↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
104/176

第九十一章 定規の、線

「四度目か」


営林署の、おじいさんが言った。


***


一月三十一日。日曜日の、昼の一時。

隠り山のゲートの前だった。


節分まで、あと三日だった。


***


「……もう、数えんぞ。わしは」


おじいさんは、ゲートの鍵を開けた。

それから、俺たちを順番に見た。


俺。赤城さん。『ホラー』。


ここまでは、冬至と同じ顔だった。


***


おじいさんの目が、四人目で止まった。


共さんだった。


紺色のコートで、背筋を伸ばして。

元日に『レディー』が一秒で選んだコートだった。


***


「……あんたは」


おじいさんは、言った。


「冬に。背負われて、下りてきた、人じゃな」


***


共さんは、四十五度の礼をした。きっちり、三秒。


「その節は。……お騒がせ、いたしました」

「今日は、自分の、足か」

「はい。自分の、足で、参りました」


おじいさんは、頷いた。

それ以上、聞かなかった。


***


五人目を、見た。


由紀だった。


赤いマフラーに、新しい登山靴。

おととい、母と駅前で買った靴だった。


箱から出したばかりの、泥の一つもついていない靴だった。


***


「……今度は、娘っこまで」


「妹です」


俺は、言った。


「兄が、いつも、お世話に、なってます」


由紀は、頭を下げた。

携帯ショップのお辞儀だった。


***


おじいさんは、由紀の靴を見た。


「靴は、ええ。……誰が、選んだ」

「母です」

「ほう。……ええ、母親じゃ」


***


赤城さんが、少しだけ目をそらした。


自分の登山靴を見ていた。

あの靴がきっかけで、由紀の靴が買われた。


赤城さんは、それを知らなかった。

知らなくて、よかった。


***


おじいさんは、最後に、俺の足元の、何もないところを見た。


「ぼうずも、足元、気いつけてな」


「……うむ」


***


メレオスが、言った。

見せていなかった。でも、返事をした。


おじいさんに聞こえたかどうかは、分からなかった。


***


ゲートをくぐろうとしたとき。


「そういえば」


おじいさんが、言った。


「きのうも、一人、来たぞ」


***


赤城さんの足が、止まった。


「……きのう」

「土曜の、朝じゃ。……一人で。背広で。革靴で」

「この、山に。革靴で」


***


おじいさんは、首を振った。

呆れた顔だった。


「あんたらの、最初の、ときと、同じじゃ。……じゃが、あんたらと、違うて。転ばんかった」

「許可は」

「持っとった。……きれいな、申請書じゃった。一字も、枠から、はみ出しとらん」


***


おじいさんは、ゲートの小屋を顎でしゃくった。


「背の、高い、男じゃ。肩の、広い。……わしに、礼を、しよった。こう」


おじいさんは、腰を折った。


四十五度、だった。


誰も、何も言わなかった。


***


「何を、持って、いましたか」


赤城さんが、聞いた。


「鞄を、一つ。……それと」


おじいさんは、少し考えた。


「定規じゃ」


***


「長い、定規を、持っとった。一メートルは、あったかの。……山に、定規を、持って、入る、人間は。初めて、見た」

「二時間ほどで、下りてきた。……帰りに、ゲートの、前で。靴の、泥を、拭いとった。ハンカチで」

「丁寧に。片方ずつ」


***


おじいさんは、山のほうを見た。


「……山に、入る、人間の、顔じゃ、なかったな。あれは」

「どんな、顔でしたか」

「葬式の、支度を、しに、来た、人間の、顔じゃ」


***


山道は、静かだった。


冬至の夜は、道の両側に影が並んでいた。

見送るみたいに。


今日は、いなかった。


***


「……いません」


『ホラー』が、言った。


「一つも。……冬至に、閉めてから。きれいです、この山」

「きれい、なのに」

「……きれい、なのに。きのう、人が、来てます。一人」


***


『ホラー』は、道の土を見ていた。


「笑ってない、ほうです」

「……子供じゃ、なくて」

「奥の、人です。……ここを、歩いたのは。あの人、一人です」


***


由紀が、俺の袖を引いた。


「お兄ちゃん」

「何」

「足、痛い」

「……靴ずれか」

「新しい、靴だから」

「絆創膏、ある」

「あるの」

「母さんが、持たせた。……十枚」


***


由紀は、黙った。


それから、小さい声で言った。


