04
その後、二人は途中でコンビニに立ち寄り、食糧や飲み物、替えの下着などを確保してから秋広の家へと向かった。
雨に包まれた夜道を連れだって歩いておよそ十数分。
相変わらず風雨はとどまることを知らず、二人はすっかり頭から足先まで濡れてしまった。
それでもなんとか家についた時は、二人揃って安堵のため息を漏らした。
「ここが、おじさんの家?」
「ああ、そうだ」
梨夏の見上げる先には二階建ての安アパートの姿があった。
どことなく古めかしい雰囲気の切妻屋根に、元は綺麗なクリーム色だったであろう色あせた外壁。そして至る所が錆びた鉄製の階段。
見た目からも築年数の長さが感じられるこの住まいで、秋広はずっと一人で生活を送っていた。
両親が健在だった頃に住んでいた家はとっくの昔に手放していた。
「なんか、男の一人暮らしって感じ」
「実際そうだからな」
どこか感心するような声色を上げる梨夏を従え、秋広は錆びた階段を軋ませながら二階へと昇っていく。
そして奥から二番目の部屋の玄関を開け、彼女を迎え入れた。
扉のその先にはよくあるワンルームアパートの内観が広がっていた。
台所を兼ねる玄関に、別々のトイレと浴室。
仕切りを挟んだ家の奥には十畳ほどの大きめの部屋。
そんな家の中を梨夏は靴を脱ぎながら、興味深げに見つめていた。
「おじさんってこういう所で暮らしてるんだ」
「古臭い上に狭いのは我慢してくれよ」
「ううん、大丈夫」
「そうか、ならいいんだが。とりあえずシャワーでも浴びて温まってこい。風呂場はすぐそこだから」
たいして見るべきものもないはずの室内で視線を彷徨わせる梨夏を尻目に、秋広は奥の部屋へと入って仕切りを閉める。
この家には脱衣所がないが、こうしておけばとりあえず梨夏の着替えが見えるような事もない。
年頃の少女に対する配慮としては不十分かもしれないが、他に手の打ちようもないのでそこは我慢してもらおう。
そんなことを考えながら、濡れたスーツを脱ごうと秋広が上着に手をかけた瞬間、仕切りから梨夏が顔を出した。
「タオル借りていい?」
「ん……あ、ああ」
間一髪。
そんな事を思い、押入れから取り出したバスタオルとフェイスタオルを手渡す。
受け取った梨夏はにこっりと笑ったまま、いつまでも仕切りを閉めようとしない。
まだ何があるのかと訝しがる秋広に梨夏の問いかけが投げかけられた。
「おじさん、着替えないの?」
「……いいから早く浴びてこい」
「ふふ、はーい」
化粧の溶けたパンダ顔で笑みを浮かべる梨夏を手で追いやり、秋広は強引に仕切りを閉じた。
そして浴室からシャワーの音が聞こえてくるのを確認した上で着替えを再開した。
濡れたスーツと下着を脱ぎ、全身を手早く拭って、替えの服を身にまとう。
自分の家にも関わらず服を脱ぐのを一瞬躊躇したのは梨花をおもんぱかっての事だったが、正直不要だったかもしれない。
「まったく……」
小さくぼやきながら秋広は耳をそばだてる。
そしてまだシャワーの音が止まっていないことを確認し、さっと素早く梨花の分の着替えを風呂場の前に置いた。
ついでに濡れた下着を洗濯機に放り込み、再び部屋へと舞い戻る。
無事に一仕事やりきれた秋広は自然と安堵の息を漏らした。
秋広は着替えを用意せずにバスタオル姿の梨夏に乱入されるのを良しとする性格ではなかった。
むしろ彼はチキンであり、石橋を叩くついでに自らフラグを叩き割る気質だった。
据え膳には決して手を出さずに食えない爪楊枝を咥えるタイプだった。
「あー、さっぱりした」
ほどなくしてシャワーを終えた梨花が満足げな様子で部屋にきた。彼女はしっかりと秋広の用意した予備の服に着替えていた。
ゆったりとしたTシャツにスウェットのズボン。
今の秋広も大差ない服装をしていた。
「着替え、ありがとうね」
「あぁ、サイズがあってないだろうが勘弁してくれ」
「大丈夫。少しぶかぶかなだけだから。それよりワイシャツとか渡されなくて安心した」
「ワイシャツ?」
「ほら、こういうシチュエーションって漫画とかでもよくあるじゃん」
「あぁ……よくあるかどうかはともかく、鉄板ではあるな」
「だよね」
曖昧に肯定する秋広に、梨夏は目を細める。
その顔の新鮮味を覚えた秋広は改めて彼女の顔を見つめていた。
風呂上りなのだから当然ではあるが、梨夏は化粧を落として素顔を晒していた。
年相応の幼さとかすかに垣間見せる大人らしさ。
