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05

翌日、梨夏は朝早くに帰って行った。


「もし駄目だったらまた泊まりにくるね」


そんな事を彼女は言っていたが、その表情は憑き物が取れたように晴れ晴れとしていた。


頭上には昨夜の大雨が嘘のようによく晴れた青空が広がっていた。

雲一つない青空と言えば嘘になるが、爽やかな秋空には間違いない。

門出を祝うような暖かい日差しを受けながら、彼女は軽い足取りで去っていった。


そしてその日を境に、梨夏と会う事はなくなった。


連絡先を交換していたわけでもないため、会えなければ話す事も出来ない。

その後の顛末がどうなったのか気にはなったものの、秋広はさほど心配してはいなかった。


彼女の姿が見えなくなったということは家出が終わったということだ。

おそらくは無事に父親と話し合いが出来たのだろう。

それは妙にほっとした様子の上司からも伺えた。


便りがないのは元気な証拠。

そう思って安堵すると共に、秋広は自分のことのように喜んだ。

梨夏は自分には出来なかった事を成し遂げたのだ。


上司に直接聞くことも考えたが、人の家庭に土足で入り込むような気がしてさすがに自重した。

ともあれ、梨夏との日々は出会いが突然だったように、別れもまた唐突だった。


梨夏が居なくなってからといって、秋広の日々に大きな変化はなかった。


時折、小杉部長から何か含みのある視線を受ける事はあったものの、特に仕事への影響もなく、不思議なぐらい穏やかな日々が続いた。


そうして、あの騒がしくも楽しかった少女のいない生活にも慣れてきた頃。

季節はすっかり本格的な秋へと移り変わり、十月に変わっていた。



-----



休日、秋広は洗濯と掃除に明け暮れていた。


何か趣味を見つけようと前に考えておきながら、いまだにやりたい事は見つかっていない。

そもそも今まで長年見つからなかったものが、そう簡単に見つけられるわけもなく。

いつものように一通り洗濯をこなし、部屋の掃除を終えた所で、部屋のインタホーンが鳴った。


「……なんだ? セールスか?」


突然の訪問に首を傾げつつ、秋広は玄関の覗き穴から外を見た。


視界に飛び込んできたのは鮮やかな金髪だった。


「え?」


無意識のうちに秋広は玄関を開けていた。

そこには、見覚えのある少女が見覚えのない恰好をして立っている。


「梨夏?」


玄関先に居たのは間違いなく梨夏だった。

しかしその変わりようにはただただ驚くしかない。


なにせ彼女の見た目は秋広の記憶と異なりすぎていた。


癖のない長く艶やかな金糸のような髪は彼女自身のものであり、そこだけは何一つ変わっていない。

しかしその顔にはギャルのような化粧はしておらず、ほんのりと整える程度に抑えられていた。


服の様子も一変している。

着ている物こそ見慣れた高校の制服ではあるが、胸元まで大きく開いていたシャツのボタンはしっかりと閉じられ、上着にはブレザーを折り目正しく着込んでいる。

その下に履くスカートの丈もそこまで短くはなく、普通の女子高生ぐらいの長さに収まっていた。


「やっほー、おじさん。久しぶり」


秋広の驚きなどどこ吹く風で、梨夏は陽気に笑っていた。

秋の柔らかい日差しが金糸のような髪と白い肌を柔らかく照らしている。

似合わぬ化粧を脱した彼女は文句なしに美少女だった。


「おじさん? どしたの?」

「……いや。なんでもない」


秋広は小さく首を振った。

見惚れていたなんて流石に口が裂けても言えなかった。


「今日はどうしたんだ?」

「うん、ちょっと報告とか色々ね。あ、もしかして邪魔だった?」


