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短編集

王宮を追い出された「がらくた屋」の聖女は、辺境の推し騎士様に「神の手」を捧げたい ~今さら戻れと言われても、この傷一つない鎧を磨くので忙しいです~

作者: 春野ひかる
掲載日:2026/03/06


鍛冶場にはオゾンの匂いと、私の汗の匂いが満ちていた。追放されて三日。王宮で五年過ごした時より、ずっと生きてる感じがする。

炉の火が落ちた深夜。エーリカは作業台に額がつくほど顔を寄せて、一振りの短剣と向き合っていた。

辺境の砦から回収された実戦用の品。刃こぼれは三箇所、柄の革は汗と血で固まって黒ずんでいる。だが彼女の目が釘付けになったのは、そこじゃない。

「……鳴いてる」

独り言だ。返事をする人間は、この工房にはいない。

魔道具の刃には魔力結晶層マナ・グレインが鍛接されている。肉眼では見えない。厚さにして〇・〇三ミリ。普通の修復師なら存在すら忘れている層だ。

エーリカは左手の人差し指を刃の腹にそっと這わせた。素手で。手袋なんか邪魔だ。指先の脂で滑りが変わる? ああ、変わるよ。変わるから分かるんだ。

結晶層に微細なクラックが入っている。亀裂というほど大きくない。髪の毛一本の十分の一。だけど魔力がそこから漏れている。その漏れた魔力が、刃の固有振動と干渉して——ほんのかすかに、高周波のノイズを出している。

これを、エーリカは「泣き」と呼ぶ。

指の腹がぴりっと痺れた。魔力漏出の証拠。この痺れの波形を読めば、クラックの深さ、角度、進行方向まで分かる。分かってしまう。教わったわけじゃない。五年かけて指が覚えた。王宮の片隅で、誰にも評価されないまま、何百何千と繰り返して染みついた。

「ごめんね。痛かったでしょう」

短剣に謝る。本気で。

修復の手順はこうだ。まず自分の魔力を指先に集中させる。量じゃない。密度だ。針の先ほどの面積に、糸を通すように魔力を流し込む。結晶層のクラックに沿って、壊れた格子構造をひとつひとつ繋ぎ直す。

分子を並べ直す感覚、とでも言えばいいか。

エーリカの額に汗が浮いた。呼吸を止めている。止めないと指が揺れる。指が揺れたら格子がずれる。ずれたら最初からやり直しだ。

一分。二分。三分。

「……っは」

息を吐いた。喉の奥がからからに乾いている。舌が上顎に張り付く。

クラックの三分の一を修復しただけで、これだ。全部直すのに今夜いっぱいかかる。肩が軋む。首の後ろが熱い。目の奥が痛い。

だけど——指先に伝わる振動が、ほんの少し変わった。

「泣き」が弱まっている。

そのとき、エーリカの口元が歪んだ。笑みと呼ぶには獰猛すぎる何か。瞳孔が開いているのが自分でも分かった。

「よし……いい子。もう少しだから」

これだ。この瞬間のために生きている。壊れかけた魔道具が、自分の手の下でふっと静かになる刹那。暴れていた魔力の流れが整って、道具が「安心する」のが手のひらを通して伝わってくる。

恍惚、という言葉がある。エーリカにとってそれは、別に目を閉じてうっとりするような上品なものじゃない。膝の裏がじわっと汗ばんで、心臓がどくどく速くなって、唾を飲み込む音が自分の耳にやたら大きく聞こえる——そういう、ちょっと下品な、全身が粟立つような快感だ。

