第52話
「百合子……酷いじゃないか……アパートに帰って来ないから、心配したよ。」
「……あの花束は、あなたなのね……」
はぁ……はぁ……息が苦しい……
「そうだよ。君が中々話を聞いてくれないから、花言葉にメッセージを込めたんだ。」
身体が震える……震えが止まらない……
「翼くんを陥れたのも、あなたね……」
元夫は、ニヤッと嫌な笑いを浮かべている。
目が……完全におかしい……普通の精神状態では無い……
「自業自得だろ。芸能界の薬物汚染は、怖いよな……」
翼くんが任意同行に応じた事は、何処も報道していない……ましては、薬物なんて当事者しか知り得ない……
「何故……こんな事を……」
「変な事を聞くんだね。妻である君を取り戻す為さ。」
「もう……あなたの妻では無いわ……」
「あんな裁判なんて、気にしていないよ。」
「何故……あなたは変わってしまったの……?昔はそんな人で無かったわ……」
「変わった?そうだな……他の男に笑いかけた君がいけないんだろ?」
「な……何の事よ……」
「ホテルなんかで働いて、ヘラヘラ他の男に媚びを売ってたじゃないか。夫として、見過ごす事なんて出来ないさ。」
フロントの接客をしていれば、当たり前の事……
歪んでる……この人は歪んでいる……
「さぁ、僕の百合子、行こうか。もう他の誰も気にしなくていいよ。僕だけが君を大切に出来るから。」
「行かない……」
「あぁ……やっぱり、あの男に悪い影響を受けたんだね……僕に従順な百合子を、取り戻してあげるよ。一緒に帰ろう。」
足がガクガク震える……に、逃げなきゃ……
そんな私に構わず、元夫が手を差し出してくる。
「嫌……」
「何か言ったかい?」
「……絶対に嫌っ!」
「百合子!来るんだ!!」
つ、掴まれるっ!
身体を固くした時、腕を掴まれる感覚は無く、代わりにガバッ!と抱き締められる感触が、身体を包み込んできた。
「百合ちゃん!」
つ、翼くん?
「確保!」
元夫は、マンションにも来ていた捜査員達に、取り押さえられている。
「これは一体……」
「封筒が届いた日のマンションの防犯カメラに、元旦那が映っていたんだ。ただ、封筒を投函した証拠が無いから、百合ちゃんの前に現れるのを待っていて……怖い思いをさせて、ごめんね……」
「私……助かった……の……?」
「うん、もう大丈夫だよ……」
足がガクガク震える私を支えるように抱き締め、背中を擦ってくれる。
翼くんの腕の中だ……少しずつ震えが止まっていく……
「鳥井さん、ご協力感謝します。」
捜査員が軽く頭を下げながら、私達に近寄ってきた。
「さっきのやり取りで自供したようなものですが、ひとまず森崎さんへの暴行未遂と誘拐未遂の容疑になります。森崎さん、お手数ですが、被害届の提出をお願い出来ますか?」
「はい……わかりました……」
これで……これで、終わった……これで本当に悪夢が終わったんだ……
被害届はその日のうちに提出し、ついでに週刊誌で騒がれていた時の脅迫状も付け足し、元夫は逮捕となった。元夫のマンションはリフォームされてあり、外から鍵を掛けて自由に出入り出来ない部屋が作られていたそうだ。
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《翼目線》
「これで荷物は最後になります。」
「ありがとうございました。」
百合ちゃんが引越し業者にお礼を言い、玄関のドアが閉まって、本格的な同棲が始まった。
荷物とは言っても、大した量は無い。
「百合ちゃん、アロマディフューザーは寝室でいい?」
「うん、ありがとう。」
「ベッドも買い換えようかなぁ~。」
「勿体無いって!今でもセミダブルなんだよね?!」
「でも、百合ちゃんと一緒に寝るし……でも、狭い方が密着出来るか……」
ブツブツと呟きながら考え込んでいると、百合ちゃんはふわっとした笑顔を向けながら、キッチン周りの荷解きを始めている。
「あっ、そのカップ!」
「こっちでも使いたいと思って……」
はにかむ百合ちゃんの手には、大名山で俺が買ってプレゼントした、ペアのマグカップがある。
「せっかくだし、早速使う?一息入れようよ♪」
「そうね。」
マグカップにコーヒーを入れて、ソファへ座る。二人並んでゆっくり飲んでいると、やっと一緒に暮らす実感が湧いてくる。
「百合ちゃん、このマグカップの柄、気付いた?」
リビングのテーブルに置かれた百合ちゃんのマグカップに合わせるよう、俺のカップも置く。
「男の人と女の人が、キスしているみたいでしょ?」
「うん……気付いてた……」
「早く百合ちゃんとこうなりたいって、願いを込めてみたんだ♪」
「そうなんだ……そんなに前から……」
恥ずかしそうに俯く百合ちゃんの顔には、心からの笑みが浮かんでいる。
「これで、やっと、毎日キスが出来るようになるね……」
「うん……」
百合ちゃんの肩に手を回して、顔を近付ける。
「百合ちゃん……大好きだよ……」
嬉しそうな笑顔を浮かべる百合ちゃんの唇を、そっと塞ぐ。そのキスは、すぐにお互いの気持ちを確かめ合う深いものに変わっていく……
「ん……」
角度を変えた唇の隙間から漏れる吐息に、一瞬我を失った。
ドサッ!
抵抗されないよう腕ごと抱き締め、そのままソファへ押し倒す。
「……っ!」
百合ちゃんの身体が固くなり、ハッ!と我に返った。
「ご、ごめん!つい!」
「……」
「ホントごめんね……」
百合ちゃんの腕を引っ張り、ソファから起き上がらせる。
「百合ちゃん……今日は……」
ガバッ!
えっ?えっ?
百合ちゃんを怖がらせないよう、別々で寝る提案をしようとした時、いきなり百合ちゃんが俺に抱きついてきた!
「謝らないで……」
「……百合ちゃん?」
「私、翼くんに会わなければ、怖いって感覚も無かった……」
「……」
「元夫に閉じ込められている事にも気が付かなかったの……それくらい、自分の感情を無くしていて……」
出会った頃の百合ちゃんを思い出す。
泣く事も笑う事も無かった……何も感じない、全てを諦めたような、そんな顔をしていた……
「だから、怖いって思える事は、幸せな事なの……翼くんが傍に居てくれる証拠なの……」
百合ちゃんが俺の事を、そんな風に思ってくれているなんて……
「百合ちゃん……」
ど、どうしよう!こんな感動的な場面なのに、今すぐ押し倒したいっ!
が、頑張れ俺!我慢しろっ!
無病息災、心頭滅却、粉骨砕身……
百合ちゃんを抱き締めながら、頭の中で四字熟語を思い浮かべて生理現象を抑える事に努める。
「翼くん……ありがとう……」
「どういたしまして……」
百合ちゃんは安心しきったように、目を閉じて俺の胸に顔を埋めている。
百合ちゃんって、天然で小悪魔だよな……
今夜も、一人我慢大会開催決定……
こうして、煩悩と闘う修行僧のような日々が、幕を切って落とされた。