長い髪をサラリと揺らし、梨夏が小さく首を傾げる。

そのまったく変わらぬ様子が見た目とのギャップをより一層引き立てていた。


「いや、特に予定もないから平気だけど……」

「じゃあ、ここで立ち話もなんだし、中に入ってもいい?」

「そうだな。どうぞ、いらっしゃい」

「えへへ、おっじゃましまーす」


許可を得た梨夏は颯爽と部屋の中へ入っていった。

まだ二度目の訪問だというのに、そこには戸惑う様子は欠片もない。


秋広はそのどこか懐かしい気安げな態度に安堵とも嘆息ともつかない息を漏らしながら、玄関を閉める。


「あんまり前と変わってないね」


梨夏は部屋の真ん中に女の子座りをしながら周囲を見渡していた。


その言葉は部屋の事を差しているのか、それとも秋広の事を差しているのか。

秋広は彼女の向かいに腰を落ち着けながら曖昧に答えた。


「そりゃこんな短い間じゃ変わらないだろう」

「私は変わったよ?」


梨夏は視線で自分の全身を眺めるように示していた。


「そうだな……どうしたんだ一体」

「色々あったんだ、色々ね」


梨夏がしたり顔で頷きながら腕を組む。

そのせいで豊かな胸が強調される形になってしまい、秋広は目のやり場に困った。


「へぇ…それにしても、よくうちの場所を覚えてたな」

「こう見えて私ってば頭いいんだよ。記憶力には自信あるし」


そう言われて、秋広は彼女の着ている制服が地元の進学校のものである事を思い出す。


「まあちょっと曖昧だったから不安だったけど、なんとかおじさんの家が見つかってよかったよ。どうせなら直接お礼が言いたかったし」

「お礼?」

「うん、あの日の夜ね、おかげさまで無事に父さんと話せたんだ」

「そうか、それはよかったな」


梨夏は本当に心の底から嬉しそうに笑っていた。


「うん。それもこれも、全部おじさんのおかげ。ありがと」

「別に俺は何もしてないぞ。梨夏自身の成果だよ」

「ううん。そんなことない。おじさんが背中を押してくれなかったら、たぶん今も私は家出したまんまだったと思うもん。だから、ありがとう」


含むもののない純粋な感謝の言葉に、不思議と頬が熱くなる。

秋広はそれを誤魔化すように首筋を掻いて苦笑した。


「お父さんとは、どんな話をしたんだ?」

「えっとね。あの人に連絡した事とか、会う事を拒否された事とか。見た目を変えた理由とか。あと父さんがよそよそしくなって、それで家を出た事とか。全部話した」


そういった梨夏がわずかに目を閉じた。そして思い出すように口を開く。


「父さん、私の話を黙って聞いててくれたよ。で、最後に『すまない』って謝ってくれた。で、仲直りした」


梨夏の話は細部がだいぶ端折られていたが、秋広は大枠理解出来た。


細かい話は彼女たち親子だけが知っている。

たぶん、それでいいのだろう。

血の繋がった親子にしか分からない事だってあるはずだ。


外野としては、結果を知れただけで十分だ。


「そっか。よかったな」

「うん。あ、そうそう。あの人にも会ったよ」

「――え?」


梨夏は何気ない様子で告げてきたが、秋広はその言葉に驚くしかなかった。


「あの人っていうのは……母親、のことだよな? その人と、会ったのか?」

「うん、会った。私があの人に連絡した事を言ったら父さんが会わせてくれた。といっても、ちょっと顔合わせただけだけどね」

「……どんな話をしたんだ?」


そう尋ねると梨夏は苦笑をしながら頬を掻いた。


「いやー、それがさ。色々言いたかった事があったはずなんだけど、実際会ったら何も出てこなかった。最初に挨拶して、それっきり。向こうも何にも話さないし。だから『もう満足したんで二度と会いません』って言ってバイバイした」