翌朝。砦の兵士が工房を覗いた。

「修復師殿、朝飯……うわ」

エーリカは作業台に突っ伏して寝ていた。短剣を胸に抱くようにして。頬に工具の跡がくっきりついて、髪はぼさぼさで、口元にはよだれの痕。

その手に抱かれた短剣だけが、鋳造されたばかりのように静かな光を放っていた。

兵士は何も言わずに、パンとスープを作業台の端に置いて去った。

起きたエーリカはスープを一口飲んで、冷めていることに舌打ちした。自分が寝坊したくせに。

辺境の砦には、ろくな魔道具がない。

いや、正確に言えば「あった」のだ。かつては。だが予算も人材も王都に吸い上げられ、修復師の巡回も打ち切られ、残されたものは放置された魔道具の残骸ばかり。

その中に、一枚の防護結界布があった。

騎士が鎧の下に着込むインナークロス。魔力を織り込んだ特殊繊維で、衝撃を分散する。新品なら大型魔獣の一撃を受けても骨は折れない。

「……これ、最後にメンテナンスしたの何年前?」

エーリカは布を光に透かして、眉をひそめた。

繊維の魔力充填率が四割を切っている。本来は九割五分以上を維持しなきゃいけない。四割なんて、ただの布だ。ただの布を信じて魔獣の前に立つ騎士のことを考えたら、胃の底が冷たくなった。

けど怒りは後だ。まず直す。

防護結界布の修復は、短剣の比じゃなく厄介だ。繊維一本一本に魔力が織り込まれている。その一本一本が微妙に異なるリズムで魔力を循環させている。心臓の拍動みたいに。エーリカはこれを「呼吸」と呼んでいた。

千本の繊維が、千通りのリズムで呼吸している。修復するには、その全部と自分の魔力の波長を合わせなきゃいけない。

一本ずつ。

「馬鹿みたいでしょ」

誰に言うでもなく呟く。王宮時代、同僚の修復師にこの作業を説明したら、鼻で笑われた。「そんな非効率なことしてるの? 魔力を一括充填すればいいじゃん」と。

一括充填。繊維の固有リズムを無視して、力任せに魔力を押し込む方法。確かに早い。数値上の充填率も上がる。

だけどそれは、千人のオーケストラ奏者に同じ音を同時に出させるようなもんだ。充填率の数字は満たしても、繊維同士の「協調」が壊れる。結界の強度は理論値の六割がいいところ。しかも繊維が無理な振動に晒されて、寿命が縮む。

エーリカのやり方は違う。

布を膝に広げて、両手を置く。目を閉じる。

まず「聴く」。

千本の繊維の呼吸を、掌から伝わる微細な振動として感じ取る。最初は混沌としたノイズにしか思えない。だけど意識を研ぎ澄ませていくと——一本、また一本と、個別のリズムが浮かび上がってくる。

耳じゃない。皮膚で聴いている。

「……あんたはちょっと速いね。こっちは遅い。この子は——ああ、リズムが乱れてる。隣の繊維と干渉してるんだ」

布に向かって語りかけながら、指先から魔力を送り込む。その繊維固有のリズムに合わせて。呼吸を合わせるように。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

一本の修復に、三十秒。千本で八時間以上。

腰が痛くなる。肩甲骨の間がぎしぎし鳴る。目は閉じたままだから、時間の感覚が溶ける。ただ指先の感覚だけが世界の全部になる。

いつの間にか、布全体が温かくなっていた。繊維たちの呼吸が揃いはじめて、布そのものが一つの大きな生き物みたいに脈打っている。掌にじんわりとした熱が伝わる。

エーリカの唇が震えた。これは——感動とかじゃない。もっと原始的な何か。自分の手の中で無機物が「生き返る」感覚。それが全身を這い上がってくるとき、背筋がぞわっと粟立つ。鳥肌だ。腕の産毛が全部逆立つ。

