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「当たり前じゃん。友達が困ってたら、助けるのが普通のことだし。まあ、勝手に友達だと思ってるだけなんだけど。理名ちゃんは、そう思ってないかもしれないし」
その言葉に、理名自身も気付かぬうちに首を横に振っていた。
「冷たい口調で心無い言葉を吐いた人に向かって、根気強く丁寧に、正論のアドバイスをくれたんだもん。友達、あまりいたことなかったから、くすぐったくて。どう接していいか、分からなかったからあんな態度取ったんだと思う。今考えたら」
そこで一度言葉を区切った理名は、小さく深呼吸をして口を開いた。
「今、この瞬間からは、改めて『友達』ってことで。深月ちゃんと、碧ちゃんって、呼んでいいかな? よろしく、ね?」
理名の言葉を聞いた深月と碧は、もちろん、とだけ口にした後、それを肯定するように深く頷いた。この時間からは、いろいろなことを聞いた。
碧と深月は、小学校からの仲だということ。深月の母親はカウンセラーをしつつも、非常勤講師として大学での授業も受け持っていること。だからこそ、深月自身も、そこいらの高校生より「心理学」に関する知識はあること。
理名は、その部分だけは自分と似たものを感じた。理名は精神科や心理学の領域こそ畑違いだが、医学の知識なら、そこいらに転がっている普通の高校生よりは十二分にあると感じていた。今回の班決めで同じグループになるのは必然だったのかもしれない、とも思った。
ドリンクを取りに行った回数も、五回は超えていた。それくらい、濃密な時間を三人は過ごしていた。そして、深月が誰に言うでもなく言った。
「もう21時かぁ」
携帯電話の時計を見ると、21時をまわったところだった。
「そろそろ帰ろうか」
深月が伝票を持って、椅子から立ち上がる。それに倣って、理名と碧も後に続いた。お会計は、深月が全員分をとりあえず払い、後の二人は店を出て駅の券売機付近でそれぞれの飲食代を精算する。小銭など持ち合わせていなかった理名は、夏目漱石札1枚で差分を貰う。碧も精算を済ませると、二人と方向が別の理名は、改札を出たところで互いに手を振りながら別れた。
電車に揺られて、最寄り駅から徒歩で家路につく。部屋のドアを開けるなり、仏壇のある部屋に駆け込み、母の遺影の前で、友達が増えたことを伝える。そうしていると、仏壇の辺りが一瞬、光に照らされた。その後、どこかから轟く雷鳴に、身を竦ませた。今日の天気予報では夜から天気が崩れるなどとは言っていなかった。雷鳴から間を空けずに、バケツをひっくり返したような猛烈な雨が地面に降り注ぐ音がした。スクールバッグの中の携帯電話が振動しているのが分かった。着信だ。電話の主は父となっている。
「もしもし」
能面のように一瞬で表情を消して、電話に出た。
『理名か。今、タクシーで最寄り駅の新原まで帰ってきたところなんだ。悪いが、傘を持って迎えに来てくれると助かるよ』
「ん」
それだけを言って、理名は電話を切った。
仕方がなかった。今父に風邪でも引かれたら、ここの家計は火の車になる。そうなっては困るから、迎えに行くのだ。自室に戻って、Tシャツとジャージに着替えた。階段を降りてリビングを抜ける。玄関口に置いてある傘立てから傘を二本掴んだ。そうして、もう捨てるつもりの何年か前に買ったスニーカーを履き、携帯電話をジャージのポケットに突っ込んで家を出た。
最寄りの新原駅に着くと、改札口付近には傘を持たないサラリーマンを何人も見た。彼らは、皆途方にくれている。理名の父は、柱に寄りかかるようにして立っていた。理名の姿を見ると、早かったなとでも言いたげに目を丸くした。
「早くて悪い? わざとゆっくり亀が歩くみたいなスピードで来た方がよかった?」
わざと皮肉を言うと、父は小さく首を横に振った。
「あんまり早く来てくれたもので、びっくりしただけだ。俺は娘であるお前に嫌われているんだとばかり思っていたから」
その言葉に、罪悪感で胸がいっぱいになった。完全に嫌っているわけじゃない。だけど、信用ならないのだ。父が夜、理名の知らないところで何をしているのかが分からないのだから。
「やっぱり、時々思うんだよ。ちゃんと鞠子が生きていて、三人でいたら、きっと楽しかっただろうなって。きっと、理名が帰って来るなり鞠子に高校での出来事を話して、俺は帰宅したら、鞠子からそのことを聞いて、勝手に反抗期なのだと寂しくなってるんだろうな、とかね」
唐突にそんなことを言い始めたからビックリして、持っていた傘を落としそうになった。それを見た父は、おもむろに自動販売機の方に歩いていき、ブラックコーヒーの缶を両手に持っていた。彼は何も言わずに、そのうちの一本を理名に渡した。理名もそれを無言で受け取った。
それを一口飲むと、口の中に何とも言えない大人の味が広がった。それが、父に対する不信感をそのまま表したようで、何だか落ち着かない気分になった。
「帰ろうか」
どちらからともなくそう言って、理名と父は二人並んで家路についた。その道中で、理名の母である鞠子とのなれそめの話や、初デートで場所をお互いに間違え、戸惑ってしまったことなどを話してくれた。その様子を見ていると、父が母のことを愛していないだなんて、自分の多大なる勘違いなのではないかとさえ思ってしまった。
やがて家に着くと、傘についた数え切れないほどの雨粒を落とすことのないまま、家に入った。傘をさしていたはずなのにお互いに濡れ鼠のようで、顔を見合わせてしばらく笑った。先にお風呂を沸かして、理名が先に入った。身体は疲労感を覚えてはいたが、熱い湯に浸かるとそれはゆっくりと抜けていき、今日の出来事が走馬灯のように脳裏に浮かんできた。そして、バスルームの扉を閉める直前に父が言い放った言葉が、脳を支配していた。
「好きな男でも出来たか、理名」
父の言葉を反芻していると、なぜか理名の頭には麗眞の顔が浮かんできて、それを振り払うように何度も首を横に振った。彼には想い人がいるのだ。彼女はパンダ。可愛い動物園の人気者。それに比べて自分は、全然メジャーじゃないアリクイやバクなどである。彼女に敵うものなんてあるはずがないのだ。なのになぜ、真っ先に彼の顔が浮かんだのだろう。そんなことは分からないまま、一度肩までお湯に浸かってからあがった。湯上りに先程買ってもらった缶コーヒーの中身を飲み干す。
「お風呂あいたよ」
それだけ声をかけて、自室のベッドに潜りこんだ。父が理名の言葉に胸に手をやりながら答えていたことに見て見ぬフリをした。