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太陽が海面からしっかりと姿を現した頃に、オルガは目を覚ました。
オルガの家は、第一通りと第二通りの間にあった。料理店をやっていた両親が残してくれた家で、四階建ての三階部分がそれだった。リビングとキッチン、バスとトイレが付き、大小合わせて、部屋は四つあった。一つは両親の部屋、一つは兄の部屋、一つは書斎、最後の一つがオルガの部屋だった。彼の部屋には子供の頃から使っていたナラの机、腰までの高さの本棚、大きめのクローゼット、そしてベッドが二つあった。
オルガはベッドから起き上がると、まず海側についている窓を開けた。この季節の朝は肌寒く感じるが、海から来る風は、彼の朝にはなくてはならないものだった。潮の少し生っぽいにおいは、彼に幼少時の記憶を思い起こさせた。
ギギっとベッドが軋み、衣擦れの音がした。オルガは自分が使っていないもう一つのベッドを見た。そこには案の定、ピピが眠っていた。寒そうに毛布を体に巻いて、壁の方を向いて寝ていた。
ほとんどの朝と同じ朝だった。オルガが毎朝、窓を開けるのは部屋の中に籠っているアルコール臭を逃がすためだった。
窓からは下にある住居の屋上が見えた。屋上では役所で働くおじさんが、体操をしていた。
「おはよう」とおじさんはオルガに気付いて挨拶をした。
「おはようございます」とオルガは返した。
これもほとんどの朝と同じだった。
窓を開けたまま、オルガは寝間着から、仕事着に着替えた。彼の体には少し大きすぎる、ゆったりとしたシャツと、何か所か破れたところを補修したズボンが彼の仕事着だった。
オルガは家を出て、まず第一通りに出た。そして、水売りから水を一杯買い、それを飲んでから食堂へと向かった。
食堂には誰もいなかった。テーブルには、使用済みの食器がいくつか乗っていた。そして、何匹かの猫もテーブルの上で横になっていた。
オルガの職場の一つが、この食堂「猫」であった。名前の由来はもちろん、食堂に集まる猫からだった。何匹出入りしているか、正確な数は分からなかったが、少なくとも十匹はそこを根城としていた。
オルガはテーブルにあった食器を、キッチンに持っていった。キッチンには多くの食器が洗いものとして置かれていた。それを女将さんの代わりに洗うのが彼の仕事だった。
仕事は何の問題のなく進んだ。瓶に貯めてある水で食器の汚れを洗い流し、布巾でそれらを拭いた。そして、食器棚に戻した。
「すまない。誰かいるかい?」
ほとんど片がついた頃に、誰かが食堂の方から呼んだ。
「はい」とオルガは返事をしながら、声がした方へと向かった。
麦で編んだ帽子を被った男がそこにいた。帽子には小さな穴が空いていて、彼が着ている服には汗染みがあった。深い青に染められていたシャツは、さらに濃い色になっていた。目線を下げると、腰に長剣が差してあった。
「どうかしました?」
「いや、飯は食えないのかい?」と男は頬にある無精髭の感触を確かめながら言った。
「ああ、朝はもう終わりましたよ」
「そうか。でも、なんでも良いから貰えないかな。パンでもいいんだ。金ならある」
「ええ、まぁ、簡単なものなら僕でも作りますけど」
「じゃあ、頼む」そう言って、男はテーブルに座った。
オルガはキッチンに戻り、ベーコンを焼き、卵を目玉焼きにした。そして、トーストを皿に盛った。それを彼のテーブルへと持っていった。
「ありがとう」と男は言って、汚れを落とすように手を叩いた。「いくらだい?」
「五モールでどうです?」
「いいよ」と男は言って、ポケットから一モール硬貨を五枚出した。
「旅人ですか?」とオルガは聞いた。
「みたいなものだよ。あ、飲み物はあるかい?」
「ブドウ酒でいいなら」
「いくらだい?」
「一杯二モールです。水が飲みたいのなら、水売りから買ってください」
「ブドウ酒をくれ」
オルガは男にブドウ酒を渡し、代金を貰うと、残りの仕事を終わらせにかかった。そして、それはすぐに終わり、残す仕事は男が使っている皿とコップを洗い、水滴を拭き、食器棚に戻すだけになった。
オルガは椅子に座り、テーブルの上に寝転がっている猫を撫でながら、男の背中を見て、考えた。男の歳は三十くらいだろうか。腰に剣を差しているが、あれは幾らだろうか。どこの出身だろうか。何のために、このアメルの街へ来ているのだろうか。そんなことを思案しているうちに、オルガは思った。なぜ、彼は帽子を脱がないのだろうか、と。しばらく考えたが、答えが出る前にオルガは、今夜のことを考え始めていた。今夜はレストランで「お遊び」だった。レストランでの報酬は、店からいくらか貰うだけだったので、それほどの稼ぎにはならなかった。
「うん。おいしかったよ」と男は言って、椅子から立ち上がった。そして、オルガの方を少し振りかえって、手を上げ、食堂から出て行った。逆光で、男の顔はよく見えなかったが、髪の毛の色が明るかったような気がした。
食堂での仕事が終わると、次は宿屋へと向かった。食堂から南に少し歩いたところに宿屋はあった。一部屋にベッドが四つある安宿で、客のほとんどが若い旅人だった。
「おはようございます」とオルガは、玄関前を掃除していたオーナーに挨拶をした。
