第82話
元夫の姿を見た翼くんは、すぐに私を庇うよう前に一歩出た。
「何のご用ですか?あなたは接見禁止の筈ですが……」
翼くんの怒気を含んだ低い声が、元夫を牽制する。それがまったく意味を成していないように、元夫は虚ろな目で私達を睨み付けてきた。
「……お前の……」
元夫は聞き取れないくらいの小さな声で、ブツブツと何かを呟いている。
「お前のせいで……」
はっ!と息を飲んだ。元夫の手にはナイフが握られていたからだ。翼くんに知らせようとした直後、元夫が怒鳴りながら翼くんに切りつけた!
「お前のせいで、人生が滅茶苦茶だ!」
「うっ!」
咄嗟に庇った翼くんの腕から、血が飛び散る!
「お前のせいで、仕事も失った!住むとこさえも無くなった!どうしてくれるんだ!」
元夫は何度も何度もナイフを振り下ろし、その度に翼くんが顔をしかめる。
「死ね!!」
最後とばかりに翼くんめがけて、元夫が大きくナイフを振りかざした。だけどその瞬間を狙っていたかのように、翼くんは元夫の腕を掴み、後ろ手に捻りあげてナイフを叩き落とした。
「この野郎!離せ!」
た、助けを呼ばないと!
震える手を何とか抑えながら、バッグからスマホを取り出す。
「ぐっ!」
えっ……?
再び翼くんのうめき声が聞こえ、顔を上げると、元夫が封じられている腕とは違う手で、翼くんの太ももにナイフを突き立てていた。
う、嘘……
「へへ、ナイフは一本だと思ったか。」
翼くんは痛みに顔を歪めながらも、私に逃げるよう促してくる。
「百合ちゃん……逃げて……」
そ、そんな……翼くんを置いて……
そうだ!道路へ行けばタクシーの運転手さんがいる!
助けを求めに駆け出そうとすると、元夫が私の前へ立ち塞がった。
「百合子……一緒に行こう……」
元夫の目は、焦点が定まっていない。人を刺したというのに、顔には笑みさえ浮かべている。それが余計に恐怖心を煽る。
「嫌よ……もうやめて……」
震えながらも後退りし、首を振って拒否を示す。
「百合子……夫婦なんだから、死ぬ時も一緒だよな……」
な、何を言ってるの……?この人は自分も死ぬつもりなの?!
「天国で幸せに暮らそうよ……な?……今度こそ誰にも邪魔されないからさ……」
完全に正気を失っている元夫を前に、足がすくんで動けなくなった。それを見計らったように、元夫はナイフをギュッ!と握りなおす。
「百合子!これで永遠に僕のものだ!」
もう駄目だ!
反射的にギュッ!と目を瞑る!
……あれ?
覚悟していた痛みは無く、何かが私に覆い被さり、ドスッ……と、鈍い音が覆い被さった何かを通して身体に響いてきた。
「っ……」
くぐもったうめき声に、恐る恐る瞼を開く。そこには、私に覆い被さる翼くんの姿があった。
「つ、翼くん……?」
呼び掛けるも、翼くんの身体から少しずつ力が抜けていき、崩れ落ちていく。慌てて腰に手を回して抱き止めた。
ぬるっ……
抱き止めた手に嫌な温もりを感じ、ゆっくりとその手に目線を向ける。赤黒い鮮血が、みるみるうちに翼くんの背中に染みを広がらせていく。
「い…………嫌ぁ~!!!」
元夫は私の手と同じく鮮血に染まったナイフを握り締めたまま、その場にへたり込んでいる。
「け、警察ですか!人殺しです!」
騒ぎを聞き付けたのか、タクシーの運転手さんが何処かへ連絡しているのが聞こえる。
「翼くん!翼くん!」
泣き叫ぶよう何度呼び掛けても、翼くんは目を閉じたまま動かない。
「目を開けて!お願いだから!」
私は、力なく横たわる翼くんを抱き締める事しか出来なかった。