「ああ……」

声が漏れた。ちょっと色っぽい声だったかもしれない。聞かれてなくてよかった。

修復が終わった防護結界布を光に透かすと、繊維の一本一本が星みたいにきらきら瞬いていた。充填率九割八分。理論上の結界強度、百二十パーセント。新品以上だ。

足が痺れている。立てない。膝を抱えたまましばらく作業台の下で座り込んで、にやにやしていた。

その姿を砦の物見番に目撃されて、「修復師殿、大丈夫ですか? 何か悪いものでも?」と衛生兵を呼ばれた。

大丈夫じゃないかもしれない。ただ、この「大丈夫じゃない」が好きなのだ。

ルクス・ヴァルトシュタインの佩剣を預かった夜、エーリカは自分の手が震えていることに気づいた。

推しの剣だ。推しが毎日握っている剣。推しの掌の汗を吸い、推しの魔力が染みた剣。

……落ち着け。プロだろ、自分。

作業台に剣を横たえる。深呼吸を三回。それでも指先がぴくぴくしている。ぜんぜん落ち着いてない。

「よし。診るよ」

魔道具には「記憶」がある。正確に言えば、使用者の魔力パターンが結晶層に刻印される。長く使い込まれた魔道具ほど、その刻印は深い。

エーリカが刃に指を触れた瞬間、ルクスの魔力の残滓が指先を駆け上がってきた。

温かい。

分厚くて、真っ直ぐで、微かに荒い。丁寧に研がれた刃のような鋭さの奥に、焚き火みたいな熱がある。この魔力の持ち主がどんな人間か、指先だけで分かってしまう。不器用で、愚直で、それでいてどこか不安を抱えている人。

エーリカの喉がごくりと鳴った。

これは——仕事だ。仕事。推しの魔力パターンを読むのは診断に必要な行為であって、断じてやましいことでは——

「……ここ」

指が止まった。

刃の中程、結晶層の刻印パターンに微妙な「揺らぎ」があった。ルクスの魔力とは異なる、別の魔力の痕跡。

誰かがこの剣を握った。ルクス以外の誰かが。

研ぎ師だ。おそらく定期メンテナンスで預けた際に、研ぎ師が素手で扱った。それ自体は珍しくない。珍しくないけど——

「雑っ……」

声が尖った。

研ぎ師の魔力痕跡が、ルクスの刻印パターンを一部上書きしている。ほんの微小な領域だ。実用上の問題はない。剣の性能には影響しない。

だけどエーリカには許せなかった。

ルクスの魔力がこの剣に長い時間をかけて刻んだパターン——それは剣と使い手の「対話の記録」みたいなものだ。握り方の癖、力の入れ方、戦闘時の呼吸。その全部が刻印されている。それを、無神経な素手一つで汚した。

「……知ってる? これ、修復できないんだよ」

上書きされた刻印は戻らない。消しゴムで消すみたいにはいかない。ルクスがまた何百時間もこの剣を振って、新しい魔力を刻み直さない限り。

指先が白くなるほど拳を握った。

嫉妬してるんだ、と気づくのに数秒かかった。

剣に。いや、剣に触った研ぎ師に。いや——違う。違う違う違う。推しの持ち物を雑に扱ったことへの純粋な職人としての憤りであって、断じて個人的な感情では——

ない、と言い切れないところが問題だった。

エーリカは自分の頬を両手で叩いた。ぱん、と工房に乾いた音が響く。

「仕事しろ。私」

上書きされた刻印は戻せない。だけど、それ以外の部分を完璧に整えることはできる。ルクスの魔力パターンが最も効率よく剣に伝達されるように、結晶層の配列を最適化する。使い手の癖に合わせて、結晶の角度をナノ単位で調整する。

これは王宮でもやらなかった仕事だ。王宮では「汚れ落とし」しか任されなかった。でも本当は、こういうことがやりたかった。道具を使い手に「合わせる」仕事。

朝までかかった。

完成した剣を鞘に収めるとき、ぞっとするほど滑らかな手応えがあった。鞘の内壁と刃の摩擦すら計算に入れて調整したから、当たり前だ。当たり前なんだけど、自分でやっておいて鳥肌が立った。

