秋広の家庭訪問(1)
時系列的には本編05直後の話です。
「木島君、今度の休みにうちで遊びに来ないかい」
そんな小杉部長の言葉に、秋広はとうとう来る時が来た事を悟った。
梨夏との再会から数日。
一部始終を部長に報告しようと思いながらも、秋広はなかなか言い出せずにいた。
丁度仕事が忙しくなった事もあり、どうしても部長とタイミングが合わなかったのもあるが、そもそもなんと説明すればいいかも分からなかった。
そうやって悩んでいるうちに、とうとう相手から水を向けられるに至ってしまった。
「梨夏が世話になった礼がしたいんだが」
「是非お伺いさせて頂きます」
もちろん断るなんて選択肢は最初からあるもわけなく。
秋広はほとんど瞬時に快諾していた。
そうした部長とのやり取りを経て、秋広は小杉家へと向かっていた。
「一体、何を言われるんだろうな……」
「そんな心配しないでも大丈夫だよ」
不安げな秋広をよそに梨夏はいたっていつも通りだ。
その気楽さを頼もしく思う反面、恨めしく思うのもまた事実だった。
不服そうに溜息をつき、秋広はぽつりと呟いた。
「そうは言うけどな。家に招かれるってよほどの事だぞ」
秋広には人の家に招待された経験がなかった。
物心ついた頃から今まで、恋人どころか友達すらいなかったし、やり取りのある親戚すらいなかったのだ。
そんな秋広にとって、他人の家を訪れる事は生まれて初の出来事であり、まさしく人生の一大イベントだった。
「そっかー。そういえばおじさん、ぼっちだったもんね」
「まったくもってその通りだが、人から言われるとショックだな……」
「大丈夫だよ。今は私がいるじゃん」
がっくりとうなだれる秋広の背中を梨夏が叩く。
思ったよりも強い勢いに、思わず秋広はたたらを踏んだ。
「そんな梨夏自身のせいでこんな事になっているんだけどな」
「禍福は糾える縄のごとし、とはよく言ったものだよね」
「自分で言うな」
楽しげに笑う彼女の足取りはとても軽い。
彼女が軽やかに歩く度、長い金髪が揺らめいていく。
梨夏の髪は降り注ぐ柔らかな日差しを浴びて、燦然と輝いていた。
「深く考えても仕方ないって。それよりもほら、今日はいい天気だよ」
「まぁ、そうだな」
頭上を見上げれば、高く澄んだ青空に羽毛のような小さな雲がまばらに広がっていた。
少し風が強い事を除けば、穏やかないい一日だった。
秋も深まってきたとはいえ、まだ日差しがあるうちは暖かくて過ごしやすい。
「こういういい天気の日ってさ、外にお出かけしたくなるよね」
「俺はあまり休みの日に外を出歩かないからなぁ」
「駄目だよ。そんな事だとカビ生えちゃうよ」
そう言って梨夏がくすくすと笑う。
「あー、買い物行きたいなぁ。新しい服とか欲しいなぁ」
「そういえば今日は制服じゃないんだな」
「そりゃね。休日だし」
タイトなシャツに白いテーラードジャケット。
ボトムにはショートパンツに厚手のタイツ。
梨夏は元々美少女で、しかも高校生らしからぬプロポーションの持ち主だ。
そんな彼女と、シルエットのよく出る服装は相性抜群だった。
日本人離れしたスタイルの良さが遺憾なく発揮され、大きな胸やすらりと伸びた脚を引き立てながら、それでいてモノトーンで統一されたコーディネイトが大人らしさも演出している。
いつもとは少し違う化粧も、彼女の雰囲気を変えるのに一役買っていた。
制服姿の時はどう見ても高校生にしか見えなかったが、今ならば女子大生と言っても通じるかもしれない。
女性というのは服装と化粧で随分雰囲気が変わるものだと秋広は妙に感心した。
「でもこの前うちに来た時は制服を着てただろう」
「あれはおじさんに変わった事を見せつけたかっただけだもん」
「そういうもんか」
「そういうもんなの。で、どう? 今日の恰好は?」
何かを期待するように、梨夏が上目使いで問いかけてくる。
秋広は改めて梨夏を上から下まで眺めた後、小さく頷いて見せた。
「そうだなぁ……大人っぽくていいんじゃないか?」
「ふっふーん。でっしょー?」
秋広のささやかな賛辞に、梨夏はただでさえ大きな胸を張る。
その渾身の笑みは、秋広が今までの人生で見てきた中でも一番のドヤ顔だった。
「今日のは自信あったんだよね。これならもう子供扱い出来ないでしょ」
「色々頑張っているんだな」
そもそもこういう態度そのものが子供っぽいと思うのだが、秋広にもそれを口に出さない程度の思慮と分別があった。
「ところで家はあとどのぐらいで着くんだ?」
そしてさりげなく話題を変える。
社会人として培われたコミュニケーション力が遺憾なく発揮された瞬間だった。
秋広はぼっちではあったが、コミュ障ではなかった。
「もうすぐそこだよ。ほら、あれ」
梨夏の指さす方へ目を向けると、大きなマンションが通りの向こうに垣間見えた。
おそらくは十五階建てぐらいだろうか。
周囲が平屋ばかりなせいもあって、その大きさが余計に目立っている。
「あのマンションか?」
「そうそう。あそこにうちがあるの」
「随分と立派だな」
「父さん、無理して買ったみたいだからね。おかげですっごいローン残ってるみたいだよ。あ、こっちが入口ね」
真新しい外壁に、よく手入れされた樹木。
ビルの正面にはクラシカルな雰囲気の漂うオートロックが備え付けられていた。
オートロックを抜けた先の広いエントランスでは、休日ということもあってか、小さな子供たちが走り回って遊んでいた。