「おはよう、オルガ」とオーナーの男は返した。
この男は、アルベスオ・ピリオンといった。オルガと同じ姓を持つ、星を守る一族の一人である。
街のはずれにある丘には星の降臨地と呼ばれる遺跡がある。そこには直径が数メートルある大きな穴が開いていて、その周りに大きな岩がいくつか並べられている。街に残されているある漁師の伝記によると、ある日、そこに星の神の使いが舞い降りたとされている。その使いは、ただの小さな村だったこのアメルを数日で大きな街に発展させたという。その後、その使いは大きく開いた穴に入ると消えてしまった。アメルに住んでいた人々は、使いが現れ、消えた場所を神聖な処とし、守ることにした。その時に姓をピリオンとし、代々それを受け継いできたのが、星を守る一族だった。一族かそうでないかを見分ける方法は二つあった。一つは姓、もう一つは髪の毛だった。一族のほとんどは黒髪で、その中に数本の金髪を持っていたからだ。
「明日は、降臨地に行くんだろ?」
「はい。明日は僕の番です」
「今日は、うちの息子だよ。ちゃんといればいいんだが。オルガと同じ歳だというのに、あいつは辛抱が足りないからな」
オルガはどういった反応をしていいのか分からず、少し笑って宿屋の中に入った。
宿屋の小さなフロントにはアルベスオの娘、クレルがいた。
「おはよう、クレル」
「おはよう、オルガ」
クレルはいつものように長い髪の毛を後ろで一つに括っていた。仕事をしている時は、いつも彼女はそうしていた。
クレルはオルガの一つ年上だった。だが、オルガは彼女の弟よりも、彼女と遊ぶ方が多かった。そのせいか、弟はオルガをあまり好んでいなかった。女と遊ぶ変なやつと思っていたし、姉を取るのではないかと、ある種の嫉妬心を持っていた。クレルは対照的にオルガを一番の仲良しとしていた。成長してもそれは変わらなかった。恋愛感情はないけれど、夫にするならば彼は申し分ないと人と思っていた。
「今、どの部屋が空いているの?」
「三番と五番……と、七番が空いてるね」とクレルは宿帳を見ながら答えた。
「三番と五番と七番ね」とオルガは繰り返した。
オルガは空き室で使われていた布団を屋上に持っていき、物干し竿にかけた。ベッドのシーツは全て中庭に持っていった。それをクレルが大きな桶で洗い、その間に彼は空き室の窓や壁をはたき、床を掃き、水拭きをした。それが終ると、シーツと布団を新しいものに替えた。最後の仕事は中庭にあるシーツを屋上に持っていき、物干し竿にかけ、干すことだった。屋上へ行くと、いつも通り、最初に干していた布団はクレルによって取りこまれていた。
シーツを全部干し終わると、クレルがやって来た。
「相変わらず仕事早いね」とクレルは言い、後ろに纏めていた髪をほどいた。
「そっちこそ」
「そんなに頑張っても、お父さん、あんまりお金くれないよ?」
「いいよ。いらないくらいだよ」とオルガは言って笑った。「父さんが寝込んだ時、一番に助けてくれたのはおじさんだったからね」
「もう一年だね」
「うん。もう一年だよ」
「ピピさんはどう? 元気?」
「元気だよ。毎日、お酒飲んでいるからね」
「ふーん」
オルガとクレルは屋上に置いてある椅子に座り、海を眺めた。ここでしばしの休憩をとるのはいつものことだった。しばらくすると二人はお互いを見つめた。そういった行為に恥ずかしさは全くなかった。
「そういえばね。最近、なんか変わったお客さんが多いの」
「変わったお客さん?」
「うん。ちょっと怖くて、腰に剣を差していたり、背中に剣背負ったりしている人たち。お父さんはハンターだろうって。だから私、夜はすぐ家に帰らされるの。仕事しなくていいのは嬉しいんだけどね」
「へぇ。ハンターねぇ……。じゃあ、今日見た人もハンターだったかもしれない」
「どんな人だったの?」と言って、クレルは片肘を手摺壁の上についた。艶のあるさらりとした黒髪が、風で少しなびいた。
「麦わら帽子をかぶっていて……、あとは、剣を腰に差していた……。それくらいしか覚えてないや」
「ふーん。まぁ、私たちには関係のないことだよ。ハンターが誰を捕まえにこの街に来ているのか知らないけど、早くどうにかなって欲しい」
「どうにか?」
「そう。どうにか……何事もなく」
「何事もなく」
「うん。何事もなく、いつも通りに」
この日の最後の仕事である、レストランでの「お遊び」が終わると、オルガの前には昨日と同じようにピピが現れた。
「こんばんは」とピピは言った。今日は緑色のロングスカートをはいていた。
「また飲み代?」とオルガはポケットに手を突っ込みながら言った。
ピピは黙って首を横に振った。
「じゃあ、何?」
「お願いがあるんだけど」
「お願い? そんなこと、今までも叶えてきたつもりだけどね」
「うん。でも申し訳なくて」
「申し訳ない? それは驚きだな」
「え? なんで?」
「そういう気持ちもあったんだなと思ってさ」
「あるよ。ちゃんと」
「で、どうしたの? 服だけじゃなくて装飾品も欲しくなったの?」とオルガは言い、鼻で笑った。
「違うけど、三百モール貸して」とピピは手を出して言った。無垢な少女が言ったかのような軽い響きだった。
オルガは、彼女の淡い金色の瞳を黙って見ていた。
自らの嘲りが無意味だったことにさえ、まだ気づいていなかった。