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やはり自分は、そういう職業には向いていないのだろうか。いや、今は、そんなことを考えている暇はない。考えるな、行動するんだ。それしか、今出来ることはないのだ。
タオルを水で濡らすと、首とワキの下、脚に当てて、腕が疲労を訴えても構わず、何度も何度も何度も何度も団扇で仰いだ。
「ん……。り、な、ちゃ、ん?」
椎菜が、ゆっくりと目を開けた。
「椎菜ちゃん、大丈夫?」
「だいじょぶ、たぶん……」
目はまだ焦点が合わず、虚ろだったが、彩さんの手から受け取ったスポーツドリンクを少しずつ飲むと、目に輝きが戻ったようだった。
「ごめん。迷惑、かけちゃった。理名ちゃんにも、彩さんにも……。湯冷めしちゃうよ? 早く着替えな?」
理名は頷いてロッカーを開けた。さきほどのシャンプーのように、両手いっぱいに自分の服を抱えると、彼女が座るベンチソファー傍の床に放り、そこで着替えた。終わると再び団扇でひたすら仰いだ。彩がドライヤーの冷風をかける横でタオルを冷やし、首とワキの下と脚に当てた。
「アイスノンとかの氷かと思った……。それくらい、きもちい……」
弱っていることもあるし、のぼせているせいで火照った顔と上目遣いの目。これとセットで聞かせられると、椎菜と同性の理名でさえ変な気を起こしてしまいそうになる。こんな声は麗眞には聞かせられない。
そう思っていると、椎菜ちゃんに鏡を差し出して鏡面に触れさせた彩。この方法はアメリカで専門的な鑑識の勉強もしたらしい彼女の父親から教えてもらったようだ。鏡面に触れさせたところにセロハンテープを貼って指紋を採取すれば、脱衣場ロッカーの指紋認証を突破できるという。セキュリティ万全だと思っていたのに……。意外なところに抜け穴はあるものだ。
その証拠に、彩は椎菜の着替えのコットンレースワンピースや彼女が元着ていた制服を持ってベンチソファーの近くに持ってきた。
「ありがとうございます」
「いいえ、気にしないでいいのよ」
椎菜の顔にも、ほんの少し笑顔が戻った。ゆっくりレースワンピースを身につけた彼女は、寝転がっている体勢から座った姿勢になった。
「椎菜ちゃん、気分悪いとかない? 頭痛いとか」
「大丈夫」
問いにも、明るく答えられていた。もう安心してもいいだろう。のぼせの所見は皆無だ。
椎菜は軽く髪の毛を乾かし終えた後、一緒に脱衣場を出てロビーに出た。
待ち構えていたように、そっと彼女に近づいて優しく抱き寄せる麗眞。それを見ていると、ほんの少しくすぐったい気持ちになった。同時に、ここまでしているのに恋人未満というのは、どういうことなのかという疑問も湧いてきた。
しばらく、静寂が包んでいた。重苦しい沈黙に耐えかねた頃、小さく息を吐いた麗眞が、椎菜の華奢な身体を軽々抱き上げてから、口を開いた。
「二人の姫様方、お部屋へご案内します。ついて来てくださいね?」
皆がとことこ麗眞くんの後をついて行ったが、”姫様”という言葉の響きに慣れてなどいない理名は赤面してしまって、それどころではなかった。慌てて小走りで追いかける。麗眞といると調子が狂うことを理名は自覚していた。ちゃんと「女子」として見てくれているということが伝わってくるからでもあった。道中、相沢と麗眞が何やら会話をしていた。
「ちゃんと持っていくよう頼んでおいたよな?」
「もちろんでございます」
持っていくとはなんのことだろう。椎菜は何か知っているのだろうか。
「もう、麗眞。あんまりお坊ちゃま力発揮しないの。私は慣れてるからいいけど、理名ちゃんビックリしてるし」
「んな身体で言われてもね、椎菜。説得力ないよ?」
そう返した麗眞の顔は柄にもなく真っ赤だった。そんな様子の主人を相沢さんが追い越し、先導した。やがて、黒いドアを開くように言われ、夜の挨拶をして別れた。
ドアを開けると、白黒ブロックチェックのベッドカバーが目に入った。理名の好みを熟知しているかのようなセレクトだった。
「気に入ったならよかった。今日はここで椎菜と一緒な? 分からないことあったら椎菜に聞けば教えてくれるから」
「わかった。ありがとう」
椎菜と一緒に部屋に入って、麗眞たちの足音が遠ざかったことを確かめる。