少女と女性の中間といった思春期独特の魅力的な顔立ちがそこにはあった。
肌はきめが細かく、頬はシャワーを浴びたせいかわずかに赤みが差している。
その顔に秋広は思わず見とれてしまった。
「おじさん、そんなに顔をじろじろ見ないでよ」
不意に、刺々しい声が投げかけられる。
気づけば梨夏は苦々しげに秋広を睨み付けていた。
梨夏らしからぬ珍しく険の籠った声と態度に、思わず秋広はぎょっとした。
その事に梨夏も気づいたようで、垂れ目がちな瞳を大きく見開いている。
そんな声や態度をするつもりは彼女自身にもなかったようだ。
「……すまん」
「ううん、こっちこそ、ごめん」
秋広と梨夏は交互に謝罪を口にしながら、互いに目を逸らした。
二人の顔には同じような気まずげな表情が浮かんでいた。
「女性に対して失礼だった」
「違うって、今のは私が悪かった」
繰り返される力ない謝罪が、二人の間を空しく飛び交う。
そして今までの気安さが嘘のように、長い沈黙が訪れてしまった。
家の外からは未だに強い雨音が聞こえてくる。
こういう時になんて言えばいいのか。
対人経験値の低い秋広は答えを出すことが出来ない。
そんな空気を破り、先に口を開いたのは梨夏の方だった。
「うん、まあ、考えてみたら私とおじさんって恋人だし。別にすっぴん見るぐらい普通だよね」
「ちょっと待て、何時の間にそうなった」
「え、泊めてくれるって決まった時」
「それは友達としてって言っただろ」
「大丈夫。分かってるから」
懸命に主張する秋広に対し、梨夏は腕を組んでしたり顔で頷いていた。
「私ちゃんと知ってるから。そういうのツンデレって言うんでしょ」
「違うわ。ツンデレちゃうわ」
「あはは、おじさんテンパりすぎてキャラ変わってるじゃん」
楽しげに笑う梨夏の声は不自然なくらいに明るい。
この嫌な空気を払しょくするべく梨夏があえてそうしている事を、流石に秋広も理解していた。
年下である彼女に気を遣わせてしまった事に申し訳なさを覚え、秋広は道化を演じる事に付き合った。
「テンパってねえし」
「今の言い方、うちの学校の男子そっくり」
「男はいつまで経っても童心を忘れないもんなんだよ」
「へー。おじさんもう歳なんだから、そろそろ大人になってね」
「おじさんとして忠告しておいてやるが、アラサーは意外と繊細な生き物だから気をつけろ」
「あ、やっぱり年齢って気になるものなの?」
「いや、正直あんまり。むしろ社会人になると割とどうでもよくなる。たまに自分の年齢を忘れるし」
「へぇ。そーいうもんなんだ」
梨夏が感心した声を上げる頃には、すっかり空気も弛緩していた。
秋広と梨夏はどちらともなく笑いあい、互いに向き直った。
「まあ、恋人っていうのは半分冗談だとして」
「半分じゃなくて全部冗談にしてくれ」
「それはそのうちね。それはともかく、おじさんには改めてお礼しないとね」
「それなら飲み物の礼って事でチャラにしといてくれ」
「飲み物?」
秋広が視線を戻すと彼女は不思議そうに首を傾げていた。
「レモンティ。初めて会った時にくれただろ」
「あ……あー、言われるまで忘れてた。おじさんよく覚えてたね」
「受けた恩は忘れない主義だからな」
「じゃあ私も、今日の事とかお礼しなきゃ」
「そっちは俺が勝手にやったことだから気にするな」
堂々と言ってのける秋広に、梨夏は呆れるしかなかった。
微笑とも苦笑ともつかない表情で梨夏は小さく息を漏らす。
「おじさんって、変な所で自分勝手だね」
「たぶん、梨夏の影響を受けたんだろうな」
「あ、ひどい。まるで私が変みたいじゃん」
「変じゃなかったら、いきなり見ず知らずの相手に『死にそうな顔』なんて言って話しかけないと思うぞ」
秋広の言葉に梨夏の肩がビクりと跳ねる。
何事かと思って見返すと、梨夏はとても決まりが悪そうに身体をもじもじ動かしていた。
「あ……その、ごめんね。実はその話……嘘なんだ」
突然の言葉に秋広の理解が及ばない。だからその疑問をそのまま問いかけた。
「嘘っていうのは、どういう意味だ?」
「……私がおじさんを知らないってこと。ごめんね、実は知ってたんだ」
「……どういう意味だ?」
問い詰める秋広の声は自然と固さを増していた。
梨夏は居ずまいを正しながら、言いにくそうにぽつぽつと喋った。
「父さんに、聞いてたの」
「梨夏の、お父さんに……?」
「うん……写真も……スマホで撮った奴を見せて貰った事があるんだ」
