第2話
「ちょっと!翼、大丈夫?」
はっ!
モデル仲間の女の子の声で我に返る。
「もうっ!あのオバサン、何なのよっ!いきなりキスするとか有り得ないんだけど!」
「あれ?お姉さんは?」
店内を見渡しても、お姉さんの姿が無い。
「オバサンなら、出ていったわよ。」
「マジで?」
急いで立ち上がり、店の外へ走り出た。
ダッシュで階段を駆け登って通りを見渡したけど、お姉さんの姿は見えない。
「はぁ……はぁ……何処だ……」
追いかける必要なんて、何処にも無い……無いのに、勝手に身体が動いていた。
「女の子からキスされたのって、初めてかも……こういうのって、普通は男からするもんだと思ってたのに……ヤバい……想像以上に嬉しいかも……」
あれ?俺って、意外とM体質?いやいや……痛いの嫌いだし……
「……」
もう一度、逢いたいな……
店へ戻り、マスターに探りを入れた。口が固かったけど、お姉さんは二度とこの店には来ないだろうという事だけは、教えて貰えた。
今まで一晩だけの関係なんて、いくらでもあった。なのに、たった一回のキスが忘れられない……
自分でも言い表せない不思議な感覚だった。
「ってか、味見したいのは酒じゃないし……」
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《百合子目線》
「ったく!子供が大人を舐めるんじゃないわよっ!」
大股で店の外階段を登り、通りかかったタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで行かれますか?」
「四丁目の黒坂マンションまで。」
「かしこまりました。」
タクシーが動き出し、シートに深く沈み込みながらため息をついた。離婚に向けて、やる事はたくさんある。
明日から少しずつ荷造りしなきゃ……
『元彼を忘れさせてあげます!』
夫とはこの一言で結婚を決め、夫の転職で夫の地元へ引っ越し、それをきっかけに私は仕事を辞めて専業主婦になった。
知り合いがいない土地、何かにつけて嫌味を言いにくる姑、文句を言われないよう毎日暇があれば掃除に明け暮れ、食事も完璧なまでに用意をした。
はぁ……子供が居なかったのが、せめてもの救いね……
夫が満足するだけの義務的な夜の営みだけは、苦痛でしか無かった。いつしか、うたた寝のフリをして、私はソファで寝るようになっていった。
「ただいま……」
誰も居ないだろうけど、癖なのか、玄関を開けた時につい言ってしまう。
「遅かったな。離婚が決まったと同時に夜遊びか……」
「……今日も未来の花嫁さんのところへ泊まるのかと思ってたわ。」
私よりも早く帰宅してリビングのソファに座っていた夫を見向きもせずに、キッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
ゴクッ、ゴクッ……
冷たい水が身体に染み渡る……
ふぅ……と一息ついた時、夫が話し掛けてきた。
「明日は弁護士が来るから。」
「そう……」
「財産分与の話だ。」
「わかったわ。」
暫くの沈黙の後、夫が再び口を開いた。
「なぁ……君は僕の事を愛していたか?」
「……今更そんな事を聞いてどうするの?」
「僕は……高嶺の花だった君が結婚してくれて嬉しかった……だけど、いつも、この世にいない君の元彼の影に怯えていた……」
「……」
「いつも、いつも、僕に抱かれながら元彼の事を考えていると思うと、堪らなく不安だった……」
ホント、今更ね……プロポーズの言葉も忘れてしまったみたい……
「君は常に完璧な主婦で、生活感が無い綺麗な部屋、家庭料理というより料亭のようなご飯……それが僕にとってはプレッシャーだった……完璧な夫にならないといけないと……」
「……」
「それに、引っ越してからどんどん君の笑顔が消え失せていって……いつしか君の顔色ばかり気にするようになって、僕は一時も気が休まる事が無かったよ……」
「それが浮気した理由?」
「……安らげる場所が欲しかったんだ……」
「そう……つまり、浮気の原因は私にあると言いたいの?」
夫はガバッ!とソファから立ち上がって、声を荒げた。
「ち、違う!そんな事を言っているんじゃ無い!」
「そう言っているように聞こえたわ。」
「……」
「もう止しましょう……あなただけを責めるつもりは無いわ。」
不思議と、悲しいとか寂しいとか、怒りさえも起こらない……それほど私の気持ちも離れていたのだろう……離婚を切り出された時、何処かでホッとしている自分にも気付いている。
だから、夫を責めるつもりが無いのは、本心だった。
「……では、マンションはローンの残りも含めてご主人様、預貯金は奥様という事で、宜しいですか?」
「はい。」
「大丈夫です。」
翌日、弁護士さんを交えて財産分与の話と、離婚届の署名をした。
「役所への提出はどうする?」
「君は荷造りで忙しいだろう。僕が出しておくよ。」
「わかったわ。」
話し合いは、あっさりと終わった。夫は新しいお嫁さんと産まれてくるだろう赤ちゃんの為に、マンションを希望し、仕事を見つけるまでの生活費が欲しかった私は、現金を希望した。
弁護士さんが帰り、私は淡々と荷造りを始めた。クローゼットの入り口に夫の気配を感じたけど、手を休める事なく、黙々と作業をする。
「今日は、あっちに泊まるから……」
「そう……」
「明日、仕事が終わったらここへ戻ってくるから、一緒に食事をしないか?君の本音を聞きたい。」
「本音?」
「僕が離婚を切り出した時、君はまったく動揺しなかった……泣く事も怒る事も僕を責める事も……」
「……そんな感情は忘れてしまったわ。」
「せめて最後に君の本音を聞きたいんだ。」
私の本音……作業の手を止めて、夫へ目を向けた。夫は、余裕の無い、不安そうな顔をしている。
「私の本音は……」
「……」
「どうせ別れるなら、7年前に別れて欲しかったわ……」
「7年前って……」
7年前……結婚してから3年が経ち、いきなり転職と引っ越しを告げられた。
正社員としてホテルで働き、英語力を生かしてフロントの海外観光客の応対を任されていた7年前なら、離婚しても生活に何の不安も無かっただろう。
「何故7年前、いきなり地元へ戻ったの?」
「……君が働いているのが、不安だったんだ……新しい出会いがあれば、僕から離れていくかと思って……君を独り占めしたかった……」
その結末が離婚なんて、笑えないわ……大切にしたいというより、篭の中に閉じ込めておきたかっただけね……
そんな意図にも気付かず、少しずつ羽根を奪われ、飛ぶ事も鳴く事も忘れてしまった鳥のよう……
「……あと、ここへ新しいお嫁さんと住むのなら、お義母さんから合鍵を返して貰った方がいいわよ。」
「何で母さんの話になるんだよ!時々しか来ていないじゃないか!それに、合鍵は万が一の為に渡しているだけだ!」
「あなたがいない時、週に二、三日は来ていたわよ。」
「嘘だろ?」
「カーペットに髪の毛一本、流し台の水滴一つも許して貰えなかったわ。」
「まさか……じゃぁ、君が完璧に家事をしていたのって……」
「……あなたにとって安らぎの場所で無かったのと同じように、私にとっても家庭は安らぎの場所では無かったのよ。」
「……」
夫は何かを堪えるようにギュッと拳を握っていたけど、何も言わずに、部屋を出ていった。
バタン……
玄関ドアが閉まった音が聞こえたと同時に、息苦しさを吐き出すよう、大きなため息をつく。
一刻も早くここから出ていきたい……誰にも干渉されず、自由になりたい……
手早く荷物をまとめて実家へ送り、最終の新幹線に飛び乗った。