「きっと、麗眞セレクトだよ? この部屋。私がいると、ピンクとかレースとかフリルとかたくさん使ってある部屋に案内されるの。今日はそうじゃないからさ」
彼女の言葉に、慌てて聞き返す。
彼女が言うには、この家の一部屋一部屋は、部屋のテーマが決まっているらしい。こだわりようが尋常じゃないな、と感じた。もっとも、浴室のありとあらゆるメーカーの洗顔料やドライヤーが取り揃えてあるところからも、それは滲み出ているのであるが。理名は改めて、麗眞が思いやりの気持ちに秀でていることを知ったのだった。
ベッドカバーをめくって布団に入ると、自然と椎菜は麗眞のことをいつ、好きになったのかという話題になっていた。
何でも、幼稚園の時に公園で一緒に遊んでいるときにお気に入りの麦わらぼうしが風に流され、木に引っかかったのだという。泣くしか術がなかった椎菜を見て、躊躇なく木に登ってそれを取ったのが麗眞らしい。男の子だからこそ出来る芸当にときめきを覚えたという。もちろん理名は、こんな場で言える可愛らしい恋愛エピソードなんてあるはずがない。ただ、椎菜の話に相槌を打つしかなかった。
やがて、今は制服だから大して分からないが、私服だと途端に大学生に見えるから、店員が彼の学生証を二度見するエピソードも教えてもらった。そんな中、恋愛をしたいならアルバイトをすればいいというアドバイスを得た。確かに、それは有効かもしれないと理名は思った。学費の足しくらいにはしなければ、50万円もの学費を父だけに払わせるわけにはいかなかった。
そんなことを考えていると、急に彼女が話を変えた。
「普通は土曜日も学校あるけど、明日は宿泊オリエンテーション準備のために休みじゃん、一緒にショッピング行こうよ! 宿泊学習の時の服、買いに行こう?」
理名はその言葉が嬉しかった。
中学校の頃から、冷たい、愛想のない子、と思われて友達もあまりいなかったから、もちろん、友達とショッピングなんてしたことなくて、憧れだった。友達と買い物って、どんな感じなんだろう。お互いに、服を選びっこしたり、するのだろうか。
「うん。一緒に行こうか」
理名の言葉を聞いて、にっこり笑った彼女は目に手をやったかと思うと、布団も被らないまま、こてん、と眠りに落ちた。そっと薄い掛け布団を掛けてやると、起こさない程度の声量でおやすみ、と言って眠った。
……。学校の体育館。見慣れた紺のジャージ。中学校の体育館らしい。体力テストを終えて、皆は思い思いに休憩を取っている。
そんな中、誰かが過呼吸を起こして、苦しそうにうずくまっている。皆が一斉に、その子の周りに集まる。先生が、紙袋を持って発作を起こしている子に駆け寄る。理名は、先生の携帯を借りて、母親の病院に電話を掛けた。内線番号を押すと、母親の声がした。運がいい。めったに母が出ることはないのだ。事情を説明する。そして、がむしゃらにボタンを押してスピーカー通話モードにする。母の声が、体育館に響いた。
「ペーパーバッグ法はダメです、止めてください! 殺す気ですか?」
皆の目が一斉に理名に向いた。
「酸素濃度・二酸化炭素濃度を測定せずに行うと、時に二酸化炭素濃度を上げすぎてしまうんです! 二酸化炭素濃度は低すぎても問題ですが、高すぎても問題です! 血液中の二酸化炭素濃度が高くなりすぎると頭痛や吐き気、めまいなどが生じることがあり、ひどい場合には意識を失うこともあるんです! だから、それをやるのであれば、病院で酸素濃度を測定しながら行うべきで、病院外で行うべきではありません‼ いますぐ、学校に救急車を向かわせます! よろしいですね?」
それから5分が経った頃、サイレンが体育館近くで止まった。救急車から出てきたのは、救急隊員と、理名の母、鞠子だった。
「まったく。急に電話してきて。連絡網にあった担任の先生の携帯電話番号も、院内PHSに記憶しておいたからよかったものの、そうしてなかったら電話に出なかったかもしれないわ。とにかく、この子のことは私たちに任せて、貴女たちは授業に戻りなさい」
発作を起こした彼女が担架に乗せられていくのを確認した後、母は先生に一礼して、救急車に乗って、病院に向かった。
その後、理名に一人ずつ頭を下げていく女子たちの集団。その全員が理名をいじめていた子たちだ。「気にしなくていいから」とだけ言葉を返した。
今更謝られても、友達になりたいとは微塵も思わなかった。
……今思えば、これが、最初で最後の、母の学校訪問だった。