13
なぜ、今になってこんな夢を見るのだろうと、理名は思った。布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がると、隣のベッドで眠る椎菜はすやすやと一定の寝息を立てている。
はあ、と盛大な溜息をついて再び枕に頭をつけた。しかし、目が冴えてしまったのか、一向に眠りにつくことは出来なかった。
翌朝、誰かが私の身体をゆさゆさと断続的に揺すっていた。その振動で目を擦りながらはっと目を開ける。地震と勘違いしたなんて、恥ずかしくて言えやしなかった。
高い天井に、ベッドの脇のナイトテーブル。自分の趣味と合った、ブロックチェックのカーテン。ここは自分の家ではないことに改めて辺りを見回す。そうだ、確か麗眞の家に泊めてもらったのだ。
「あ、やっと起きた! おはよう、理名ちゃん」
朝に相応しい、陽だまりの笑顔を湛えて挨拶をする椎菜。
「おはよ」
それにつられたのか、挨拶の言葉が自然に口から滑り出てきた。ふいに彼女の眉がハの字に下がった。
「昨日、悪い夢でもみた? 目の下に隈出来てるし、うなされてたみたいだったし。そんな状態でショッピングに連れ出すの、悪いかなぁ、って思ったんだけど」
彼女なりの気遣いに、理名は首を横に振った。
「大丈夫。よく顔を洗えば多分消えるし、眼鏡かけるし、目立たないでしょ」
そう言った理名に、椎菜は再び笑顔を浮かべた。
「じゃあ、早く顔を洗って来ないとね! 洗面所ならこのドアを出て左に曲がった突き当たりにあるわよ」
手を振りながらメイク道具を片手に持った理名を見送る椎菜。きょろきょろしながら、彼女に言われた通りのところを目指す。洗面所に駆け込むと、誰かとぶつかった。勢いが強かったので、反動で尻餅をついてしまった。そういえば、眼鏡をかけるのを忘れていた。前が見えない。ぶつかったのはそのせいでもあるらしい。
「大丈夫ですか? お怪我などしておられないですか?」
慌てて手を引いて起こしてくれたのは麗眞の執事、相沢だった。
「完全なる私の不注意ゆえ、申し訳ございません……」
そこまで言って、言葉を切る相沢。
やがて、洗面所にあったタオルを二枚掴んだ相沢は、風のような速さでその場所から消えた。理名が洗顔を終えると、息を切らして彼が戻ってきた。
「理名さま。目の下の隈にお気づきですか? 幸い、よく見ないと気がつかない程度のものでしたので、余計なお世話かとは思いますが、助言させていただきます。温かいものと冷たいタオルを交互に目の上に乗せてくだれば気にならなくなるかと。二、三回繰り返せば十分でしょう。では」
それだけを言って、、洗面所にもある革張りの椅子に理名を座らせた彼は、どこかに行ってしまった。言われるがまま、人肌より少し熱いそれを折って目に当てた。いろいろな雑念が消えていく気がして、何だかすがすがしい気分になった。次は、冷たいものだ。
まだ四月といえど、朝はまだ寒い。それなのに冷たいタオルとは、何かの罰ゲームのような気もする。しかし、つべこべ言ってはいられない。今頃、椎菜が部屋で待ちくたびれているかもしれないのだ。人を待つのも待たせるのも嫌いな理名は、タオルを目に押し付けるように当てた。
「!?」
押し当てたそれは、想像よりずっと冷たいものではなく、安心感が胸を支配した。それをあと二回繰り返して、鏡の中の自分を睨んだ。下まぶたの黒いものは、最初からそこになかったかのようだった。執事さんの知恵袋には感謝しなくては。緑のアイシャドーと黒いアイライナーとマスカラでいつも通りの濃いアイメイクを仕上げる。部屋に戻るべく、洗面所を出た。来た道を戻ると、白いドアが見えた。ドアを開けると、また誰かとぶつかった。その勢いが強かったらしく後方に跳ね飛ばされた。その時に視界に白いものが映った。白いワンピースを着ている知り合いは、理名の知る限り1人だ。
「いたたた……」
「大丈夫? ごめん、思い切りドア開けたからだね……」