翌日、ルクスが剣を受け取った。一振りして、目を見開いた。

「……エーリカ殿。この剣は、まるで——」

「はい、次の方どうぞ」

聞きたくない。推しに褒められたら死ぬ。比喩じゃなく心臓が止まる。エーリカは次の修復品を引っ掴んで背を向けた。耳が真っ赤だった。

それを見ていた砦の古参兵が、隣の同僚に囁いた。

「……あの修復師殿、天才なのか変態なのか分からんな」

「両方だろ」

否定できない自分が、一番腹立たしい。

エーリカが王宮を去って十日後。

最初に異変に気づいたのは、第三騎士団の副団長だった。

朝の訓練で抜剣したとき、鞘から引き抜く感触がいつもと違った。ぬるい。いつもは「しゃん」と鳴るはずの鞘走りの音が、「ずる……」という湿った音に変わっている。

「研ぎが甘いのか……?」

不審に思いつつも、たかが抜剣時の感触だ。気のせいだろうと片付けた。

魔道具の剣には、刃の表面を覆う魔力の膜がある。厚さ〇・〇〇一ミリ以下。人間の視覚では絶対に見えない。

この膜の役割は三つ。刃の酸化防止、鞘との摩擦低減、そして魔力伝導効率の維持。

エーリカは週に一度、王宮の武器庫に保管されている全ての魔道具——約三百点——の魔力膜を更新していた。「汚れ落とし」という名目で。

実際にやっていたのは、古い膜を除去し、各魔道具の結晶層の状態に合わせた濃度・厚みの膜を再形成する精密作業だった。三百点を一晩で。睡眠時間を削って。

「あの子がいなくなって清々したわ」と笑った武器庫管理官は、魔力膜の存在自体を知らなかった。王宮の正規修復師も、知ってはいたが「自然に維持されるもの」だと思い込んでいた。

自然に維持されるわけがない。

魔力膜は放置すれば二週間で劣化する。均一だった膜厚にムラが生じ、薄い部分から酸化が始まる。酸化した結晶層は魔力伝導率が落ちる。落ちた伝導率は、剣を振ったときの「重さ」に直結する。

二週間後。騎士たちの間で囁きが広がった。

「最近、剣が重くないか?」

重い。確かに重い。だが計量すれば重量は変わっていない。変わったのは、魔力が刃に伝わる効率だ。同じ力で振っても、以前のような切れ味が出ない。補おうとして無意識に力む。だから「重く」感じる。

正規の修復師に相談が入った。彼は剣を診て、首を捻った。

「異常はありませんが。魔力充填率も基準値内です」

基準値。王宮の公式マニュアルに載っている数値。充填率八割以上を維持すること。

マニュアルは正しい。だがエーリカは九割八分を維持していた。マニュアルの「基準値」は最低ラインであって、最適値じゃない。その差の一割八分を、騎士たちの体は覚えていた。数字では説明できない「しっくりこない」感覚として。

誰もエーリカの仕事だと気づかない。気づけない。彼女がやっていたことは、公式には「存在しない作業」だから。

一ヶ月が経過すると、問題は「感覚の違和感」から「目に見える不具合」に移行する。

魔道具の結晶層は、個々の道具ごとに固有の共鳴周波数を持っている。この周波数は使用環境——気温、湿度、使用者の魔力波形——によって微妙にドリフトする。

エーリカは月に一度、全魔道具の共鳴周波数を測定し、ドリフトを補正していた。これも「汚れ落とし」の名目で。

補正が行われないとどうなるか。

まず、結晶層内の魔力循環に「淀み」が生じる。水流に例えるなら、川底に小石が溜まって流れが滞るようなものだ。淀んだ魔力は熱に変わる。結晶層の局所的な温度上昇。

第二騎士団の団長が、訓練中に異変に気づいた。

剣の柄が、熱い。

「おい、これ……」

握っていられないほどじゃない。だが明らかに体温より高い。冬場の訓練場で、握った剣の柄がじんわり温かいのは異常だ。

修復師が呼ばれた。診断結果は「結晶層の循環効率低下による熱損失」。修復師は共鳴周波数の補正を試みた。

できなかった。

なぜか。エーリカが設定していた共鳴周波数は、マニュアルに記載されている標準値とは異なっていたからだ。彼女は各魔道具の「個体差」に合わせて、標準値から微調整を加えていた。その微調整の記録は——エーリカの指先にしかない。ノートにも、報告書にも、どこにも残っていない。

