01
その日も秋広は終電近い時間まで働いていた。
秋広は会社の誰よりも人一倍働いていた。
それは他人が見れば仕事が趣味のようにも映るかもしれないが、そうではない。
元々、趣味と呼べるようなものを持っていない秋広は、仕事以外にする事がないだけだった。
早く帰っても家には誰もいない。かといってしたい事もない。
そんな無為な時間を過ごすのは苦痛で仕方なかった。
だからこそ秋広は仕事に逃げた。
酒に逃げる事という選択肢は最初からなかった。
幸か不幸か、秋広は酒が飲めない体質だった。
自宅の最寄り駅で電車を降り、誰もいないホームから改札を出た秋広は、無意識に深いため息をついていた。
辺りを照らす街灯が、人気のない駅前広場に影を落としている。
広場に吹く風が街路樹を揺らし、落ち葉をかすかに飛ばしていた。
気づけば秋広は足を止めて、そんな景色を眺めていた。
見る人が見れば、綺麗な景色と取るだろう。
けれど秋広はとある小説で、「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬ」と嘆いた画家のように、重く憂鬱な気分に取らわれていた。
明日も朝から仕事が待っている。
仕事は嫌いではないが、好きでもなかった。
ただ生きていく上で必要だから続けているだけだ。
かといって他に何かやりたい事があるわけでもない。
今日も家に帰った後は、軽く飯を食べて、風呂に入って、眠るだけ。
――仕事の定年を迎えたらきっとボケるんだろうな。
そんな陰鬱な気分を抱えながら、秋広は再び歩き始めた。
彼女が声をかけてきたのは、そんな時だった。
「おじさん、死にそうな顔してるけど、大丈夫?」
最初はその声に気づかなかった。いや、気づいてはいたものの自分に声をかけているとは思ってもいなかった。
大方、他の誰かの会話が聞こえたのだろう。
そう結論付け、秋広は駅を離れようとしていた。
「ちょっと、おじさん! 無視しないでよ」
背中から聞こえる、先ほどよりも強い調子の若い女の声。
それが自分を呼んでいるのだとようやく気が付いた秋広は背中越しに振り返った。
そこには制服を着た見覚えのない女子高生――もといギャルが腕を組んで立っていた。
鮮やかな金色に染められた長い髪に、透けるような白い肌。
そして幼げではあるものの、とても良く整った顔出ち。
垂れ目がちな眦に形のいい小鼻。
しかしそんな顔を覆うメイクは、化粧慣れしていないせいか妙にけばけばしく、折角の美人を台無しにしていた。
なまじ目鼻立ちが良いせいで、あべこべな印象すらあった。
すらりとした身体を覆う制服は、間違いなく地元の進学校のものだ。
しかし激しく着崩しているために、元々は地味だった印象を大きくがらりと変えている。
スカートはまるでお尻が見えそうなほど異様に丈が短く、シャツは胸元まで大きくはだけている。
しかも本人の胸が大きいために、余計に目のやり場に困った。
「おじさんって、俺のことか?」
まだおじさんと呼ばれるような歳ではない。
そう言いたかったが、高校生からしてみればアサラーはおじさんか、そう内心で決着をつけて秋広は口には出さなかった。
「え? 他に誰もいないじゃん?」
言われて秋広は周囲を見渡す。
終電が過ぎた駅前は相変わらず閑散としており、自分と少女以外の人影はなかった。
この駅は、住宅街からも繁華街からも微妙に距離があり、いつも深夜になると人の通りがなくなってしまうのだ。
「たしかに。誰もいないな」
「でしょ?」
「で、俺に何か用か?」
秋広は警戒心を新たに少女に向き直った。
今までの人生でこんな女子高生に絡まれた事など一度としてない。にも関わらず、現にこうして話しかけられている。
相手の目的がどこにあるのか、まったく分からなかった。
しかしそんな秋広とは裏腹に、少女はあっけらかんと笑っていた。
「いや、用はないんだけどさ」
「はぁ……?」
「おじさんが今にも死にそうな顔してたからさ。なんか心配になって声かけたの」
「死にそうな顔?」
そう言われて秋広は自分の顔を撫でた。
頬がたしかに強張っている。
しかしそれは唐突にこの少女に声を掛けられたせいだ。
誰だって見ず知らずの人間にいきなり声を掛けられれば不審に思う。
「今は違うけど、さっきはすんごく暗い顔してたよ?」
「いや、気づかなかったな。まあなんだ、景気の悪い顔を見せてすまなかったな」
秋広は訝しんだ。
一体、自分はなぜ見ず知らずの子供に絡まれているのだろう。
そういえば最近、サラリーマンを襲った通り魔事件があったと聞いた覚えがある。