「という事は、梨夏のお父さんと俺は、知り合いか……?」
梨夏の言葉に秋広は俯いて考え込んだ。
秋広の交友関係は狭い、というよりもほとんどない。
梨夏ぐらいの年頃の子を持つ親などそれこそ皆無に等しい。
なにせ秋広の知り合いは、プライベートではほぼおらず、あとは会社の付き合いぐらいしかないからだ。
そこまで考えた秋広は、一人だけ思い当たる人物がいる事に気が付いた。
その相手に写真を取られた記憶もある。
あれはたしか会社の飲み会での事だ。
その事に思い至った秋広はぱっと顔を上げる。
秋広の顔をじっと見つめながら梨夏はしっかりと頷いた。
「私の苗字、小杉っていうんだ」
「お父さんって……小杉部長だったのか……」
「うん。おじさんの上司が、私の父さん。いつも父がお世話になってます」
「ああ、いえ……こちらこそ……」
滑稽なやり取りだと自覚しながら、自然と互いに座したまま頭を下げていた。
顔を上げた秋広は改めて梨夏の顔を見つめた。
その言われれば、たしかに部長と梨夏は似ていない事もなかった。
特に垂れ目がちな目元のあたりは印象が似ている。
しかし、それだけだ。
言われない限りは二人が親子だったなんて、絶対に気づかなかっただろう。
事実、今まで毎日のようにお互いに会っていたにも関わらず、秋広は言われるまでまったくその可能性を考慮していなかった。
「似てないでしょ? 私もそう思う。私って母親似らしいんだ」
ぶしつけな秋広の視線に梨夏は苦笑を浮かべ、自分の髪の毛を指先で弄ぶ。
「髪も母親からの遺伝のせい。会った事はないから本当かどうかは知らないけど」
父については『父さん』と呼び、母については『母親』と使い分ける梨夏。その違いに気づきながらも秋広はあえて触れずに先を促した。
「会った事がないっていうのは?」
「うん……父さんたちってね、もうずっと昔に離婚してるの」
梨夏の声は自然と沈んでいった。
まるで自分の中の澱り物を搾り出すような彼女の言葉を、秋広は静かに聞き続けた。
「離婚したのは私が物心つくずっと前。たぶん赤ちゃんだった時なんじゃないかな。父さんあまり詳しく話してくれないから、よく分からないけど」
「面会とかは……したことないのか?」
秋広の問いかけに梨夏はきっぱりとかぶりを振る。
「断られた。ちょっと前の事だけど、電話であの人にはっきり言われたよ。『あなたとは会いたくもないし、会うと家族が心配するから』って」
「それは……」
「ひどいよね。私だって、本当は家族だったのにさ。最初は何を言われたのか理解出来なかったもん。目の前が暗くなるって本当にあるんだって、あの時はじめて知ったよ」
と、そこまで言って梨夏が顔を上げる。
そして声を失った秋広を見て、苦笑を浮かべた。
「まあ、感動の再会を期待してたわけじゃないし、どんな人なのかなーって気になってただけだから、会えなくてもよかったんだけどね」
そう言って笑う彼女の表情はとても痛々しかった。
そんな顔をさせてしまった事が居た堪れず、秋広は頭を下げた。
「変なことを聞いて悪かった」
「謝らないでよ。おじさんには聞いて欲しかったんだから」
「俺が聞いていいのか?」
「うん。おじさんには私の事、知って欲しかったから。それに説明するって約束したじゃん、家出の事」
「それじゃあ……母親との事が家出の原因なのか」
「当たらずも遠からず、ってとこかな」
梨夏が何かを思い出すように遠くに目を向ける。
秋広もつられて視線を巡らせるが、そこには古びた壁面しかなかった。
壁に目を向ける秋広の耳に「きっかけではあったのかな」という呟きが聞こえてきた。
「あの人に会えなかった日にね、私の顔が母親に似てるって言われたの思い出しちゃってさ。それでなんとなく、嫌だなって思ったんだよね。それだけじゃなくて、前に言った事もあったんだけど……とにかく色々嫌になって。だから化粧して、ついでに服装も変えてって……そしたら父さんが慌てちゃってさ」
「怒られたのか」
「だったらよかったんだけどね」
秋広の問いかけに梨夏が苦笑を浮かべて首を振った。
「父さんったら、私の見た目が変わったら、急によそよそしくなっちゃって。おじさんもなんとなく分かるんじゃない。父さんって、ほら、なんだかんだで気が弱いじゃん?」
そういえば小杉部長にはそういう気弱な所があった。
優柔不断というか、判断に困る事柄があるとすごく悩む癖があった。
