第32話
仲居さんが出ていった後、二人の間に微妙な空気が流れる……もう一度温泉を楽しむのも、豪雨の中では無理な話だ。
「百合ちゃん……て、テレビでも見ようか。」
「な、何かやってるかしら……」
リモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
『梓……もう我慢出来ない……』
『誠二さん……私には夫が……』
『そんなの構うものか!』
『あ……そ、そんなところ……いけませんわ……』
プチッ!
速攻で電源を落とす……
い、今のって、かなり過激な内容だって話題の昼ドラじゃないっ!何故、こんなタイミングで!
ど、どうしよう……
一人、あたふたしていると、翼くんの笑い声が聞こえてきた。
「ぷぷっ♪百合ちゃん、そんなに緊張しないで!」
「き、緊張なんて!」
「大丈夫だよ♪襲おうにも、避妊具持ってきて無いからさっ!」
「ひっ、避妊……」
言葉に詰まる……な、何て返せば……
「まっ、百合ちゃんが俺の子供を産んでくれるんなら、大歓迎だけどね♪」
「む、無理っ!色々な意味で!」
「色々って、なぁに?」
「色々は色々なの!」
「ふ~ん、残念♪」
い、いつもに増して、遊ばれている気が……し、心臓に悪い……
「どうせなら、さっきの続きで背徳な気分を味わっちゃおうよ~♪」
「……さっきの続き?」
「そっ!明るいうちからお酒飲んで、早めに寝ちゃおうよ♪明朝は早起きしないといけないしっ!」
「そ、そうね!翼くん、名案♪」
「でしょ~♪」
そ、そうよね……翼くんが私とどうこうしようなんて、考えている訳無いじゃない!
「百合ちゃん、美味しそうなワインでも頼もうよ!ボトルでさ♪」
「いいわね!」
早速、いつでも寝れるよう浴衣に着替えて、ワインを注文した。
「美味しい~♪」
見たことも無い発泡ワインに、テンションが上がる。
「これ、海外で活躍したサッカー選手が気に入って販売を始めたワインだよ!綺麗なワインレッドだよね~♪」
「うん、うん!それに、フルーティーで飲みやすいわね♪」
「酔ってもすぐに寝れるって、最高!」
「翼くんは家飲みしないの?」
「俺ん家、誰も招いた事無いからさ!飲む時はもっぱらシュウの親父さんが経営してる店へ行くんだ。」
「そうなのね。」
今日宿泊予定だったお客様が来れず、キャンセルになったとの事で、温泉宿の方がおつまみをサービスで出してくれた。
美味しいワインに美味しいおつまみを頂きながら、話に花を咲かせる。
って、お酒臭いままバイトへ行く訳にはいかないわよね……適度にしておかなきゃ……
そうして飲んでいる時、コトッと翼くんが真面目な顔をして、ワイングラスをテーブルへ置いた。
「どうしたの?酔ってきたの?」
翼くんはワイングラスを弄びながら、俯き加減にそれをじっと見ている。
「百合ちゃん……この前の、怒ってない?」
「この前のって?」
「その……送っていった時にキスした事……」
あっ……あの時の……
「だってあれは、翼くんにとって挨拶みたいなものだし、びっくりしたけど怒っては無いわ。」
「そう……俺はちょっと怒ってる……」
「えっ?な、何で?」
「だって……百合ちゃん、忘れてるでしょ?」
「何を?」
「心から笑ったら、熱いキスするって言ってた事……百合ちゃん気付いていないかもしれないけど、あの時も今日も笑ってるよ。」
そういえば私、自然と笑っているかも……気が付かなかった……
「……もしかして、それで?」
翼くんは、黙って頭を縦に動かした。
で、でも……流石に熱いキスは……
「翼くん……そ、その……」
「いいよ。気持ちが込もって無い熱いキスなんて、お互い楽しく無いもんだし……」
「う、うん……」
「だから……」
翼くんが顔を上げた。そこには、悪戯な笑みが浮かんでいる。
い、嫌な予感……
そう思った瞬間、翼くんはゴロンと私の太ももに頭を乗せて、横になってきた!
「へへっ!百合ちゃんの膝枕ゲット~♪」
「ちょ、ちょっと!翼くん!」
「今回はこれで許してあげる♪」
悪戯が成功したかのように笑う翼くん……やっぱり小悪魔……
「翼くん、寝るなら、ベッドルームの方がいいわよ。」
「ここがいいの!ちょっとだけいいでしょ♪」
「後で、ちゃんとベッドで寝てね。」
「は~い♪」
ふふ!何だか可愛い♪
じゃれてくるワンコみたいな翼くんの頭をそっと撫でる。
「百合ちゃんの手、気持ちいい♪」
「そう?」
「何だか落ち着く……」
翼くんは幸せそうに微笑みながらそっと目を閉じて、静かな寝息を立て始めた。
疲れていたのかな……いつも忙しいのに、私にも気を遣って……
翼くんの髪の毛、ふわふわ……やっぱりワンコ……
頭を撫でているうちに、私までウトウトし始めた。
・
・
・
《翼目線》
あれ?百合ちゃんの手が止まった……
「百合ちゃん?」
そっと目を開けてみると、座椅子に凭れてウトウトしている百合ちゃんが見えた。
起こさないようにゆっくり起き上がり、普段の印象よりは少し幼く感じる百合ちゃんの寝顔をじっと見る。
「……挨拶な訳無いじゃん……」
百合ちゃんの言葉に、少なからずショックを受けている自分に気づいた。
笑顔を初めて見れた事が嬉しくて、衝動的にキスしてしまった時の事を思い出す。
本当に、本当に……触れただけのキスが、天にも昇りそうなくらい嬉しかったのに……
「俺、気持ちが無くても熱いキスくらい出来るし……」
なのに、百合ちゃんとは、気持ちが込もっていないと嫌だって思った……
俺……マジだ……
人としても勿論、一人の女の子としても、百合ちゃんの事が本気で好きなんだ……
「……」
百合ちゃんにとって、俺は小悪魔ワンコ……でも、少しずつ俺に気を許してくれているよな……
「はぁ……手強いなぁ……」
そっと百合ちゃんを横抱きにして、ベッドルームまで運ぶ。起こさないようにゆっくりベッドの上へ降ろし、その隣に俺も横になった。
「百合ちゃん……俺、本気だから……」
誰にも聞かれる事が無い本音を漏らし、寝ている百合ちゃんの額に、そっと触れるだけのキスを落とした。