修復師は標準値で補正した。結果、循環効率は改善した。だが以前の水準には遠く及ばない。

そして副作用が出た。

標準値での補正は、エーリカが施していた微調整を上書きしてしまった。個体ごとの最適化が消え、全ての魔道具が「平均的」な状態に均された。

「平均的」は「最適」じゃない。

騎士たちの不満は表面化しはじめた。「修復したはずなのに、前より調子が悪い」。修復師は頭を抱えた。数値上は基準を満たしている。だが騎士たちの体感は嘘をつかない。

報告書には書けない不具合。マニュアルに載っていない劣化。記録に残っていない技術の消失。

エーリカが五年かけて積み上げた「見えないインフラ」が、音を立てずに崩れ始めていた。

決定的な事件は、王族臨席の閲兵式で起きた。

第一騎士団——王宮最精鋭、国の顔。彼らが閲兵式で佩用する儀礼用魔剣は、実戦用とは別格の代物だ。千年前の大戦時に鍛造された国宝級の品。結晶層の複雑さは実戦用の十倍。維持管理は最高難度。

エーリカは、この儀礼用魔剣のメンテナンスも「汚れ落とし」の一環として担当していた。

正確には、他の修復師が触るのを怖がったから、自然と彼女に回ってきたのだ。千年前の鍛造技法で作られた結晶層は、現代の修復マニュアルでは対応できない特殊構造を持っていた。エーリカだけが——五年かけて手探りで解読したエーリカだけが、その構造を理解していた。

閲兵式当日。

第一騎士団の団長が魔剣を鞘から抜いた。王族と貴族と外国使節の前で。抜剣の所作は騎士の誇りだ。千人の視線が注がれる中、鞘走りの音が広場に響き——

音がしなかった。

鞘の中で、刃が鞘の内壁に引っかかった。潤滑魔力膜が完全に消失していたのだ。団長は力を込めた。騎士としてあってはならない、力任せの抜剣。

ぎぎ、と。歯が浮くような金属の悲鳴が広場に響き渡った。

抜けた。

刃が陽光を受けた瞬間、観衆の間からかすかなどよめきが起きた。

刃が、曇っている。

千年間一度も曇ったことのない伝説の魔剣の刃面に、まだらな酸化被膜が浮いていた。結晶層の劣化が表面にまで達した証拠。人間で言えば、皮膚に壊疽が浮き出たようなものだ。

団長の顔から血の気が引いた。握った手が震えている。誇りで、じゃない。屈辱で。

だが本当の地獄はここからだった。

剣を掲げる所作の途中で——結晶層の共鳴が暴走した。

メンテナンスの途絶によって蓄積した魔力の「淀み」が臨界を超え、結晶層が無秩序な振動を始めたのだ。刃が甲高い音を発した。キイイイン、と。犬笛のような不快な高周波。

観衆が耳を押さえた。

そして刃面にひびが走った。

千年持った結晶層が、目に見える速度で崩壊していく。ガラスにひびが入るように、蜘蛛の巣状のクラックが刃全体に広がって——

ぱきん。

破片が飛んだ。結晶層の一部が剥離して、陽光を受けてきらきらと舞った。綺麗だった。残酷なほど。

広場は静まり返った。

団長は剣を握ったまま、微動だにしなかった。彼の右手の甲を、飛び散った結晶片が切り裂いて、血が刃を伝って地面に落ちた。

その日の夜、王宮の修復工房は非常招集がかかった。儀礼用魔剣だけじゃない。全ての魔道具を緊急検査しろ、と。

検査結果は壊滅的だった。三百点の魔道具のうち、本来の性能を維持しているものは——ゼロ。

修復師長は報告書を書こうとして、ペンを持つ手が止まった。

何と書けばいい? 「五年間、がらくた屋と蔑んでいた女一人に、王宮の全魔道具が依存していた」と?

