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やがて、各々が食事を終えると、麗眞が携帯電話を取り出してどこかに連絡を入れた。相沢、という単語が聞こえたところを見ると、きっとあの執事だろう。お会計はカード一枚で支払ったことに驚きを隠せなかった。店の外にはさっきと同じリムジンが停まっていた。
先に予定があるという深月から送ることになった。車を三十分走らせて彼女の家に到着した。色とりどりの草花が植えられた庭と重そうな黒い門が印象的な家だった。その扉を両手で奥に押しやった深月は、車越しに手を振ってから一礼する。礼儀正しいのは、カウンセラーだという母の教育の賜物であるようだ。玄関の扉が閉まっていくのを車内から見送る。
その次は碧の家に向かうという。深月の家から十分もしないうちに、車が家の前で停まった。
「じゃあ、またね。楽しもうね、オリエンテーション」
それだけを言うと、彼女の家の白い玄関のドアは閉まった。
それを見送ると、車は理名の家に向かうと思われた。気がつけば車外の景色は紅い日に照らされ始めていた。いつもならば重い腰を降ろし、シンクに溜まった食器と格闘を始めている時間である。しかし、通るだけで通行人の痛い視線を浴びるリムジンは、理名の家をあっという間に通り過ぎて行った。
「え、ちょ……。私の家、もう過ぎてるんだけど」
そんな理名の声が聞こえているのかいないのか、ハンドルを鮮やかに操る相沢は軽く微笑むと、車を走らせ続けた。
車はそびえ立つヨーロッパ風建築が真ん中に佇む、広大な敷地へと入っていった。理名は、自分の父がたまに観ているアメリカメジャーリーグの野球場が五個は入りそうだ、と思った。しかし、麗眞や相沢、椎菜があまりにも平然とした顔をしているので、言い出せなかった。敷地が広すぎる。邸宅より豪邸と呼んだ方がそれに相応しい家を見上げて、ただ、口をあんぐりさせるしかなかった。
「ここって、まさか……」
「そのまさか、でございます。理名さま。ようこそ、宝月家へ」
最後のようこそ、のくだりとの麗眞とのハモリで絆の強さを見せつけられた気がした。住む世界が違う、と眩暈を起こしそうになるのを堪える。
椎菜に続いてリムジンから降りて、玄関まで歩く。既に執事の手によってドアは開けてある。そこに歩を進めた。
「いらっしゃいませ! ようこそ、宝月家へ!」
ずらりと並んだスーツ姿の男女が、玄関先に並んで出迎えていた。理名は思った。ただの、家主の友達ってだけで、こんな感じに出迎えるものなのか、と。その証拠に、麗眞と相沢は列に驚く様子もなく素通りしている。どこぞの高級ホテルのロビーのような内観に、上を見上げては目をせわしなく動かす理名との差は歴然としていた。カウンターには案内係としてなのか、後頭部で髪を束ねた女性と、無精髭が逆に色気を醸し出す、四十代くらいのオジサンが立っていた。よく、こんな建物を日本に建てたなと尊敬する。
「初めての人は皆、ここに驚くの。そんなにすごい?」
そりゃ、麗眞くんは見慣れているだろうけど、こんな高級ホテルとか建物とは縁がないパンピーとは違うの! と理名は心の中で抗議した。
それにしても、なぜ麗眞は、深月や碧は呼ばず、理名だけをこの豪華すぎる家に招待したのだろう。こんな疑問が浮かんできた。理名が片親しかおらず、自分一人のために夕食を作る虚しさを汲んでのことだったのだろうか。皆は、理名自身のことを『不幸な身の上の高校生』というイメージを作り上げているのではないか。自分はそんなに弱い人間ではないし、この身の上を不幸だとも思っていない。一応、こんな両親の元に生を受けたからこそ、今の自分のアイデンティティーがあるのだ。
「理名ちゃん、大丈夫?」
椎菜の凛とした声が、理名の耳に届いた。
「何か、考えごと?」
「うん……まぁ、そんなところ」
言葉を濁すと、横から麗眞が口を挟んだ。
