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レストランを照らしていたいくつもの炎は、自分はただ燃えるだけ、誰にも関しない、といったように燃え続けていた。通りを歩く人々もまた、何にも興味がないように黙々と自分たちが望んでいるだけの行動をしていた。だが、そう思ったのはオルガだけだった。炎にも人々にも他者に関係する余裕はあった。世界から浮いた存在になったような、時間の神が自分だけを瞬間に残したような気がしたのは、オルガの気のせいだった。
オルガは強者に睨まれた動物のように、身動きを取らず、状況がどう動くのか辛抱強く待った。
強者であったピピは、出した手を引っ込めず、そのまま一歩前にでた。
オルガはその行動を見ていたが、それに対応して動くことはできなかった。
「三百モール。お金貸して。くれって言っているわけじゃないよ。すぐ返すし」
「いや……」とオルガは彼女の声に反応したが、言葉を受け取るのには時間がかかった。「そういうこと言われても」
「これ、本当のお願いだから。何なら今まで貰ったお金も返す」
「いや……。その前に何に使うのですか、姉さん」
「姉さん?」とピピは、その言葉に引っかかった。「久しぶりだね、その呼び方」
「いや……。何に使うのか教えてくれ」
「それは秘密」
「じゃあ、貸せない」
「じゃあ、貰う」とピピは笑顔を作って言った。
「貰う?」とオルガは怪訝な顔をした。
「ベッド、本棚、キッチン」
「ベッド、本棚、キッチン。確かにそうだな」とオルガはお金が隠してある場所を思い浮かべながら言った。顔に妙な笑い皺ができた。
「貸してくれないなら、貰うよ?」
「貰わせない」
「じゃあ、昔みたいにかけっこする?」
「子供の頃と違うんだ」
「でも、どっちが早いか一目瞭然だよ?」
オルガは何も言わなかった。確かに、競争を始めれば一目瞭然だろう。
「分かった。だけど、ちょっと歩こう。最近何も話せていなかったからね」
オルガがそう言ってゆっくりと南に向かって歩きだすと、ピピは彼の横に付いて一緒に歩き出した。
「なんで教えてくれないんだ? 何に使いたいかくらい言ってくれてもいいだろう。俺の金なんだ」
「うん」
ピピはそう言ったが、何も口に出そうとはしなかった。オルガは仕方なく黙って歩いたが、今度ばかりはお金を渡すつもりはなかった。
今日は月が出ていた。そのせいで夜道は明るく、夜空に散らばっている星々は主張を穏やかにしていた。
「月が出てるね」とオルガは横を歩くピピに言った。
「そうだね」
「昨日は出ていなかったんだけどなぁ」
「昨日も出てたよ」
「でも、昨日は見てないよ」
「見えてないだけだよ」
「そんなことってあるのかな?」
「月も星の一つだよ。月の神は、星の神の親だもの。今、見えてない星があるように、昨日は月が見えない番だったんだよ」
ピピは白銀の髪の毛をかきあげた。彼女の横顔が耳まで、しっかりと見えた。すっきりとした、整った耳を彼女は持っていた。
「そういえば、神様のことをよく知らないな、俺は」
「星の神は出会いと別れの神様でもあるのよ。知ってた?」
「へぇ。知らなかったな」
「うん……。だからね……」
「だから?」
家へと戻るために、いつも使っている階段を降りはじめるとピピは足を止めた。
「だから私は、あの人を殺したやつを殺すの」
オルガは振りかえり、ピピを見上げた。月明かりに照らされた女の顔には意思が強く表れていた。金色の眼差しはしっかりとオルガを捉えていた。オルガはまた身動きが取れなくなっていた。柔らかい、しかし、鋭い何かを彼は突き付けられていた。
「兄貴の……」
オルガはそう口を動かし、ピピの心持を計った。そしてやはり、三年前に殺された兄、ピリオーノが次第に彼の頭を占拠し始めた。
ピリオーノは星の降臨地に捨てられていた。しかし、人々は捨てられていたとは言わなかった。生まれた、そう言った。
ピリオーノは金の髪を持った子供だった。星の守り人とは逆で、金髪に数本の黒髪が見え隠れしていた。