そのすぐ近くに子供たちを見守りながら談笑している大人の姿。親御さんたちと会釈を交わして、エレベーターホールへと向かいながら、秋広はぽつりと呟いた。
「子供、多いな」
「ここって家族向けのマンションらしいからねぇ」
「梨夏の家は何階なんだ?」
「五階。そういえばさ、おじさんって高いとこって苦手?」
「いや。別にそんなことはないが」
「そっか。私も平気なんだけどさ、父さんが苦手なんだよね」
「小杉部長が?」
知られざる上司の一面だった。
「うん。デパートとかでガラス張りで外が見えるエレベーターあるじゃん。あれが怖いらしくて、乗りたがらないんだよね」
「へぇ……それはよっぽどだな」
「おかげで遊園地とかいってもさ、全然ジェットコースターとか乗らないの。一人で乗ってもつまらないんだよねぇ、ああいうのって」
「そういうものなのか」
遊園地に行った経験がほとんどない秋広にはそう答える事しか出来ない。
小さい頃はその境遇のせいで行けなかったし、大人になってからは一緒に行く相手がいなかった。
家族連れやカップルの多いレジャー施設は『お一人様』には難易度が高すぎる。
「もしかして、おじさんって遊園地とかあんま行った事ない?」
「ないな。学校の卒業旅行で行ったぐらいだ」
その時も一緒に回る相手がおらず、結局は一人で広い園内をひとしきり回った後に、母親のためのお土産を購入し、ほとんどアトラクションに乗らずに帰ってきてしまった。
そのせいか秋広は遊園地にあまりいい思い出がなかった。
「へぇー。あ、じゃあ良い事思いついた」
「良い事?」
やってきたエレベーターに乗り込みながら、梨夏は何かを思いついたようにニヤリと笑っていた。
「今度さ、私と一緒に行こうよ」
「……遊園地にか?」
「うん。おじさんの都合のいい時でいいからさ。二人で行けばきっと楽しいよ」
「そうかなぁ……」
「絶対楽しいって。私が遊園地の楽しみ方を教えてあげるから。ね、だから行こうよ」
あまり乗り気ではない秋広を説得するように梨夏が言いつのる。
秋広は閉まっていくエレベーターの扉を見つめながら、わずかな逡巡の後に口を開いた。
「そうだなぁ……部長がいいって言ったら、な」
「え、マジで? 行ってくれるの?」
「部長の許可を取ったら、だからな。駄目って言われたら行かないからな」
さすがの部長も、大事な一人娘が男と二人で遊びに行くのは許可しないだろう。
そんな打算があっての返答ではあったが、秋広の思惑とは裏腹に、梨夏は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「大丈夫。父さんは私に逆らえないから。家出をちらつかせれば一発だね」
「脅すのはやめろよ……」
遊園地に行くためだけに娘に脅されるなんて不憫すぎる。
秋広は子供を持つ親の大変さを痛感しながら部長に深く同情するしかなかった。
「家出したら絶対いかないからな」
「分かった。じゃあ家出以外の方法で考える」
「脅すの自体をやめろよ」
「はーい」
そんな益体もない話をしているうちにあっという間に目的の階に着いてしまう。
エレベーターから降りつつ、秋広は大きく唾をのみ込んだ。
もう小杉家は目と鼻の先だ。
きっと部長は自分たちの到着を首を長くして待っているに違いない。
いよいよもって覚悟を決めなくてはならない。
「さて、部長になんて言われるかな……」
「大丈夫だって。それに前も言ったじゃん。父さんが納得しなかったら駆け落ちしてあげるってば」
「いや、しないからな。駆け落ちなんて」
上司の娘と駆け落ちなどすれば、当然今の仕事はやめざるを得ない。
そうなれば三十路を目前に控えていきなり無職だ。
そんな未来だけはなんとしてでも避けなければならなかった。
「えー、私の何が不満なのさ」
「年齢」
「大丈夫。もう結婚出来る年だから」
「いや、全然大丈夫じゃないからな?」
「おじさんは本当にワガママだなぁ」
秋広は別に法律的な結婚可能年齢の話をしているわけではない。
もっと曖昧で面倒な、社会的倫理観に不随する問題だ。
しかしそんな事はまだ社会に出てもいない高校生である梨夏にとっては些末でしかなかった。
「いいじゃん、愛し合う二人が結ばれるのにいちいち理由なんていらないよ」
「まず愛し合っているという前提が間違ってるからな」
「ぶーぶー。あ、ここがうちね」
不意に梨夏が会話を打ち切る。
どうやらとうとう目的の場所へ着いたらしい。
木目調のブラウンの扉。ネームプレートには小杉の文字が刻まれていた。
「さ。おじさん、行こ」
「……あぁ」
蛇が出るか鬼が出るか。
果たして自分は生きて帰れるのだろうか。
いや、生きて帰らないといけない。
自分には待っている人が――誰もいないが、別にいなくても死にたくはない。
まるで魔王城に単身で乗り込む勇者のような、そんな場違いな心境を抱く秋広であったが、当人は至って真面目だった。
「おじさん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
やがて玄関の鍵が開く。ガチャリという音がやけに大きく聞こえた。
「どうぞお入りくださーい」
「お邪魔します」
のんきな梨夏に固い言葉を返し、そして秋広は覚悟を決めて小杉家へと足を踏み入れていった。