「……腹巻きも、してる」

「断るって、言ってただろ」

「断れなかった」


知っていた。


***


祠の跡に、着いた。


崩れた石と、焦げた土と、その真ん中の窪み。


冬至の夜。ここで、戸を閉めた。


***


窪みの底は、ただの土だった。

落ち葉が、積もっていた。


その、はずだった。


落ち葉が、なかった。


***


窪みのまわりだけ、きれいに掃いてあった。


箒の跡が、残っていた。

まっすぐな跡だった。一本、一本、平行だった。


***


その掃いた土の上に、糸が張ってあった。


白い糸だった。

大工が使う、水糸だった。


***


短い杭が、何本も打ってあった。

杭から杭へ、糸がぴんと張ってあった。


窪みを、囲んで。


***


まっすぐな線が、何本も、交わって、形になっていた。


見たことのある形だった。


赤い帽子の内側の。番小屋の床の。方眼紙の。


紋章、だった。


***


「……下書き、ですね」


共さんが、言った。


「糸で。……先に、線を、決めて、おります」


***


糸の交わるところは、どこも結んでいなかった。


一ミリ手前で、止めてあった。


方眼紙と同じだった。年賀状と同じだった。


***


「あの人は」


俺は、言った。


「下書きから、定規で、引くんでしたね」


「清書は。……当日、なさるのでしょう」


共さんは、言った。


***


メレオスが、俺の肩から降りた。


糸の手前で、止まった。

入らなかった。


「……戸を、開ける、陣じゃ」


メレオスは、言った。


***


「北の、番小屋の、床と、同じじゃ。……線の、数まで」

「閉めた、戸を。もう一度、開ける、つもりじゃ。節分の、夜に」


***


冬至に、閉めた。俺と、由紀で。


それを、定規で、開け直そうとしていた。


***


「遊びじゃ、ないな。これは」


赤城さんが、言った。


糸を見ていた。一本、一本。


「あれは、遊びたがっている。……久我さんの、体に、戻りたがっている」

「だが、これは」

「鷲尾の、仕事だ」


***


「……久我さん」

「はい」

「あれは。こういうことを、しますか。……糸を、張って。杭を、打って」

「いたしません」


共さんは、言った。即答だった。


***


「あれは。退屈な、ことは、いたしません。……五十年、一度も」

「面倒な、ことは。奥に、やらせようと、しました。……私は、いたしませんでした」

「ですから、あれは。五十年。……私の、体で。働いたことが、ございません」


***


倉庫で、手の甲の人たちを集めて、遊ぼうか、と言っていた。

それだけだった。


***


「鷲尾さんは」


共さんは、糸を見た。


「なさるのですね。……奥から。ご自分で」


***


警備局長の仕事も。年始の挨拶も。申請書も。


手前の子供が飽きて放り出したことを、奥の人が黙って片づけていた。


控える座り方の人だった。


***


だから、あれが入っても、鷲尾は、鷲尾のままでいられた。


***


「……手前と、奥で」


『ホラー』が、言った。


「したいことが、違うんですね」

「手前は、久我さんが、ほしい。……奥は、戸を、開けたい」

「一つの、体で。……二つ」


***


赤城さんは、頷かなかった。


窪みの真ん中を見ていた。


糸の線が集まるところ。紋章の中心。


***


北の番小屋では、そこに、帽子が二つ、畳んであった。


ここには、何もなかった。


土が四角く掃いてあるだけだった。座布団、一枚ぶんくらいの。


***


「……神様」


赤城さんが、言った。


「戸を、開けるには。何が、要りますか」


メレオスは、少しだけ黙った。


***


「……入る、ものじゃ」

「冬至は、二十六人、歩かせようと、した。北では、二人じゃった」

「戸は。向こうへ、入る、ものが、あって。初めて、開く」


***


「きのう、鷲尾は、一人で、来ました」


赤城さんは、言った。


「手の甲の、連中は、冬至に、全員、押さえた。……あいつには、もう、連れが、いない」


***


四角く掃いた土を、見ていた。


「あいつは。人に、やらせない男だ」

「下書きも。清書も。……自分で、やる」


誰も、何も言わなかった。


***


葬式の支度をしに来た、人間の顔。


おじいさんは、そう言った。


***


「……自分が、入る、つもりか」


メレオスが、言った。


「あれが、久我の、体に、移ったら。空いた、自分の、体を。……戸に、くれてやる、つもりか」