ピリオーノを引き取ったのは、ハキキセリオムと呼ばれていた男とその妻だった。男の方は星の守り人で、女の方は商人の娘だった。彼らに子供はなく、そのため強く申し出たのだった。ピリオーノという名前も彼らがつけた。流れ星という意味だった。
ピリオーノは一人で捨てられたわけではなかった。星の降臨地の岩に置かれた彼の横には、一本の剣が置かれていた。細長い両刃の剣だった。育ての親がそれを危ないからと遠ざけると、彼は狂ったように泣きはじめるのだった。
ピリオーノはすくすくと育った。普通の子供と同じように、親を楽しませ、困らせた。しかし、彼はどこか不思議な雰囲気を持つ子供だった。暇があると星の降臨地へ行き、剣を振った。一日何もしゃべらず、岩の上に座って何かを考える時もあった。そこには誰も寄せ付けないような空気があり、誰もが興味を惹かれるような空気があった。
彼が八歳になった頃、子供のできなかった夫婦に男の子が誕生した。オルガルデピリオと夫婦は名付けた。ピリオーノは血のつながっていない彼を拒絶することなく、誕生を素直に喜んだ。
オルガが歩けるようになると、ピリオーノは彼を色々な場所へと連れて行った。街中を走り、丘を登り、山ではしゃいだ。彼が四歳になると、ピリオーノはナイフをプレゼントした。そして、ナイフ投げを教え、それを練習させた。
十二歳になったピリオーノは、街で開かれた剣術大会に出た。結果、見事に優勝した。子供ながら、巧みな剣さばきを見せ、大人たちを驚かせた。街の自警団は彼を、仲間にしようとしたが、彼自身はそれを嫌がった。「できるだけ自由でいたい」と彼は言った。
十七歳になっても、彼は働かなかった。その日のほとんどを剣と他人と関わらない何かに費やした。
その頃に、ピピが現れた。彼女は街の人間ではなかった。外からやってきた人間でもなかった。誰も彼女がどこからやってきたのか分からなかった。知っているのは彼女とピリオーノ、そしてオルガだけだった。
彼女はピリオーノが赤ん坊の時から、ずっと一緒にいたあの剣だった。ピリオーノの傍に置かれていた剣は、神武具と呼ばれていた神の遺産であった。そして、ピリオーノ自身も神武具だった。
神武具は、武具と様々なものが合わさった混ざりものだった。剣の姿だけのもの、動物に変身できるもの、人間に変身できるもの、または、その両方に変身できるものがあった。ピリオーノは人間に変身ができ、ピピは人間と山犬の姿に変身できた。
しかし、ピリオーノには所有者というものがいなかった。ゆえに、彼は武具の姿へは戻れなかった。だが、彼がそれを悲しく思うことはなかった。ピリオーノは何者にも、何事にも支配されたくなかった。
彼が人間の姿をしたピピを剣に戻すことはほぼなかった。ただ一年に一度、彼女を剣へと戻した。彼はピピに永遠に美しくいてほしかった。彼女が人間の時に作った切り傷や火傷跡は、その度に消えた。
ピピを一緒に住まわすために、ピリオーノは親に頼み、その条件であった自警団に入った。
そこで彼の力は存分に発揮された。彼の持つ雰囲気と剣技に、並の悪党はひれ伏し、それなりの悪党は切り殺された。
弟のオルガも、ピリオーノの薦めで十三歳の時に自警団に入った。彼らの両親は反対したが、「何かあったら絶対に守る」という長男の誓いを信用し、最終的には入団を認めた。ピリオーノと違い、親しみやすい雰囲気を持っていた弟は、すんなりと大人たちに溶け込んだ。ピリオーノは簡単な仕事を彼に任せ、自分は前と同じとはいかずとも、再び多くの自由な時間を得た。
ピピがいて、弟がいて、両親がいて、自由な時間があって、自分がいた。幸せな時間だった。
だが、それは自分の死によって簡単に崩れた。一番信頼していたものから無くなったのだった。
ピリオーノが二十二歳になった年の夏だった。グランドという盗賊がつくった小規模の盗賊団がアルメにやって来た。彼らは金に換えられるものを盗み、強奪し、それらを売りとばしていた。自分たちの求めるものを得るためになら、町を荒らし、村を燃やし、人の命を奪うことさえやった。そして、その行為を悪行とは思っていなかった。グランドにとって、自分の欲望に背くことが一番の悪であった。
