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第百三章 よい、紅茶

「ネクスト、プリーズ」


列が、一人ぶん進んだ。


***


二月二十六日。金曜日。

ロンドンの空港だった。


十四時間、飛んだ。


***


『レスラー』は、首を回していた。


「座席が。狭かった」


「二つ、取って、ましたよね」


「二つでも、狭かった」


***


面の箱は、『ブル』が大使館の荷物で送った。


開けられない荷物、らしかった。


***


その『ブル』は、隣の列だった。


英国の人の列は、早かった。

もう、向こうで傘を持って立っていた。


***


『ジョン』の番だった。


「サイトシーイング」


目が、泳いでいた。


***


審査官は、長いこと『ジョン』を見ていた。

判子を押した。


あきらめた顔だった。


***


『レスラー』の番だった。


審査官は、見上げた。

何か聞いた。


「何て、言ってる」


「目的、です。たぶん」


「人を、つける」


***


日本語だった。


通じていなかった。

通じなくて、よかった。


***


審査官は、もう一度見上げた。


「……レスラー?」


「イエス」


通じた。


***


審査官は、笑った。

判子を押した。

親指を立てた。


「何で、知ってるんだ。俺の、名前」


「……見た目です」


***


俺は、すぐ通った。


さえない顔は、どこの国でも通る。


***


共さんの番だった。


旅券を、両手で出した。


***


審査官は、開いた。

顔を見た。旅券を見た。


もう一度、顔を見た。


役所と、同じだった。


***


「……ナインティーン、サーティ、スリー?」


「はい」


日本語だった。


「本人で、ございます」


***


審査官は、隣の人を呼んだ。

二人で見た。


三人になった。


***


そこへ、『ブル』が来た。


向こうから、傘を持って。

帽子を取った。


***


何か言った。

英語だった。


ござる、が、なかった。

普通の人みたいだった。


短かった。


***


最後の言葉だけ、聞き取れた。


ティー、だった。


***


「アー」


三人とも、うなずいた。


判子が、押された。


***


「……何て、言ったんですか」


「よい、紅茶を、飲んで、いる」


『ジョン』が言った。


「そう、言った」


***


「それで、通るんですか」


「通る」

「……こういう、国だ」


***


「紅茶は」


共さんが言った。


「いただいた、ことが、ございません」


「今夜、進ぜよう」


『ブル』は言った。

元の喋りだった。


「今夜、飲めば。嘘では、ござらぬ」


「恐れ、入ります」


***


順番が、逆だった。


***


「健司」


振り向いた。


メレオスが、黄色い線の手前にいた。

肩に、いなかった。


***


「何、してるんだ」


「呼ばれて、おらん」


「見えないんだから。通れよ」


「人の、うちも。国も。同じじゃ」

「呼ばれてから、入る」


「誰が、呼ぶんだよ」


***


審査官が、次の人を見た。


「ネクスト、プリーズ」


「呼ばれた!」


***


線を、ぴょんと跳ねた。


「お前じゃ、ないぞ」


「呼ばれた、ものは、呼ばれた」


***


肩に、戻ってきた。


満足そうだった。


***


外は、雨だった。


『ブル』は、屋根の外に立っていた。

傘を持って、差さずに。


帽子のふちから、水が落ちていた。


***


「開かないんですか」


「開かぬ」

「開くのは。店の、前で、ござる」

「あすで、ござる」


***


「二十年、濡れて」


『ジョン』が言った。


「もう、一日、濡れるのか」


「左様」


***


『ジョン』は、自分の傘を開いた。

折りたたみだった。


半分、『ブル』のほうへ出した。


「入らぬ」


「袋には」


「知ってる」


***


出したままだった。


***


共さんも、屋根の外に出た。

手のひらを、上に向けた。


雨が、当たった。


***


「冷とう、ございます」


「風邪、ひきますよ」


「はい」


出したままだった。


***


初めての外国だった。


***


「この、傘が」


『ブル』は、傘を少し持ち上げた。


「ロンドンの、雨に、当たるのは」

「二十年ぶりで、ござる」


***


巻いたままで、濡れていた。


***


三月五日まで、あと七日だった。


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