夜
春の宵闇に一本の桜が厳かに咲き誇っていた。小高い丘の上、樹齢何百年にもなる有名な大木はその身を闇に紛らわせようと静かに揺れる。だがその圧倒的な存在は気配を消すことを許されず、孤独を際立たせただけだった。
そんな中、一人の少年が大木を見上げて目を細めた。大木の周囲には他にも数十人の人間がいたが、みな一様に厳しい表情を浮かべている。誰も口を開こうとせず、静寂に桜の囁きだけが響く。
まるで、何かを待っているように。
いや、実際待っているのだ。-------アレ、を。
重苦しい空気の中で、少女が笑った。
来た、と。
瞬間少年は腰に携えた刀に手をかけた。
「茜ッ!」
名を呼ばれた少女は、笑みで返すと、跳んだ。人間離れした、大跳躍。周りの大人達はそこで、ようやく何が起きたのか気づいた。来たのだ、“霊”が。
それは冷やかな空気を撒き散らし、呻いた。
不気味な声は空気を媒介し、丘の上の巨木を揺らした。はらはらと桃色の花弁が次々に枝を離れ、地面に吸い込まれる。
『おい、状況は?』
少年の耳元でイヤホンが返答を促すが、それを無視し少年は笑う。今はイヤホンの声応える気分ではない。刀を抜くと、あいた方の手でポケットから長方形の白い紙切れを出した。紙切れには何やら赤い紋様が入っている。
「飛翔!!」
少年が叫びながら紙切れを地面に叩きつけると、その周りに爆風が生じた。爆風のエネルギーを利用し、少年の体は“霊”に向かって飛ぶ。風の抵抗を感じながらも刀を下段の構えから素早く振りかぶる。しかし、“霊”の方が速かった。一瞬ピクリと震えると、少年を避けるべく身体をくねらせた。
否、くねらせようとした。
“霊”は自分の身体が思うように動かないことに驚く。動きが止まった。少年はその隙を見逃さない。
「はぁぁああああッッ!!!」
すかさず一発、横薙ぎの斬撃を繰り出す。少年は重力に引かれて落下するが、彼の表情には随分と余裕があった。
“霊”はくぐもった呻き声を漏らし、苦しそうに体をよじる。だが、消えていない。まだ足りないのだ。
「チッ」
少年は落下しながら舌打ちをした。それでも彼は相変わらず笑っていた。
彼には余裕などない。弱いこの少年は、道具に頼り、仲間に頼り、そうしてギリギリで闘っている。
“霊”は自分を傷つけた少年に襲いかかろうとした。しかし、それでも少年は余裕の笑みを崩さない。なぜか?理由は明白だ。
-----その“仲間”が優秀であり、またそれを彼が信じているからである。
「茜!」
いつの間にか地上にいた少女は頷き、口を静かに動かした。空気を振動させることのない“声”で、彼女は何かを呟いた。それとほぼ同時だろうか、
「rgつ4095うm03q9う45おw4d5qj@4!!!!!!」
“霊”は先ほどとは比べ物にならない苦痛に叫んだ。“霊”の身体には何かに締め付けられたように、圧迫痕が現れている。茜の“不可視”の術によって目に写らなくなった注連縄が霊をぎりぎりと締め付けていく。苦しみに喘ぐその声に、少女は嬉々として応える。
「浄化」
その言葉に反応し、注連縄が光を放った。が、それも束の間。注連縄は煙をたてて溶けた。
“霊”は束縛から放たれ、溌剌と少年に向かってくる。
一方少年はただ重力に従うのみ。回避は困難に思われた。しかし少年の顔から笑顔は消えない。笑顔のまま、手に持った刀を鞘に戻す。
「ちっ、やっぱりこの注連縄程度の神具じゃだめか!」
「判ってたならさっさと言って。貴重な力と神具を無駄にした」
少女が文句を言いながらも落ちてくる少年を受け止めた。平然と、当たり前に、表情ひとつ変えず。
「悪い、な、っと!」
少年は"霊"から逃げるように、少女の腕から転がり落ちた。
少年が消えたその腕へ、"霊"は勢いよく飛びかかるーーー!
