『妹は泣いて反省している。だから帳簿を書き直せ』と婚約者に命じられました――国庫金横領は、涙では消えません
「妹は泣いて反省している。だから帳簿を書き直せ」
婚約者である第二王子レオナール殿下は、私の机に一冊の帳簿を置いた。
革張りの表紙には、金の文字で『白百合基金』と刻まれている。戦で親を失った子供たちに、食事と寝床と教育を与えるための基金だ。
代表を務めるのは、私の妹ミレーユだった。
そして、その帳簿から消えた金貨は三百枚。
「お断りいたします」
私が答えると、殿下は聞き間違いでもしたように目を瞬いた。
「……何だと?」
「帳簿の改竄はできません」
「改竄ではない。費目を訂正するだけだ」
「孤児院の食費を、ミレーユのドレス代へ訂正するのですか」
執務室の長椅子で、ミレーユが小さく息を呑んだ。
淡い桃色のドレス。真珠を縫いつけた袖。王都で一番と評判の仕立屋が、半年をかけて作ったものだ。その裾を握りしめ、妹はまた涙をこぼした。
「違うの、お姉様。私は基金のために……」
「仕立屋への支払書には、基金の記念祝宴用と記載されています」
「私が綺麗な姿で人前に出れば、寄付が集まると思ったのよ」
「四頭立ての馬車も?」
「地方の孤児院を視察するために必要だったの」
「購入から三か月、王都の外へ出た記録はありません」
ミレーユの隣で、母が眉をひそめた。
「オレリア。妹を罪人のように問い詰めるのはやめなさい。この子は善意で始めたのよ」
「善意で使えば、孤児のために集めた金を私物へ変えてもよいのですか」
「言い方というものがあるでしょう」
父も重々しく頷いた。
「家族の失敗を、姉が大事にする必要はない。帳簿の数字を少し移せば済む話だ」
私は机の上の帳簿を開いた。
「少し、ですか」
今年、白百合基金へ集まった寄付は金貨五百二十枚。そのうち三百枚が、ドレス、馬車、宝飾品、基金の記念祝宴に使われている。
王都北孤児院では、冬を越すための薪が買えなかった。西孤児院では一日二度の食事が一度になり、子供たちは薄い豆のスープで飢えをしのいでいる。
「失われたのは、帳簿の数字ではありません。子供たちの食事と、冬の暖炉です」
殿下が苛立たしげに机を指で叩いた。
「だから、王家から金貨三百枚を補填すると言っている。被害はなくなる」
「王家の金も、国民が納めた税です」
「私の裁量で使える金だ」
「では、殿下個人の歳費からお出しください。それでも横領の事実は消えませんが、子供たちの食事は戻せます」
「オレリア!」
殿下が立ち上がった。
ミレーユは怯えたように彼の腕へすがる。殿下はすぐに妹の肩を抱き、私を非難する目で見た。
「お前は昔から冷たすぎる。人は間違えるものだ。ミレーユは自分の過ちを認め、こうして泣いている」
「涙は返金になりません」
「家族より規則が大切なのか」
「会計官として預かった金を守ることが、私の職務です」
「ならば婚約者としてはどうだ。私が頼んでも聞けないのか」
私は左手の指輪を見た。
十七歳で婚約してから六年。王妃教育を受けながら会計院で働き、殿下が立ち上げる事業の予算を整えてきた。
殿下の隣に立つ未来を、疑ったことはなかった。
だが、その未来と引き換えに、空腹の子供たちを帳簿から消せと言われている。
「婚約者としても、お断りいたします」
私は指輪を外し、帳簿の隣へ置いた。
「この答えで婚約を解消なさるなら、受け入れます」
母が立ち上がった。
「何を言っているの! 殿下との婚約を失えば、あなたに次はないのよ」
「それでも、ない金をあったとは書けません」
「お姉様」
ミレーユが濡れた睫毛を上げた。
「私から殿下まで奪うつもりなの?」
一瞬、意味が分からなかった。
殿下の腕にすがっているのは妹の方だ。けれどミレーユの中では、私が二人を引き裂こうとしているらしい。
「殿下は物ではありません。どなたを選ぶかは、殿下がお決めになることです」
「なら、私を選んでも恨まない?」
殿下は止めなかった。
それどころか、妹を抱く腕に力を込めた。
「そういう話でしたら、私の職務とは関係ありません」
私は立ち上がり、扉へ向かった。
「どこへ行く」
「王立監査院です。規定に従い、白百合基金の特別監査を申請します」
部屋の空気が凍った。
「待て。今ここで断ったのだから、それで終わりだろう」
「終わりません」
「私の命令だ。報告を止めろ」
「会計官は、不正の疑いを知った時点で監査院へ届け出る義務があります」
「なら、知らなかったことにしろ」
「もう遅うございます」
私は扉を開けた。
廊下には、灰色の制服を着た二人の監査官が待っていた。その一人、カシアン・ローデ侯爵令息が、私へ静かに一礼する。
「会計官オレリア・ファーレン。昨日提出された予備報告に基づき、白百合基金の原本を受領します」
殿下の顔から血の気が引いた。
「昨日、だと?」
「横領を確認した時点で、提出期限は翌正午です。今日の話し合いは、報告を取り下げるためではなく、皆様の説明を追記するために設けました」
カシアンが帳簿を封印箱へ収める。
父が私を睨んだ。
「最初から、家族を売るつもりだったのか」
「最初から、職務を果たすつもりでした」
扉が閉じる直前、妹の泣き声が聞こえた。
それでも私は、戻らなかった。
◇
白百合基金の公開審問は、一か月後に王宮大広間で開かれた。
寄付金を受け取る公益基金は、年に一度、収支を国民へ公開する義務がある。王族が後援する基金なら、なおさら隠すことは許されない。