ピリオーノがピピと星の降臨地で話をしていると、山の方から二十名ほどの男たちがやってくるのが見えた。彼は男たちの異様な雰囲気を警戒し、ピピを街に行かせ、自警団員にその事を伝えるように頼んだ。
盗賊たちはピリオーノを発見し、近づいた。
一番後ろにいたグランドはピリオーノに聞いた。
「どこにいいものがあるんだ?」
「ここに」とピリオーノは言った。
「確かに、金は持っていそうだな」
「いいや、金目のものは何も持ってはいない。いいものは全てここにあるけどな」
「なるほど。じゃあ、それを貰おう。だが、その前に聞きたい。あれは何だ?」とグランドは遠くに見える塔を指差した。
「あれは塔だよ。島にある。神が作ったそうだ」
「あそこにもいいものがありそうだな」
「さぁ。行ったことないよ」
「いいものがありそうなのにか?」
「言っただろう。いいものは全てここにあるんだ」
会話が終わると、グランドとピリオーノはほぼ同時に剣を抜いた。
それにつられるように、盗賊たちは各々の得物を手に取った。
ピリオーノは剣を振り上げた。一人の男の両手首が宙にはねる。男の吐くような絶叫が耳に届いた瞬間、横にいた男の首筋は切り裂かれ、そこから勢いよく血が吹き出る。
その暖かいものがかかった男が、驚きの反応を剣に任せる。だが、ピリオーノは素直すぎるそれを避け、同時に剣を返し、腹を裂く。その中身が地面に落ちるとグランドは飛び出した。
「お見事」
小さくそう言うと、グランドはピリオーノの胴に剣を突き刺した。
幾多もの、小さくも特異な存在を証明するに足りる武勇伝を残してきた男の、呆気ない幕切れだった。
「俺を殺してどうなる?」とピリオーノは最後に聞いた。
「いいものを貰う」
「いいものだと? そんなもの、もうなくなる」
「知っている。いいものだったよ」
グランドが剣を抜くと、ピリオーノは草の上に倒れた。どす黒い血が緑を染めていった。
「あの島だ。あの島に行こう。まずは船だ。いい船を貰おう」
オルガが星の降臨地に着くと、ピリオーノは既にこと切れていた。すぐに街へ戻ろうと、海の方を振りむいたが、そこにはピピがいた。
ピピはゆっくりと近づいてきて、倒れていたピリオーノを抱きかかえた。そして、泣いた。全世界を一つの箱に入れたような、激情の涙だった。
オルガはしばらく黙ってそこに立っていたが、徐々に体が地面に近づいていった。膝をつき、頭を垂れた。
グランド盗賊団は、港で客船を奪い、島へと向かった。その間に自警団が盗賊の五人を殺し、一人を捕まえた。残りの十人近くは島に辿り着いたようだったが、アメルの街へは戻ってこなかった。
それからの三年はオルガにとって、最悪の三年だった。母が病で死に、それを追うように一年後に父親がこの世を去った。家族は次々と彼のもとから消えた。残ったのはピピだけだった。だが、彼女のことは彼には分からなかった。分かるのは恋人を失ったという事実だけだった。
「誰も殺してくれないなら、私が殺すしかないじゃない。ううん。私が殺したいの。私があいつを殺したいの」とピピは言った。
オルガは黙って、その声を聞いた。そして階段を一段上った。
「それで、どうしたいんだ」
「三百モールでハンターになるの。ハンターになって、今、他のやつらが捕まえようとしている男を捕まえるの。たくさんのお金を手に入れて、あいつを探すの。他の国にいても、他の大陸にいても、絶対にあいつを見つけて殺すの」
ピピは目から涙を流しながら言った。ぼろぼろとそれは零れた。
「なるほど……。やっぱり、話せてよかった。最近は全然話してなかったからな」
そうオルガは言うと、手を出した。
「探そう。あいつを探そう。姉さんの恋人を殺したあいつを、俺の兄を殺したあいつを探そう」
ピピは彼の手に手を置いた。
「オルガは三百モールも持っているの?」
「変に真面目なんだな。隠し場所は知っているのに、中身のことは調べなかったのか?」
「うん」
「持っているよ。それくらい。大酒飲みがいるからな。それくらいないと心配で仕方がないよ」
ピピは涙を拭いて、オルガの手を握りながら、ゆっくりと階段を下り始めた。
オルガはピピの気持ちが少し分かって安心した。そして、最後の家族のためにできることはしようと星に誓った。