「……それでよかったのか?」

「はは、父さんにも同じこと言われたよ」


梨夏がコップに口を付け、こくこくと白い喉を鳴らしていく。

秋広もつられるようにお茶を飲みながら、内心では驚嘆していた。


自分を拒絶した親に会うなど、一体どれほどの勇気が必要だったのだろう。


「私としては、会えただけでよかったんだ。どんな人だったか見れたし」

「それでも十分凄いと思うぞ」

「そっかな? あ、ちなみに私とは思ってたほど似てなかったよ。なんかそれが分かったら『もう別に化粧しなくてもいっかな』って」

「だから今はしてないのか」


梨夏は母親に似ていると言われていた自分の顔を嫌っていた。だからこそあんな似合わない化粧で顔を変えようとしていた。

その理由がなくなった今、派手な化粧をする必要性はなくなったのだろう。


「ふふ、それだけじゃないけどね」

「他にも理由があるのか?」


秋広が疑問を口にすると、梨夏は待っていましたと言わんばかりに唇の端を持ちあげた。


「おじさんさ、私が化粧変えて、驚いたでしょ?」

「ああ、かなりな」


梨夏の問いかけに秋広は素直に頷いた。


「前よりもさ、今の方が似合ってると思う?」

「まぁ、そうだな」


少なくとも前のようなあべこべな化粧よりは断然いい。

秋広が再び頷いた。


「ならさ、ならさ。今の私ってかわいい?」

「あー……まぁ、悪くはないん、じゃない、か?」


悩んだ末、秋広はわざとらしくしかめっ面を浮かべて三度頷いた。


先ほどは思わず見とれてしまったほどだ。

おそらく梨夏は理解した上で問いかけている。

否定する事は出来なかった。

すると梨夏は嬉しそうに頬を緩めた。


「えへへ、そっかそっか。なら元に戻した甲斐があったなぁ」

「……別に俺がどう思おうと気にする必要なんてないだろうに」


憮然と呟くと梨夏はきょとんとしていた。


「え、なんで?」

「なんでってそりゃ……」


言い訳の内容が見当たらず、秋広はそこから先を継げられなかった。

そんな秋広の機先を制し、梨夏は――


「おじさんがどう思うか気にするに決まってるじゃん。だってやっぱ恋人にはさ、かわいいって思われたいし」


――爆弾を投下した。


「ちょっと待て」

「あ、もしかしておじさんって意外と独占欲が強いタイプ?」

「だからちょっと待て」

「俺のかわいい梨夏を他の奴に見せてたまるか、とか思っちゃう感じ? おじさんってば意外と焼きもちなんだねー」

「違う。人の話を聞け」

「もー、なに?」


話しを強引に遮ると梨夏は明らかに不服そうに口を尖らせた。

そんな表情ですらかわいらしいと思う辺り、だいぶ秋広も毒されていた。


「誰と、誰が、恋人だって?」

「私と、おじさんが、恋人」

「……いつからそうなった」


秋広には、恋人になった覚えなど、当然のようにまったくない。


あくまでも梨夏とは友達でしかなかったはずだ。これだけ立場も年齢も離れていてそれもそれでどうかとは思うが、まぎれもない事実だ。


「おじさんが私をここに泊めてくれた日。弱った私を家に連れ込んで手籠めにしたじゃん」

「事実を曲解するな」


曲解どころか捏造だった。

秋広はなんとなく痴漢の冤罪にかかった人の気持ちが理解出来た気がした。


連れ込んだというのは一側面では間違ってはいないが、断じて手籠めになどしていない。そもそも指一本触れていないのに手籠めになど出来るわけがない。


「俺は何もしてないし、何をする気もない。無実だ」


自らの無実を主張しようと秋広は懸命に口を動かす。

そんな秋広に対し、梨夏は大げさに肩を竦めて見せた。


「おじさんって往生際が悪いなぁ。それにもう手遅れだよ」

「な、何が手遅れなんだ」

「だって私、おじさんの事を紹介するって、父さんに言っちゃったもん」


「はぁぁぁぁああっ!?」


秋広は叫んだ。近所迷惑になるかもしれないなどという考えが及ぶわけもなく、とにかく叫んだ。

今まで叫んだ事など人生で数えるほどしかなかったが、その発言はそれぐらい秋広にとって衝撃的だった。


彼女は今なんて言ったか。父さんに紹介すると言っていなかったか。父さんとは誰だ。小杉部長だ。秋広にとっては尊敬する恩師であり上司だ。


「ちょ、ちょっと待て、し、紹介って、なんだそれ」

「あはは、おじさんテンパりすぎ」


視線を泳がす秋広を見て梨夏はケラケラと笑っている。


「テンパりもするわ! も、もしかして部長にはもう俺の事を伝えたのか?」

「うん。私が家出した時にお世話になった人だって。あ、手籠めとかは言ってないから安心してね」

「全然安心できないから!」

「ずぶ濡れだった時に家に呼んでくれて、そのまま泊めてくれてくれた優しい人だったって、ちゃんとフォローもしといたよ」

「フォローじゃなくて追撃じゃないか!」


自分の娘を家に上げる男など、世の父親から取って見ても宿敵以外の何物でもない。しかも傍目には弱みに付け込んでいるようにしか見えないのも最悪だった。


「そうそう。それで父さんから伝言。『娘が世話になった礼を秋広君に直接したいので、今度うちに遊びにきてくれ』だって」


秋広にとってはまさしく死刑宣告だった。

そして今さらながらに、仕事中に上司が向けてくる思わしげな視線の意味を理解した。


「終わった……もう終わりだ……」


脳裏には退職と転職活動という二つの言葉が飛び交っていた。


秋広はその場に崩れ落ちた。もう立ち直れる気がしなかった。

そんな秋広の肩を梨夏は優しくぽんと叩く。


「大丈夫だよ、おじさん」

「……梨夏」


二人の視線が交差する。

揺れる秋広の眼差しを受けて、梨夏は力強く頷いて見せた。


「父さんが納得しなかったら二人で駆け落ちしよう!」

「そういう事を言ってるんじゃない!」

「大丈夫。愛の前には悪は滅びる!」

「諸悪の根源はお前だろうが!」


その後も二人は騒ぎ続けた。

梨夏が焚き付け、それを受けて秋広が喚く。


近所の住人から苦情が来るまで、秋広の部屋からは何時までもやかましい声が響き続けた。



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