ーーーー爆風。
衝撃が走り、全身が地面へとめり込んだ。
ただしそれは少女ではなかったし、少年でもなかった。もっと言えば人間でもなかった。
少女が飛びかかってきた“霊”をはらったのだ。
祓った、ではない。実際“霊”は消えていないからだ。
少女は突然飛んできた何かを、無造作にはらっただけなのだ。まるで小さな虫のように。
少年はその力を目の当たりにし、苦笑する。
(まったく、力量の差がでかすぎるっての)
一方少女は“霊”のことなど忘れたように、少年だけを見据えて口を尖らせた。
「まったく。霜が"それ"をきちんと扱えていたら、こんなに苦労しない」
「全く正論だな」
それは霜も痛感していることである。反論の余地もない。
茜はさらに言葉を重ねる。
「あと、毎回女子に抱き抱えられるなんて恥ずかしくないの?ちゃんと鍛えるといい」
「鍛えてどうにかなる問題じゃねーっつうの!あと俺より強いお前を女子として認識する方が抵抗があるからなあ」
「…今度落下した時は自力でどうにかしてもらう」
声の温度が急激に低下した。
「誠に申し訳ございません。今後ともよろしくお願いいたします」
「…ん。次はきちんと仕留めて」
許す条件を提示しているのか、許した上で鼓舞してくれているのか。少年には判別できなかったが、いずれにせよ次は逃がすという選択肢は存在しない。
会話の最中、何回かの仕打ちに怒り心頭に発した“霊”は、わなわなとふるえながら上昇していくのが見えた。自力で跳べる茜とは違い、霜はまたしても道具に頼らなければならない。
再びポケットから紙切れを取り出す。先程と同じ様に、叫び、空へと飛ぶ。
「飛翔!!!」
『おい、仕留め損ねたのか?きちんと報告しろ!』
イヤホンから声がする。うるせぇな茜との会話聞いてりゃわかるだろ、と早口でいいながら刀を抜く。
手入れの行き届いたその刀は、月の光を浴び美しく光った。
霜はこの刀を上手く使いきれていない。ただの刀ならば話は別だが、この刀<ユキシルベ>はただの刀ではない。
霊力が宿る由緒正しき刀であり、意思を持つ刀なのだという。なんと、刀が持ち主を決めるというのだ。
刀が利用する者を主だと認めない限り、本来の力は出ない。霜は〈ユキシルベ〉に認められるべく試行錯誤してきたが、結局認められず今に至る。
霜が薄く溜め息をつくと、辺りが暗くなった。"霊"と月が重なったのだ。
(---月が、見えない)
上昇を続ける霜の体は、徐々にスピードを落としていく。そして最高点に達した。その刹那。静止した一瞬。
「おい、月を隠してくれるなよ」
横に一線、風が吹いた。
音はしなかった。いや、音が消えた。音が消えた世界で、霜の言葉だけが響いた。
そして"霊"は音もなく真っ二つに裂けた。
それからひと呼吸おいてから、思い出したように桜の木が騒ぎだした。
"霊"は重力に導かれ、落ちていった。
巨木のざわざわという音とともに、はらはらと、崩れながら、堕ちていった。
霜も地面へ落ちる。月を目に写しながら、笑いながら。
(今日は満月だからな)
勝利の余韻を楽しむのも束の間、彼の顔が歪む。
「いってぇ!!!」
思わず叫ぶ。頭は混乱し、だがすぐに状況を確認した。
ーーー桜色?
着地点にいたのは、茜ではなく桜の木だったようだ。次々に体に衝撃をうける。枝が鞭のようにしなり叩きつけてくる。
散々だ。痛い。地味に痛い。そんなことを考え、涙目になる。
終いには幹の枝分かれした部分に頭を激しく打ちつけ、気を失うという結果になった。
*********
「多摩橋。聞こえる?」
『ああ。で、無事に狩れたのか?』
イヤホンから少年の声がした。茜は桜の木に向かって歩を進める。
「うん。でも霜が木に頭打って気絶してる。」
『…はあ、あいつは報告任務を怠るだけじゃなくそんな醜態を晒しているのか。珠崎、回収を頼む。』
「わかってる。…隆哉のほうは?」
『いつも通り。あいつは何の問題もなく任務を遂行したぞ。それじゃあ、またあとでミーティングするからな。』
そういって、イヤホンは沈黙した。
茜は桜の木に片手でひょいと飛び乗った。それから上の方へよじ登り、片手を伸ばす。枝の股に引っ掛かったままの霜を回収しようと、腕をつかむ。
茜と霜の、目があった。
霜は起きていたようだ。茜が睨むと霜は苦笑してふらふらと立ち上がった。
「悪い悪い。心配した?」
茜はさらにきつく睨むと、さっさと木から降りこの場を離れていった。人間離れした脚力で、人間離れした速さで。
茜は霜の心配などしない。それは長い付き合いで分かっているのでさっきの台詞は冗談だったのだが、茜の機嫌を損ねてしまったようだ。
(まあどうせ、本部に戻った頃には機嫌直ってるんだろうけど)
このあとはMRO本部にてミーティングという名の反省会が開かれる。そこで霜がボロボロに貶され、酷いペナルティが課されるのは明白だった。
憂鬱な気持ち発散するように頭をかくと、べったりと手に血がついた。どこからか出血しているようだ。よくみると、服や体もボロボロだ。
途中まではよかったが、最後の最後で失敗した。家に帰るまでが遠足です、という言葉を思い出す。本部に戻るまで気を抜くべきではなかった。だから詰めが甘いと多摩橋や茜に怒られ、隆哉や鞍葱に苦笑されるのだ。
〈ユキシルベ〉もまだ使いこなせないままだ。今回のような小物なら、状況が整えば浄化できる。だが今のままではいけないと常日頃から感じている。
隆哉と茜…いや、隆哉だけでも大抵の"化け物たち"を狩ることができるが、今後もそうだとは言い切れない。それに、自分だけ力になれないことが、下手したら足手まといになることが悔しい。
兎も角も、木の上から降りるべきだろう。早く戻らないと怒られる要素が増えてしまう。
茜とは違い、恐る恐る慎重に木から降りる。そこで霜は初めて気づいた。
数十人の視線に。
(政府直属の陰陽師の方々はこっわいなー。公務員のエリート様は有能なMROみんえいがそんなに憎いのかね)
皆一様に黒と白の和服を着て、霜を睨み付けている。誰も言葉を発することなく、怒りを露にすることなく、無表情だった。無表情で感情を出さず、それでも睨んでいると相手に知らしめるその表情に霜は苦笑しかできなかった。
霜は無言の重圧に見送られながら、ゆっくりとその場を去った。
高校生のときに書いた作品を発掘したので供養。
とりあえずある分だけ投稿します。