「手前の、子供の、したいことと。自分の、したいことを。……両方、一晩で、片づける、算段じゃ」

「几帳面な、男じゃのぉ」


ほめていなかった。


***


赤城さんは、長いこと黙っていた。


「……一人も、死なせるな、と。言った」

「鷲尾も、含めてだ、と」

「死ぬ、つもりの、男が。相手だとは。……思って、いなかった」


***


それでも、変わらない、とは、今日は言わなかった。


言わなくても、変わらない顔をしていた。


***


「……消しますか。これ」


俺は、聞いた。


糸を焼くのは、一瞬だった。指先の火で、足りた。


「消さない」


赤城さんは、言った。


***


「消せば、鷲尾は、場所を、変える。……あいつは、予備を、用意する男だ」

「ここで、やらせる。……俺たちの、知っている、場所で」

「触るな。糸、一本」

「一ミリ、ずれても。あいつは、気づく」


***


気づく、と思った。

方眼紙の線を見たあとでは。


***


糸の外側。窪みから十歩ほど離れたところに、崩れた石が積んであった。


昔の祠の跡だった。


***


「……ここに」


俺は、しゃがんだ。

土に、手を当てた。


冷たかった。

普通の冬の土の冷たさだった。


「立てます。当日」

「今日は、立てて、すぐ、戻します。……跡が、残らないように」


***


気を、流した。


土が、持ち上がった。


壁が、四枚。屋根が、一枚。


小さな祠が、立った。


人が、一人。正座して、入れるくらいの。


戸口が、一つ。戸は、なかった。


***


「……三十秒」


『ホラー』が、言った。

腕時計を見ていた。課長に頼まれたらしかった。


「当日は、二十秒で、お願いします、と。……課長が」

「測ってたのか」

「メジャーも、預かってます」


測るのか、と思った。

測るらしかった。


***


共さんが、祠の前に立った。


戸口を、見ていた。


中は、暗かった。


***


「……共さん」


由紀が、言った。


「無理なら。……今日は、いいです」


「いえ」


共さんは、言った。


「稽古は。本番と、同じに、いたしませんと」


***


背をかがめて、入った。


中で、正座した。こっちを向いて。


暗い中に、紺色のコートが、ぼんやり見えた。


***


「由紀さん。お願い、します」


由紀は、戸口の前に立った。


両手を、前に出した。


***


息を、吸った。四つ。


止めた。二つ。


吐いた。六つ。


***


何も、見えなかった。


戸は、見えなかった。

でも、戸口の空気が、少しだけ温かくなった。


官舎の戸と、同じだった。


***


「……閉めました」


「どれ」


メレオスが、とことこ歩いていった。


戸口に、頭から入ろうとした。


ごん。


弾かれた。尻もちを、ついた。


***


「……二回目じゃ」

「なんで、また、試すんだよ」

「母御に、保証した、手前。……確かめて、おかんと」


尻をさすりながら、言った。


「ええ戸じゃ。……前より、硬い」


***


由紀は、戸口の中を見ていた。


「……共さん」

「はい」


中から、声がした。少し、こもっていた。


「暗く、ないですか」


少し、間があった。


***


「……暗う、ございます」

「五十年、こういう、ところに、おりましたので。……覚えが、ございます」


由紀の手が、少しだけ下がった。


***


「ですが」


共さんの声は、変わらなかった。


「あそこには、戸が、ございませんでした」

「こちらには、ございます。……由紀さんの、戸が」

「それに」


***


暗い中で、紺色のコートが動いた。


共さんが、戸口から出てきた。


自分で。弾かれずに。


***


「私は、出られます。……いつでも。自分の、足で」

「あそことは。違います」


背筋を伸ばして、由紀に頭を下げた。


「結構な、戸でした」


お茶をほめるみたいな言い方だった。


***


由紀は、少しだけ笑った。

それから、鼻をすすった。


「……寒いだけ」

「腹巻き、してるのに?」

「うるさい」


***


祠を、土に戻した。


壁が崩れて、屋根が落ちて、元の地面になった。


落ち葉を、かぶせた。風で。そよ風くらいの。


今度は、加減を間違えなかった。首が、治っていた。


糸には、一本も触らなかった。


***


帰る前に。


赤城さんが、窪みの縁に立った。


四角く掃いた土を、もう一度見ていた。


