第百三章 よい、紅茶
「ネクスト、プリーズ」
列が、一人ぶん進んだ。
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二月二十六日。金曜日。
ロンドンの空港だった。
十四時間、飛んだ。
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『レスラー』は、首を回していた。
「座席が。狭かった」
「二つ、取って、ましたよね」
「二つでも、狭かった」
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面の箱は、『ブル』が大使館の荷物で送った。
開けられない荷物、らしかった。
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その『ブル』は、隣の列だった。
英国の人の列は、早かった。
もう、向こうで傘を持って立っていた。
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『ジョン』の番だった。
「サイトシーイング」
目が、泳いでいた。
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審査官は、長いこと『ジョン』を見ていた。
判子を押した。
あきらめた顔だった。
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『レスラー』の番だった。
審査官は、見上げた。
何か聞いた。
「何て、言ってる」
「目的、です。たぶん」
「人を、つける」
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日本語だった。
通じていなかった。
通じなくて、よかった。
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審査官は、もう一度見上げた。
「……レスラー?」
「イエス」
通じた。
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審査官は、笑った。
判子を押した。
親指を立てた。
「何で、知ってるんだ。俺の、名前」
「……見た目です」
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俺は、すぐ通った。
さえない顔は、どこの国でも通る。
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共さんの番だった。
旅券を、両手で出した。
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審査官は、開いた。
顔を見た。旅券を見た。
もう一度、顔を見た。
役所と、同じだった。
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「……ナインティーン、サーティ、スリー?」
「はい」
日本語だった。
「本人で、ございます」
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審査官は、隣の人を呼んだ。
二人で見た。
三人になった。
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そこへ、『ブル』が来た。
向こうから、傘を持って。
帽子を取った。
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何か言った。
英語だった。
ござる、が、なかった。
普通の人みたいだった。
短かった。
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最後の言葉だけ、聞き取れた。
ティー、だった。
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「アー」
三人とも、うなずいた。
判子が、押された。
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「……何て、言ったんですか」
「よい、紅茶を、飲んで、いる」
『ジョン』が言った。
「そう、言った」
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「それで、通るんですか」
「通る」
「……こういう、国だ」
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「紅茶は」
共さんが言った。
「いただいた、ことが、ございません」
「今夜、進ぜよう」
『ブル』は言った。
元の喋りだった。
「今夜、飲めば。嘘では、ござらぬ」
「恐れ、入ります」
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順番が、逆だった。
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「健司」
振り向いた。
メレオスが、黄色い線の手前にいた。
肩に、いなかった。
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「何、してるんだ」
「呼ばれて、おらん」
「見えないんだから。通れよ」
「人の、うちも。国も。同じじゃ」
「呼ばれてから、入る」
「誰が、呼ぶんだよ」
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審査官が、次の人を見た。
「ネクスト、プリーズ」
「呼ばれた!」
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線を、ぴょんと跳ねた。
「お前じゃ、ないぞ」
「呼ばれた、ものは、呼ばれた」
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肩に、戻ってきた。
満足そうだった。
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外は、雨だった。
『ブル』は、屋根の外に立っていた。
傘を持って、差さずに。
帽子のふちから、水が落ちていた。
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「開かないんですか」
「開かぬ」
「開くのは。店の、前で、ござる」
「あすで、ござる」
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「二十年、濡れて」
『ジョン』が言った。
「もう、一日、濡れるのか」
「左様」
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『ジョン』は、自分の傘を開いた。
折りたたみだった。
半分、『ブル』のほうへ出した。
「入らぬ」
「袋には」
「知ってる」
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出したままだった。
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共さんも、屋根の外に出た。
手のひらを、上に向けた。
雨が、当たった。
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「冷とう、ございます」
「風邪、ひきますよ」
「はい」
出したままだった。
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初めての外国だった。
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「この、傘が」
『ブル』は、傘を少し持ち上げた。
「ロンドンの、雨に、当たるのは」
「二十年ぶりで、ござる」
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巻いたままで、濡れていた。
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三月五日まで、あと七日だった。