どうしようもない板挟みにあって辛そうな顔をしているのを見かけた事も決して少なくはない。
「父さんとは、大の仲良しってほどでもなかったけどさ。普通の親子だったから、別に仲が悪かったわけでもないんだよ。なのに全然話もしなくなって、目もあんまり合わせてくれなくなって……それで家に居ずらくなってさ……」
「家出をした……と」
「……うん」
「……帰るつもりは、ないのか?」
「……自分でも分からない」
梨夏が膝を抱えるように丸まる。その目は小さく揺れていた。
「実はね、今日、着替えを取りに戻った時に、父さんに会ったの」
「――え?」
「早退してたみたいでさ。それで家でバッタリ」
梨夏の言葉に秋広は部長が早退していた事を思い出した。
そして再び会社に居た事も。
「部長――お父さんと話はしたか」
「……ううん。家出する前と同じようによそよそしくて、目を合わせてくれなかった。だから私も、何も言わずに着替えだけ取って、そのまま家を出たんだ。それで、今に至るってわけ」
――やるせない。そう秋広は感じた。
梨夏の母親の態度には怒りすら覚えるし、部長の態度にも呆れるしかない。
これでは梨夏が救われない。
梨夏の行動に問題がないわけでは決してない。
母親の拒絶から派手な見た目をするようになったのは決して褒められる事ではないし、未成年である彼女が親に無断で家を出るのは良くない事だ。
しかしそれはあくまでも、結果論に過ぎない。
母親がもっと歩み寄っていれば、父親が梨夏と話をしていれば。
決してこんな事にはならなかったはずだ。
そう思うからこそやるせない。
「ねえ、おじさん。私どうすればよかったのかな」
膝を抱え込んだまま梨夏はすがるような眼差しを秋広に向けていた。
まるで秋広に問えば答えが返ってくるかのように。
その期待を感じながら、秋広は少しだけ話を変えた。
「実はな。俺の両親ってもういないんだ」
「……どういうこと?」
「二人とももう死んでるんだよ」
その突然の告白に唖然とする梨夏に、秋広はゆっくりと自分の境遇を説明した。
父親とは小学生の時に急逝した事。
その後はシングルマザーとなった母親に育てられた事。
そんな母親も自分が大学を出て社会人になった直後に病死した事。
頼れる親戚もなく、既に天涯孤独である事。
そのすべてを秋広は梨夏に伝えた。
「お袋が病気になった時に思ったんだ。どうしてこんなになるまで黙ってたんだって。もっと早く相談してくれれば、もっと違った結果もあったろうにって。自分勝手だけど、お袋にキレた事もあった。俺は大学に行かせてほしいなんて一度も言ってなかったのに、って」
自分の身の上について話した事も、その心の内を吐露するのも、秋広にとって人生で初めての事だった。
「そのせいか、お袋の葬式の最中に泣かなかったんだ。お袋が死んだのは自業自得だって。自分で言うのもなんだけど、完全に八つ当たりだよな」
とりとめもない話を秋広はぽつりぽつりと続けていく。
梨夏はそんな秋広の話を黙って聞いていた。
「でもさ、お袋のお骨を親父と同じ墓に入れる時に、ふと気づいたんだ……そもそも俺が、お袋に対してなんにも話してなかったなって」
秋広はその頃から自責の念を抱えて生きていた。
自分勝手なのは母親ではなく秋広自身だった。
何も言わずに、その結果何にも知らず。そのせいで母親は死んでしまった。
母親を殺したのは間接的には自分自身である。事実はどうあれ、秋広はそう考えていた。
その事に、母のお骨を墓に入れる頃にようやく気づいた秋広は、その墓前で涙を流した。
「……おじさん」
梨夏はじっと秋広を見つめていた。
その表情に秋広は言いたかった事が伝わっている事を理解した。
「梨夏……明日になったら家に帰ってもう一度、お父さんと話してみないか?」
「……でも。父さん、話、聞いてくれないかも」
「聞いてくれないかもしれないし、話しても駄目かもしれない。でも、話さないと絶対に俺みたいに後悔する。梨夏には同じ思いはしてほしくない」
それが秋広の偽らざる本心だった。
「……もし話しても駄目だったら……また泊めてくれる?」
「ああ、好きなだけ泊めてやる」
秋広が大きく頷く。
そんな秋広に後押しされるように、梨夏はわずかな沈黙の後、首を縦に振った。
「うん……分かった。父さんと話してみる」
「あぁ。応援してる」
「ふふ、ありがとう」
うっすらと涙を浮かべ、梨夏は微笑した。
――そして翌日、梨夏は朝早く帰っていった。