***


背広の内ポケットから、何か出した。


年賀状だった。一枚だけ。


『謹賀新年』。『鷲尾』。両脇に、鉛筆の線。


赤城さんは、それを見て、また、しまった。


***


「……二十年」


誰にともなく、言った。


「仕事だった、と。久我さんは、言った。……『レディー』も」

「そうだろう。……そうだと、思う」

「だが。二十年、同じ、厚さに。羊羹を、切り続けるのは」


***


赤城さんは、糸を見た。


「仕事だけで。……できる、ものか」


誰も、答えなかった。


答えを知っている人は、ここにはいなかった。


きのう、ここに、いた。


***


ゲートに戻ると、おじいさんが待っていた。


「早かったな」

「下見、でしたので」

「……三日に、また、来るんか」

「来ます」

「夜か」

「夜です」


***


おじいさんは、しばらく黙っていた。


それから、ゲートの小屋から帳面を持ってきた。


入山の記録だった。


きのうのところを、開いた。


***


名前が、あった。きれいな楷書だった。


両脇に、鉛筆の線は、なかった。


消してあった。きれいに。右の端まで。


「……消し残しが、ない」


赤城さんが、言った。


***


その下の欄に、もう一行あった。


入山の予定の欄だった。


『二月三日 日没より』


***


その横に、下山の予定の欄があった。


空欄、だった。


線も、引いてなかった。


***


あの几帳面な人が、そこだけ、何も書いていなかった。


***


「帰りの、時間を、書かん、人間は」


おじいさんが、言った。


「帰る、気の、ない、人間じゃ。……この、ゲートに、四十年、おるが。そういう、欄は、何度か、見た」

「たいてい。探しに、行くことに、なる」


***


帳面を、閉じた。


「あんたらは、書いていけ」

「何を、ですか」

「三日の、ぶんじゃ。……帰りの、時間まで」


***


赤城さんは、万年筆を出した。


書いた。


入山、二月三日、日没。


***


人数の欄で、手が止まった。


少し考えて、書いた。


行き、の欄に、来る人数を。


帰り、の欄に、それより一人、多く。


***


おじいさんは、それを見た。


「……勘定が、合わんぞ」


「合わせます」


赤城さんは、言った。


「山の、上に。先に、一人、おりますので」

「連れて、下ります」


***


おじいさんは、赤城さんを見た。長いこと。


「……冬も、そうじゃったな。あんたらは」

「四人で、入って。五人で、出てきよった」


***


共さんが、小さく頭を下げた。


その、五人目だった。


***


おじいさんは、帳面を小屋に戻した。


「下山の、時間は」

「……未定です」

「未定、と、書いたんか」

「書きました」

「空欄よりは、ましじゃ」


おじいさんは、言った。


「未定は。……下りる、気の、ある、人間の、書き方じゃ」


***


帰りの車の中で。


由紀は、靴を脱いでいた。

かかとに、絆創膏を貼っていた。


三枚目だった。


***


「……お兄ちゃん」

「何」

「お母さんに。今日のこと、言う」

「下見だぞ。危なくなかっただろ」

「危なくなかった、って、言うの」


由紀は、言った。


***


「危ないことだけ、言ってたら。……言わないときは、危なくない、って、ことに、なるでしょ」

「それ、じいちゃんの、異状なし、と、同じだよ」


そうかもしれなかった。


***


異状なし。五十五年ぶん。


書いて、閉じた手帳の中だけに。


***


「……じゃあ、俺も、言う」

「何を」

「由紀が、靴ずれで、絆創膏、三枚、使った、って」

「それは、言わなくていい」


***


後ろの席で、共さんが、紺色の手帳を開いていた。


『一月三十一日 下見 戸、結構』


その下に、もう一行、書いた。


『帰り 一人 多く』


「忘れないように」


***


メレオスは、俺の膝の上で、窓の外の山を見ていた。


何も、言わなかった。


あの窪みの糸の手前で、一歩も中に入らなかった。


五十年、いた場所だった。


***


三日後。あそこで。

自分を閉じこめた相手の名前を、呼ぶ。


***


俺は、メレオスの襟を、後ろから軽くつまんだ。


「……何じゃ」

「練習」

「……今から、掴むな。三日、早い」


振りほどかなかった。


***


節分まで、あと三日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。