証言台に立ったミレーユは、白いドレスを着ていた。
「私は、もっと寄付を集めたかっただけです」
妹は震える声で訴えた。
「みすぼらしい格好の代表より、憧れてもらえる代表の方がよいと思いました。殿下も、私が基金の顔になれば人が集まると……」
審問官がレオナール殿下へ視線を向けた。
「第二王子殿下。支出を承認なさいましたか」
「細かな費目までは確認していない」
「こちらは殿下の署名です」
カシアンが、一枚の支払命令書を示した。
金貨百二十枚。用途は『基金代表者の対外活動費』。余白には、殿下自身の筆跡で『記念祝宴を盛大に。王太子夫妻より注目を集めること』と書かれていた。
傍聴席がざわめく。
殿下は兄である王太子に対抗するため、慈善事業を自らの評判作りに使っていた。基金の記念祝宴も、その舞台になるはずだったのだ。
「これは……言葉の綾だ」
「では、会計官に費目の書き換えを命じたことは?」
「命じていない。誤解だ」
審問官が私を見た。
「オレリア会計官。証言を」
私は立ち上がった。
「殿下は、『妹は泣いて反省している。だから帳簿を書き直せ』と仰いました」
「二人きりの会話だ。証拠はない!」
「私も同席しておりました」
母が目を伏せたまま立ち上がった。
続いて、父も立った。
「私もです」
両親は最後まで家名を守ろうとした。娘一人の横領なら、領地収入で弁済し、爵位への影響を抑えられる。だが王子の命令へ協力したと判断されれば、家そのものが危うい。
家族の情を唱えていた二人は、家を守るために殿下を切った。
「お父様、お母様……?」
ミレーユが呆然と二人を見る。
審問は、その日の夕方まで続いた。
判決により、レオナール殿下は公益事業の後援資格と王室会議の席を失った。王位継承順位も末席へ下げられ、歳費の半分が十年間、孤児基金の補填へ充てられることになった。
ミレーユには、流用した金貨の全額返済と、三年間の公益活動禁止が命じられた。祝宴用のドレスも馬車も宝飾品も売却され、売却益は基金へ戻された。
父は私の持参金を返済へ回そうとしたが、監査院が認めなかった。
「横領に関与していない長女の財産を、加害者の弁済に使うことはできない」
そう宣告され、両親は初めて、私を家族から外そうとしていた言葉が自分たちへ返ってきたことを知った。
私と殿下の婚約は、審問の翌日に正式解消された。
ミレーユは最後まで、私が殿下を奪ったのだと言った。
けれど殿下は、王室会議の席を失うと、妹との婚約を望まなかった。基金の顔として使えなくなったミレーユを妃に迎える理由はない、と。
妹はそこでようやく、自分が守られていたのではなく、飾られていただけだったと気づいたらしい。
泣いても、その決定は変わらなかった。
◇
半年後、王都北孤児院に新しい食堂が完成した。
白百合基金から名前を改めた『冬灯基金』が、最初に行った事業だった。
私は監査院へ移り、公益基金を専門に調べる会計監査官となった。寄付金の支出を公開し、誰でも閲覧できる仕組みを整えたことで、減ると思われていた寄付は以前の三倍に増えた。
「人は、善意の行き先が見えれば安心して託せるのですね」
食堂の窓辺で私が言うと、隣にいたカシアンが頷いた。
「数字は冷たいと思われがちですが、正しく並べれば人を守ります」
「あなたがそれを言うのですか。審問では随分、容赦がありませんでしたけれど」
「証拠に容赦を求められても困ります」
真顔で返され、私は笑った。
カシアンとは、白百合基金の監査が終わってからも仕事で顔を合わせた。口数は多くないが、私が作った報告書を最後の一行まで読み、疑問があれば遠慮なく尋ね、正しければ必ず認めてくれる人だった。
家族だから。婚約者だから。女だから。
そんな言葉で、私の仕事を軽く扱わない。
「オレリア様」
食堂の少女が、私の袖を引いた。
「これ、ありがとう」
差し出されたのは、木を削って作った小さな匙だった。柄の先に、不格好な灯火の模様が彫られている。
「私に?」
「うん。今は毎日、三回ごはんが食べられるから」
私は匙を受け取った。
金貨三百枚という数字の向こうにいた子供が、今、目の前で笑っている。
「大切にします」
少女が走り去ると、カシアンが静かに言った。
「あなたが守ったものですね」
「多くの方の力です。私一人ではありません」
「それでも、最初に『お断りいたします』と言ったのは、あなたです」
彼は少しだけ緊張した顔で、上着の内側から細長い箱を取り出した。
「ですから、これも嫌なら、同じようにはっきり断ってください」
中に入っていたのは、宝石ではなく銀色の万年筆だった。監査院で正式な報告書へ署名する時に使う、実用一点張りの品だ。
「私と、仕事のない日にも会っていただけませんか」
あまりにも彼らしい贈り物と申し出に、胸の奥が温かくなった。
「帳簿の確認は抜きで?」
「努力します」
「そこは断言してください」
「では、帳簿は持っていきません。約束します」
私は万年筆を手に取った。
「お受けいたします」
食堂では、子供たちが湯気の立つシチューを囲んでいる。
泣けば消える罪があるとは、今も思わない。
けれど、正しく記された数字の先に、誰かの笑顔が増えることはある。
私は新しい万年筆で、その日の支出簿へ署名した。
冬灯基金、食事代。
金貨一枚、銀貨十二枚。
今度は一枚たりとも、行方を失わせない。




