『灰の残り火』
冬の午後の光が、高い硝子窓の格子を白く浮かび上がらせ、絨毯の上に長い四角を落としていた。
サロンの卓には、小さな銀の盆が置かれている。その上に、淡い菫色の便箋が一枚。主人の外套のポケットからこぼれたものらしく、端が折れたままだった。
公爵夫人エレオノールは、冷えた指を組み、便箋を見つめていた。
かすかな香水の匂いが漂っている。彼女の知らない、甘く奔放な、若い花を思わせる香りだった。中身を確かめるような無作法はしなかった。けれど、差出人の名も、見覚えのない飾り文字の癖も、ひと目で充分だった。
――夫のアルベールには、ほかに女がいる。
噂は、昨年の秋ごろから届いていた。夜会の片隅で、貴婦人たちの手紙の端で、囁き声に針のような悪意を忍ばせて。名門公爵家の若き当主であり、枢密院でも将来を嘱望される男が、下町育ちの歌姫に小邸を与え、足繁く通っているという。
「……奥様、お茶をお取り替えいたしましょうか」
古くから仕える侍女のマリアが、声を落とした。主への憤りと、エレオノールへの憐れみが、その目に浮かんでいる。
「いいえ。このままでいいわ」
エレオノールは静かに首を振った。
胸の奥では、黒い炎が燃えていた。公爵家の正妻としての誇り。家と血筋を守る責任。そして、ひとりの女として受けた侮辱。
あの女の部屋へ乗り込み、公爵夫人の名を告げて追い出す。夫の前に裏切りを突きつけ、青ざめる顔を見下ろして、冷たく言い放つ――「ざまあ御覧なさい」と。
そんな想像が胸をかすめるたび、ほんの一瞬、甘い満足が広がった。そのあとに残るものを、エレオノールは知っていた。
恥をかかせれば、仕返しにはなるだろう。けれど、それであの人が何を選ぶのかは、わからない。
アルベールは、根から不実な放蕩者ではない。父の代から続く名誉の重さ、宮廷の権力争い、「非の打ち所のない当主」であることを求められる息苦しさ。そのすべてに耐えかね、どこかへ逃げ込んだのだろう。
けれど、それは理由にはなっても、許しにはならない。
エレオノールは立ち上がり、銀盆から便箋を取り上げた。暖炉の前まで歩き、しばらく紙を見下ろす。それから、迷いを振り切るように熾火へ落とした。
乾いた紙がちぢれ、青い煙を上げて、ゆっくり灰になっていく。
「奥様……」
マリアが息を呑んだ。
「このことは、誰にも漏らさないでください」
エレオノールは振り返った。声は落ち着いていたが、その指はまだ冷たかった。
「閣下が道に迷っておいでだとしても、帰るかどうかは、あの方が決めることです」
「それでも、お許しになるのですか」
「まだ、何も許してはいません」
エレオノールは、灰の残る暖炉へ目を戻した。
「ただ、あの人を辱めて、自分の痛みが消えるとは思えないのです」
信じることは、目を閉じることではない。相手の弱さや愚かさを見たうえで、それでも良心の残り火を信じようとすることだ。けれど、その火を守る責任まで、傷つけられた側が背負わなければならないのだろうか。
答えは出なかった。
その夜、遅くなってからアルベールが戻った。
外套を脱ぐ夫の肩から、あの甘い香りがかすかに漂う。アルベールはエレオノールと目を合わせず、胸のポケットを探った。何かが見つからないと気づいたのだろう。顔に、一瞬だけ狼狽が走る。
エレオノールは黙って近づき、外套を受け取った。
「お帰りなさいませ。今夜は冷えますね」
「ああ……遅くなってすまない」
アルベールの声は乾いていた。問い詰められるのを待つように、肩が強張っている。
エレオノールは外套を手にしたまま、少しだけ間を置いた。
「その香りは、私のものではありませんね」
アルベールの顔から血の気が引いた。
「エレオノール、私は――」
「今ここで、言い訳をお聞きしたいわけではありません」
その声に怒りはなかった。だからこそ、アルベールは言葉を失った。
エレオノールは外套を掛け、温めておいた香草茶を差し出した。彼は銀のカップを両手で受け取ったものの、一口も飲めずにいた。
罵声を浴びせられたなら、平手打ちを受けたなら、彼は自分を責めることで話を終わらせられたかもしれない。だが、妻の沈黙は、彼が何をしたのかを逃げ場なく突きつけていた。
「エレオノール……私は、取り返しのつかないことをした」
ようやく出た声は、かすれていた。
「そうですね」
その短い返事に、アルベールの目が揺れた。
「私は、あなたを傷つけた。謝って済むことではない。どう償えばいいのかも、まだわからない」
彼の唇が震え、涙が頬を伝った。公爵としての矜持も、社交界で繕ってきた仮面も、そこで崩れた。ただ己の過ちを前にした、一人の男が立っていた。
エレオノールは、その肩に手を置いた。慰めるためか、立ち去らないと伝えるためか、自分にもまだわからなかった。
「今夜は、もうお休みください」
アルベールは涙を拭い、うなずいた。
「明日、話しましょう。あなたが何をしたのか。私が何を失ったのか。それから、これからのことを」
彼は答えようとして、声を出せなかった。
暖炉の灰は、火のそばでかすかに赤く光っている。燃えた手紙は戻らない。傷ついた信頼も、今夜のうちに結び直せるものではない。
それでも、エレオノールは夫の肩から手を離さなかった。
外では、冬の夜風が屋敷の木々を静かに揺らしていた。