「なんで深月ちゃんとか碧ちゃんも呼ばずに自分だけ? とか思ってたんだろ、多分。どうせなら、自分で自分のために作った料理じゃなくて、『人が自分のために作った、ちょっといつもとは違う高級な味』を楽しませるためには、ここが一番だなって思っただけ。それに、ここなら飲み会だっていう親父さんにも友達の家に泊まってるって言えるし。理名ちゃんはお客様なの。分かる?客人に変な気を遣わせるのは趣味じゃないから、気楽に楽しんでよ。こんな家に泊まれるの、滅多にないぜ? まぁ、世界中のホテルを探しても、ここよりサービスがいいところはない。俺が保証するよ」
上から目線が鼻につく嫌なやつ、という印象だったけれど、意外に気遣いや優しさも垣間見えた気がして、顔を綻ばせた。
すると、靴のヒールが床を叩く音が近づくのが聞こえた。それは、理名たちの目の前で止まる。理名が見たことのない顔だった。シャンプーの宣伝に出てきそうなくらい、サラツヤな茶髪の女性。長さは、胸元を超えた辺りまである。その毛先は、内を向いていた。年齢は二十代半ばだろうか。小花柄の七分袖ワンピースを着た女性が立っていた。ピンヒールを履いているため、実際の身長は分からない。その女性の後ろには、相沢と同じ風貌の男性がいた。
「あら、麗眞が椎菜ちゃん以外の子を連れてくるなんて、どういう風のふきまわし? 珍しいじゃないの」
その女性の問いかけに、麗眞は眉間に寄った皺を隠す素振りも見せずに言い放った。
「うるさいな、いちいち突っかかんなよな、姉貴。全く。弟が学園から帰ってきたのに、おかえりの一言もなしかよ」
麗眞の口から飛び出た姉、という言葉に、理名はその女性を二度見した。
「お姉さん!? 麗眞くんの?」
やはり、イケメンと呼ばれる部類の姉は美人という都市伝説は本当だったようだ。女性の後ろにいた執事は、誰に言うでもなく言い放った。
「皆さま、空腹だろうと御見受けします。夕食の時間に致しますので、しばしお待ちを」
そう言って、執事は女性と連れ立って長い廊下を歩いて行った。
「待て、と言われても。どこで待つのよ」
その呟きが聞こえたのか、麗眞は相沢と耳打ちをしている。
「ある場所にご案内します。どうせなら、より空腹にしてお食事を楽しんでもらいたいですので」
そう言う相沢について行き、目が回りそうならせん階段を何度も降りる。
足元がふらついた頃、目の前には家の中らしからぬ光景が広がっていた。ビリヤード台が中央にそびえ、隅には申し訳なさそうに、ゲームセンターでよく見る、リズム感を競う音ゲーの台とプリクラ機が鎮座していた。
「アミューズメントルーム、ってとこかな。ゲーム好きな、俺の親父の同僚がよく使ってるよ、ここの部屋。そいつの頼みで作ったらしいけど。隣にはカラオケルームまであるぜ。もちろん、俺の親父の知り合いに頼んで、防音仕様にしてもらったんだけど」
麗眞に着いて行くと、テーブルとテレビ。マイク。リモコン代わりの機械が四台ある。ソファーも革張りで、コンセントを差し込む豚鼻が至るところに着いていた。
タダでカラオケが出来る家なんて、ないない、ありえない……。これをあっさり実現してしまう麗眞の父親とやらに会ってみたくなった。
「さすがに、今からカラオケはきついからビリヤードで我慢するか。やろうぜ、相沢」
ビリヤードに興じる二人を無視して、太鼓が目に付く音ゲーを椎菜と二人でやることになった。この類のゲームをやるのは小学生以来だ。当時は、ピアノを習っていたため、リズム感を鍛えるためと先生に怒られた腹いせによくプレイしていた。難易度は普通にしたが、やはりブランクがあるとコツを取り戻すのに時間がかかるらしい。大差をつけて椎菜が勝った。一方の麗眞は、悔しそうな表情でビリヤード台に拳を一度叩きつけていた。
「つえーんだよな、相沢。何で? ムカつくわ」
「麗眞坊ちゃまはツメが甘いのです。まぁ、地頭の差というのもあるかとは思いますが」
ビリヤードなどやったことはない。意外に知力だけではないなにかも要求されるようで、理名としては、まだ自分が興じるには早いと思っていた。だからこそ、相沢の言葉を聞いて腑に落ちたものがあった。
「さあ、皆さま。そろそろ空腹も限界でしょう。お食事の用意が出来たようです。どうぞ、ご案内いたします」
相沢と麗眞、椎菜の後にくっついていく。