顔を上げると、やはり、椎菜の姿がそこにあった。
「ごめんね? もしかして迷って帰って来られないんじゃないかと思って、探しに行くところだったの! ちょうどよかった! ほら、早く行こう!」
そう言うやいなや、椎菜は理名の手を引っ張って、らせん階段を降りた。
すると、理名の目の前に昨日とは違う光景が広がった。いくつもの大きなテーブルに、豪勢な料理が沢山並んでいた。これは、もしかして、バイキングというやつ……? この疑問をクリアにしてくれたのは、入ってきた気配すら感じさせない麗眞だった。
「ひと月に一回は、ちゃんとこういうことしておもてなししようってことになってるの。ラッキーだったね。椎菜も、理名ちゃんも」
こんなに軽いノリでこんなことが出来てしまうものなのか、と唖然とした。この家の維持費や家賃の桁がどれくらいまでいくのか、切実に知りたいくらいだった。
「おはよ、麗眞。挨拶くらいしなさいな」
「おはよ、椎菜。それと、理名ちゃんも」
麗眞にとっては理名は「ついで」らしく、胸が微かに痛んだ。その理由は、理名には分かるはずもない。
「麗眞。そんな言い方しないの! 理名ちゃんもお客様なんだからね!」
麗眞にそう言って、理名と椎菜にはにこやかに朝の挨拶を返したのは彩だった。さすがの麗眞も、姉には形無しらしい。
一時間ほど、唐揚げやご飯や魚、サラダでお腹を膨らませた。理名の近くには七枚、麗眞は九枚、彩は五枚。それぞれ空のお皿が積み重なっていた。椎菜は三枚だ。彼女はダイエット中なのか元々食が細いのかは分からない。これからショッピングに行くというのに、そんなんでもつのだろうか、と理名は思った。ずっとこの部屋着のままではいられない。
部屋に戻ると、制服がシワ一つない状態でハンガーに掛けられていた。確かに、どこのホテルよりサービスがいい。着替えてエントランスに向かう。
すると、理名は誰かと正面衝突した。
「ちゃんと前見て下さい! 何のために、人間の目は正面に二つあるとお思いですか?」
そう言って睨むと、レンズの部分に色がついたメガネかサングラスか分からないものを外して、男性がこちらを見ている。
「大丈夫? 怪我とかない? ごめんごめん。レッスン終わりで、疲れてたの。リハーサルも長引いてさ」
そう言う声は、麗眞にそっくりだった。
「お、君が噂の麗眞の新しい友達か。話は聞いてるよ」
よくない噂話しか話されていない懸念が頭をよぎったが、無視した。
「へぇ、貴女が? 気に入ったわ。蓮太郎に、初対面でああ言ったの、貴女が初めてよ」
男性の後ろに、女性がいた。身長は椎菜より少し高い。快晴の空によく似たワンピースと、青いアイシャドーが特徴的だ。
「あれ、何してたの。親父も、おふくろも。ったく、どうせ、どっかでイチャついてたんだろ?」
麗眞の声がして、この男女の正体を知った。この家は美男美女家系らしい。理名の手を引いて起こしてくれた、蓮太郎と呼ばれた男性の笑顔は、麗眞にそっくりだった。
「二人とも、学校? そうか、今日は土曜日。あれ、でもそうか。一学年はないんだ。どこかに遊びに行くの?」
「はい。宿泊オリエンテーションの時の私服を見繕ってくるんです」
椎菜はやはりこの人たちと仲がいいようだ。にこやかに話をしている。すると、相沢がどこかに電話しているのを目の端に捉えた。
「椎菜さまに理名さま。こちらであと5分、お待ちください。あくまで普通の車で、お2人の家までお送りしますので」
相沢が理名たちに頭を下げてちょうど5分後、メルセデスベンツとおぼしき車が停まった。
「どうぞ、お乗りくださいませ」
おずおずと座席に腰を下ろす。隣は椎菜だ。家から近い椎菜が先に降りることになる。
彼女は、理名に新原駅に10時集合を言い渡して車から降りた。やがて、行幸道路や細い路地を抜けて、車は理名の家の前に停まる。
「ありがとう、ございました……」
ぺこりと頭を下げると、運転手である初老の男性はにっこりと微笑んで去っていった。