もしかしたらどこかでこの子の仲間が隠れていて、今にも自分を襲おうとしているのではないか。
そんな妄想が秋広の脳裏をよぎり、自然と視線を周囲に向けさせた。
しかし、辺りを盛んに見渡す秋広の事を少女はただじっと見守っていた。
「どしたのおじさん? 急にきょろきょろして」
「……いや、なんでもない」
いくら秋広が周囲に目を向けても、自分と少女以外の姿は見当たらない。
自分の心配が杞憂と徒労だった事に秋広は小さく安堵の息をついた。
それでも、問題がすべて解決したわけではない。
結局、目の前の少女は何者なのか。
「で……君はなんで俺に声をかけたんだ?」
「さっきも言ったじゃん? 別におじさんの景気が悪いかは分からないけどさ、暗い顔してたから気になってさ。嫌なことでもあったのかなーって」
「で、俺に声をかけた、と?」
「そゆこと」
他に理由なんてないし。そう付け足しながら少女は苦笑していた。
その答えに秋広の困惑は増すばかりだ。
なぜ暗い顔をしていただけで見ず知らずの他人に声をかけられないといけないのか。
そう考える程度には秋広は人付き合いが苦手だった。
「あー……俺は君と会った事が過去にあったか?」
「なに、ナンパ?」
途端に少女が固い声を返してくる。
その予想外の反応に秋広は面食らった。
「おじさんと会った事なんてないよ」
「そうか……」
ならば余計に理解出来ない。
せめて面識があるならば、気を掛ける理由も分かるのに。
それでも、理解出来ないなりに理解しようとして、秋広は問いを重ねた。
「あー……もしかして心配してくれたのか」
「心配?」
問いかける秋広に、少女はきょとんとした表情を返す。
そして顎に手を置きながら思案げに口を開いた。
「んー。そう言われればそうかも。どっちかというと好奇心だけど」
「だったら見ず知らずの男にいきなり声をかけるのはやめときなさい。好奇心は猫を殺すっていうだろう」
「そこでなんでわざわざイギリスのことわざが出てくるの?」
予想外の返しに秋広は目を見張った。
まさかギャルのような――というよりギャルそのものな――見た目の少女がその言葉を知っているとも思っていなかったし、それがイギリスのことわざであることを知っているとも思っていなかったからだ。
もしかしたら見た目に反して頭はいいのかもしれない。
進学校に通っているだけの事はある。
そんな事を考える秋広に対し、少女は小さく口をとがらせていた。
「おじさん。いま私のこと、馬鹿にしてたでしょ」
「……そんな事ないぞ」
「うそ。顔見れば分かるよ」
思わず否定する秋広だったが、わずかな逡巡と表情から多感な年ごろの少女は詭弁を見破る。
人気のない駅前広場に少女は呆れるような溜息がやけに大きく響いた。
「ま、いいけど。で、話の続きだけど、別に襲われそうになったら逃げればいいだけだし。こう見えて私、脚早いんだから」
「そういう問題でもないと思うけどな」
「別におじさんは私を襲う気なんてないでしょ? なら問題ないじゃん」
「確かにそうだが……」
そういう問題なのだろうか。
秋広は釈然としない思いを抱いたがそれ以上の追及はやめておいた。
正直に言えば、さっさと話しを切り上げて帰りたかった。
しかし不思議と彼女を無視するのも気がとがめた。
それは彼女のあけっぴろげさが原因かもしれないし、久しぶりに気兼ねなく他人と話をしているかもしれない。
秋広自身にもその理由は分からなかった。
「でさ、結局なんでおじさん暗い顔してたの?」
「そんなに暗い顔をしてたか?」
「うん。この世の終わりみたいな顔してた」
「言いえて妙だな」
人生に悲観をしていたという意味では、この世の終わりという表現は間違っていない気がした。
はっとした様子で、少女は目を見張り。やがておずおずと問いかけてくる。
「……もしかしておじさん、なんか重い病気を抱えてるとか?」
「いや、幸か不幸か持病はない」
「病気じゃないなら不幸ではないんじゃないの?」
「まあ、そうかもしれないな」
いっそ病気で余命幾ばくもないならば、終わりが見えて気が楽になるかもしれない。そう内心で考えていた秋広に、よく分からないとでも言いたげに少女は小さく首を傾げた。
その拍子に、長い金髪が肩のあたりでサラリと揺れた。
「煮え切らないなー。じゃあ仕事のトラブル?」
「いや、仕事は順調だよ。毎日遅いけどな」
「あー、こんな時間だもんねぇ。忙しいよねぇ。お仕事お疲れ様」
「あ、ああ。ありがとう……」
彼女に何気なく仕事をねぎらわれた瞬間、奇妙な安心感というか安らぎを覚え、秋広は困惑した。
そんな秋広の内心に気づく様子もなく、少女は訳知り顔でうんうんと頷いている。
