんのお父さんが言う事も正論だ。また次に襲われたら、今度こそ殺されるかもしれない……私だけならともかく、翼くんまでも……


ふらふらと歩き、ナースステーションの横を通る。その時、カーテンの隙間から奥にある集中治療室が、少しだけ見えた。顔は見えないが、全身に包帯を巻かれた人が横たわっている。


  『鳥井さんの……』


翼くんの名字が聞こえ、はっ!と我に返った時には、もうカーテンは閉じられていた。


あの、全身に包帯が巻かれていた人は、翼くんなんだ……


そう思った瞬間、私の腕の中で少しずつ力が抜けていく血まみれの翼くんが、頭の中に蘇ってきた。


怖かった……翼くんが死んでしまうかもしれない恐怖で、震えが止まらなかった……


「翼……くん……」


震えそうになる身体をギュッと抱き締め、固く瞼を閉じる。


傍に居たい……翼くんの傍に居たい……だけど、傍に居る事が、翼くんを傷つけてしまう……


翼くんがこの世の中から消えてしまうくらいなら……いっそ……


決心を固め、その決心が揺らぐ前にと、病院を出た後、すぐに浦和くんへ電話をかけた。




 テレビの報道で事を知ったばかりだという浦和くんに、翼くんの容体を説明する。


「……という訳で、数日のうちに、意識も戻るそうです。」

──「良かったです。命に別状が無さそうで……」


報告を終えると、浦和くんの安心したような声が聞こえる。だけど、ここからが本題だ。


「それと、お願いがあるのですが……」

──「私に出来る事でしたら、何なりと。」

「実は……」


固めた決心を実行するには、どうしても、浦和くんに助けて貰う必要があった。結局、人に頼るしか出来ない不甲斐なさを押し殺し、必死になって協力を貰えるよう訴えかける。

渋っていた浦和くんは、最後には諦めたような口振りで、了承してくれた。




 浦和くんの協力を得れた事で、即、マンションへ帰り、スーツケースを取り出して荷造りを始める。


一日も早く出て行かなきゃ……翼くんの意識が戻る前に……


何かに駆り立てられるよう荷造りをしていた時、大名山で翼くんが買ってくれたペアのマグカップが目に留まった。それを手に取り、そっと撫でる。


「一緒に、色んな所へ行ったな……」


思い返せば、翼くんは出逢った時から、私の事を考えて、気遣ってくれていた。


バイト生活で苦しかった私に食費を出してくれて、私の作った料理を本当に美味しそうに食べてくれた……あの頃はまだこんなに好きになるなんて思ってもみなかった……


それから図書館へ行ったり、一緒に過ごすうちに、少しずつ惹かれていった……熱を出した時には、看病してくれたり、温泉へ行って帰れなくなった事もあったな……


初めて想いが通いあったのは、私のアパートでキスを交わした時……それでも戸惑う私に、ずっと変わらず愛情を注いでくれた……


イギリスで、やっと翼くんの愛情に応える事が出来た……初めて肌を重ね合わせた時の幸せは、今でも鮮明に思い出される。壊れ物を扱うかのように、私を怖がらせないように、本当に優しくて暖かかった……


ふと、マンションの部屋の中を見渡せば、一緒に料理をしたキッチン、笑いながらお酒を飲んだソファ、明け方まで何度も愛し合ったベッド……


その時、頬を一筋の涙が伝った。色々な事を思い出すうちに、胸が締め付けられるように苦しくなり、自然と涙が溢れていた。


「翼くん、愛してる……」


愛してるからこそ、一緒に居られないなんて……


私は……私は、なんて無力なんだろう……あんなにも大切にして貰い、愛してくれた翼くんに、寄り添う事も支える事も出来ず、死ぬかもしれない恐怖しか与える事しか出来ない……


  『何があっても、俺から離れないで……』


小さな頃から、家族の愛情に飢えて育った翼くんの切実な願い……だけど、それさえも叶えてあげる事が出来ない……


「っ……」


プッと張り詰めた糸が切れたように、止めどなく涙が溢れ出てくる。


結局、私は翼くんから逃げるだけだ……最悪の形で裏切る事になるんだ……


「うっ……うぅ……ごめん……約束守れなくてごめん……」


誰も居ない部屋の中、一人で涙が枯れるまで泣き続けた。




  ・

  ・

  ・

《翼目線》



『翼くん!目を開けて!お願いだから!』


暗闇の中で、百合ちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえる。


「大丈夫だよ……俺はここにいるよ……」


傍に行って抱き締めてあげたいのに、百合ちゃんが何処にいるのか、自分が何処にいるのかもわからない。


「百合ちゃん!何処?!」


叫ぶよう呼び掛けても、聞こえてくるのは、百合ちゃんの嗚咽を漏らすような泣き声ばかりだ。


「百合ちゃん……泣かないで……」


どうしようも出来ず、手を握り締めて俯いた時、急に眩しい光に包まれて、意識が浮上した。


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