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第81話

  【真の恋の道は、茨の道である。】 ― シェークスピア



 「どうしよう……」


就職の為の健康診断を受けた病院を出て、立ち竦んでしまった。


「まさか、こんな事になるなんて……」


頭の中では、さっきまで医師と交わしていた会話が、ぐるぐると回っている。



  ・

  ・

  ・



「に、妊娠ですか?!」


健康診断を受けた内科から産婦人科へ行くよう言われ、そこで告げられた言葉に、質問を返した。


「はい。丁度3ヶ月に入ったところですね。」


ま、まさか……月のものが遅れているのは、少し早い更年期だと思ってたのに……


「で、でも、ちゃんと避妊していました!」

「避妊は100%ではありませんし、複数回夫婦生活を行えば確率は高くなります。それこそ液のついた手で触れただけで妊娠した例もありますからね。」

「そうですか……」


私が浮かない顔をしていたのを悟ってか、産婦人科の医師は、パラパラと手元のカルテを捲った。


「あぁ、就職の予定があるのですね。」

「はい……」

「今は40歳越えても出産される方は増えてきていますが、やはりそれなりのリスクは付き物です。その辺も含めて、一度、パートナーの方とよく話し合って下さい。」

「……わかりました。」



  ・

  ・

  ・



 妊娠が嬉しく無いのかと言われれば、嬉しいに決まっている。かと言って、手放して喜べる状況でも無い。


元義母からは、子供が出来ない事で不良品扱いをされていた為、てっきり私に原因があるのかと思っていた。避妊もせずに、強引に何度も迫られた元夫とできなかった事で、油断してたかも……

いや、翼くんは毎回気を付けてくれていた……


「と、とにかく翼くんに相談しなきゃ……」


それからどうやってマンションまで帰ったか覚えていない。それほど動揺していた。




 その夜、翼くんからメールが届いた。明日から公開になる映画の舞台挨拶の打ち合わせで、帰宅が遅くなるとの事だ。明日は私も観に行く予定になっている。


「明日、舞台挨拶が終わってから話そう……」


不安を抱えたまま、一人でベッドに潜り込んだ。




 翌朝、不安を和らげるような心地好い温もりに包まれて、目が覚めた。


「ん……翼くん?」


薄っすらと目を開けると、穏やかな翼くんの寝顔が目の前に見えた。


この温もりに、無条件に身を委ねる事が出来たら、どんなに良いか……


またしても押し寄せる不安を振り払うよう、逞しい胸元に頬を擦り寄せた。


「……百合ちゃんが甘えてくれるなんて、珍しいね。」

「翼くん、起きてたの?」

「今、起きた……」

「ごめん、起こしちゃった?」

「大丈夫……幸せを感じただけだから。」


少し身体を離し、触れるだけのキスを交わす。そっと唇が離れていくと、翼くんはじぃ~っと私の顔を凝視し始めた。


「百合ちゃん、何かあった?」

「……何も。」


微笑んで答えるけど、翼くんはそれを信用しない。


「本当に?」

「幸せ過ぎて、怖くなっただけ……」

「そんな事……」


翼くんは再度腕の中に私を包み込み、子供をあやすように、頭をゆっくりと撫で始めた。


「何も不安になる事なんて無いよ……」

「うん……」


ゆっくりと優しく囁く声が、心に染み渡っていく。


私の中で、答えはまだ出ていない……だけど、帰宅したら翼くんと話し合おう……そうするうちに答えが見つかるかもしれない……


そう心に決めた。




 「百合ちゃん!急いで!タクシー来たよ!」

「ご、ごめん!バッグ何処に置いたっけ?」

「ソファにあるよ!」


翼くんと一緒に舞台挨拶が行われる映画館へ向かう支度を終え、ソファにあるバッグを急いで掴む。


「あっ!」


焦ったせいか、バッグの持ち手をつかみ損ねて、中身をばらまいてしまった。


「大丈夫?手伝うよ!」

「ありがとう!」


二人で散乱した荷物の前にしゃがんだ時、紙切れを拾った翼くんが固まった。


「百合ちゃん……これ、何?」


翼くんの震えるような声に、手元を覗く。その紙切れは、念のためにと昨日病院で貰った、中絶同意書だった。


「そ、それは……」

「……子供、出来たの?」


黙って頭を立てに振る。


「何で……何で黙ってたんだよ!何で相談しないんだよ!」


今までに聞いた事も無いような怒鳴り声に、ビクッ!と体が縮こまった。


「その……」

「何で勝手に堕そうとするんだよ!俺達の子供だろ!」

「そうよ!だけど!」


ここへ来て、昨日から押し込めていた涙が一気に流れ落ちそうになる。それを堪えるよう、手をギュッ!と握った。


「私だって嬉しいに決まってるわ!でも、お世話して貰った就職の事とか、高齢出産のリスクとか色々考えると、手放しで喜べないの!」

「……」

「今日、帰ってから話そうと思っていて……」


翼くんは痛々しげに目を細めて、ガバッ!と力強く抱き締めてきた。


「怒鳴ったりして、ごめん……」

「……」

「百合ちゃんは不安だったよね……」

「うん……」

「それでも、俺は産んで欲しい……百合ちゃんの不安は全部解消するから、帰ったらまた話そう……」

「わかった……」




 それから言葉少なに、二人でマンションを後にした。マンション前の道路には、タクシーが停まっているのが見える。そのままタクシーに向かおうとすると、エントランス脇の植え込みが不自然に揺れた。


「何だ?」


そう翼くんが呟くと同時に、ガサッ!と植え込みから人が飛び出して、私達の行く手を遮った。


「……っ!」


無精髭を生やし、ボサボサの頭、洗濯していないように汚れたよれよれの服、風貌が様変わりしているけど、見間違える筈が無い……元夫だった。


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