「そんなお疲れのおじさんには私が特別に飲み物をおごってあげよう」
「え?」
言うが早いか、少女が近くの自動販売機まで走っていく。そのフォームはとても綺麗で、たしかに本人が言う通りに足も速い。
そんな事を考えている間に彼女はさっさと飲み物を購入して戻ってきた。
秋広にはただ呆然と飲み物を受け取る事しか出来ない。
「温かい物飲めば少しは気が休まるよ」
秋広が掌に収まる小さなペットボトルに目を落とす。
コンビニでもよく見かけるレモンティはほのかに温かかった。
「すまん、金は払うから」
ズボンに居れた財布へと手を伸ばす秋広を少女が手で制した。
「いいっていいって。私とおじさんの仲じゃん」
「どんな仲だ」
「んー……夜更かし同盟かな」
そういってケラケラと笑う彼女の顔は年相応の幼さを垣間見せた。
いくらメイクをして大人びようとしていても、相手は高校生なのだ。
そんな彼女に、秋広は少し――ほんの少しだけ興味を持った。
「君はこんな夜遅くに何をしてたんだ?」
「え、私? んー、内緒。まあ、しいて言えば人間観察かなぁ」
「……それはズルくないか」
あからさまにはぐらかしに秋広は思わず突っ込みを入れてしまう。
そもそもこんな人通りの少ない場所で人間観察など出来るわけもない。
コケにされたのだろうか。しかし少女は悪びれもせず再び口を開いた。
「そうでもなくない? おじさんだって別に本当の事言ってるわけじゃないでしょ。ああ、仕事で疲れてないってわけじゃないけど、暗い顔してたのは別の理由があるんでしょ?」
「……なんでそう思った?」
秋広が疑問を投げかける。
その問いに『私はまだ働いてないから間違ってるかもしれないけど』と前置きをした上で少女は口を開いた。
その視線は何かを思い出すように、わずかに上を向いている。
「仕事が充実してるならどんなに忙しくても、あんな顔はしないんじゃないかなー、って。私の周りの子とかもさ、バイトとか部活とかでチョー忙しかったりするけど、そんな顔してないし。大変そうだけど、楽しそうにしてるから。だから暗い顔してるのは他に理由があるんだろうなーって」
「……なるほど」
「ま、適当だけどね」
そう言って少女は謙遜していたが、秋広は深く感心していた。
存外に少女は本質をついている。むしろ多感な時期だからこそ見えるものがあるのかもしれない。
いや。きっと彼女自身、感受性が豊かなのだろう。
なぜなら秋広が彼女と同じぐらいの年の時には、そんな事思い付きもしなかったし、考えた事もなかった。
だから秋広は素直にそれを相手に伝えた。
「君はすごいな」
「梨夏」
「リカ?」
一瞬、相手が何を言っているか分からなかった。
思い浮かんだのは授業の理科だったが、おそらくは間違いだろう。
そもそも高校で習うのは科学と生物のはずだ。
しかし他に何のことかも分からず、秋広は首を傾げるしかない。
少女は頷き、繰り返した。
「そ、梨夏。私の名前。果物の梨に季節の夏で梨夏っていうんだ」
「あぁ……名前か、なるほど」
そういって頷く秋広に少女は朗らかに笑った。
屈託のない笑顔は夏のように爽やかだった。
「ちなみにおじさんの名前は?」
「秋広。春夏秋冬の秋に、道が広いの広。で秋広」
「へー。おじさんって秋広っていうんだ。季節繋がりだね」
「随分と広い繋がりだな」
「そう? 四季の名前がついてるって意外とない組み合わせだと思うよ。で、秋広さんとおじさんだったらどっちで呼ばれたい?」
「……別にどっちでもいいよ」
どうせもう会わないだろうし、話もしないだろうし。
そんな内心はおくびにも出さず、秋広は答える。
なにせ自分と相手は何の接点もない他人同士だ。今日はたまたま声を掛けられたが、それは彼女の興味が乗っただけで深い意味はない。
いきずりの他人とのやり取りなど、きっと明日には忘れているに違いない。
そんな確信めいた思いがあった。
「そっか。じゃ、とりあえずこのままおじさんって呼ぶね」
そう言った彼女は大きく両手を上に上げ、身体を伸ばした。
そのせいでただでさえ大きな胸が強調され、秋広は咄嗟に目を逸らす。
「んーっ、よし! じゃ、あんまりここでおじさんを足止めしてても悪いし、私はそろそろいくね」
「あ、あぁ……」
「バイバーイ、またね」
大きく手を振り、梨夏は未だにぎわいを見せる繁華街の方へと消えていく。
出会いと同様に別れも唐突だった。
取り残された秋広は、その後ろ姿を見送りながら、手元のペットボトルを弄んだ。
そして何かを振り切るように、小さく被りをふって自宅のある住宅街の方へと歩き始めた。
それが、秋広と梨夏のなんとも不思議な出会いだった。