書けるわけがない。

だから報告書にはこう記された。「経年劣化による一斉不具合。原因調査中」。

原因は調査しても出てこない。エーリカがやっていたことは記録に残っていないのだから。

残ったのは、曇った刃と、砕けた結晶と、それを見つめる騎士たちの——何とも形容しがたい、拳を握りしめるしかない顔だけだ。

そしてここが本当に残酷なところだが——

エーリカは、このことを知らない。

辺境の砦で、推しの鎧を磨きながら、鼻歌を歌っている。

王宮のことなんか、もう考えていない。それが一番の「ざまぁ」だ。復讐ですらない。ただ振り返らなかっただけ。それだけで、あの巨大な機構が瓦解した。

一人の「がらくた屋」が抜けただけで。

ルクス・ヴァルトシュタインは困っていた。

辺境伯家の三男にして砦の守備隊長。歳は二十四。長身、銀髪、碧眼。鍛え上げられた体躯に、質実剛健を絵に描いたような実直さ。

その実直さが、今まさに彼を追い詰めていた。

「エーリカ殿」

「はいっ」

返事が速い。異様に速い。そしてなぜか声が裏返っている。

「先日修復していただいた胸甲なのだが……あまりにも見事な仕上がりで——」

「あっ、ちょっと待ってください今忙しいので!!」

忙しくない。作業台の上には何もない。エーリカは空の作業台に向かって工具を握りしめ、存在しない魔道具を修復するふりをしている。耳の先まで赤い。

ルクスは怪訝そうに首を傾げた。

「……忙しいか。すまない、出直す」

「はいっ、すみません! いえっ、すみませんじゃなくて! あっ、どうも!」

何を言ってるんだ自分は。エーリカは自分の口を両手で塞いだ。どうも? どうもって何だ。推しに「どうも」って。コミュニケーション能力が死んでいる。五年間王宮の地下で魔道具としか喋ってこなかったツケが、最悪のタイミングで回ってきた。

ルクスの背中が工房の扉から消えた。

エーリカは作業台に額をぶつけた。ごん、といい音がした。

「死にたい……」

死にたくないけど死にたい。推しに話しかけられて意味不明な挙動をするオタク、最悪だ。最悪。もう二度と顔を合わせられない。合わせられないけど、推しの鎧のメンテナンスは明後日が期限だから合わせないわけにいかない。

「……切り替えよう」

切り替えられるのが、職人の強みだ。エーリカは作業台の下から布に包まれた品を引き出した。

ルクスの鎧。胴甲ではなく、今度は腕甲と関節パーツ。

これを預かったとき、エーリカは三十分間、工房の隅でうずくまって呼吸を整える必要があった。推しの鎧だ。推しの腕が通る鎧。推しの筋肉が直接触れる内側の面に、推しの汗の痕跡が——

「やめろ。変態か」

変態じゃない。プロだ。プロとして、この鎧を最高の状態にする。それだけだ。

だが。

ここからがエーリカの「職人として正気でプロとして狂っている」部分なのだが。

彼女は鎧の関節パーツを見て、不満だった。

不満というか、怒りに近い。

「誰だよ、この関節設計したの……」

鎧の肘関節。蝶番型の標準パーツが使われている。可動域は百二十度。軍の制式装備としては合格だ。問題ない。

問題大ありだ。

エーリカは昨日の訓練を工房の窓から観察していた。双眼鏡で。いや、推しの訓練を双眼鏡で見るのは気持ち悪いと分かっている。分かっているけど、これは鎧の動作確認のために必要な業務上の観察であって、断じて私的な——

「嘘つけ」

自分にツッコむ癖がついてきた。辺境暮らしも三日目になると、独り言の質が変わる。

ともかく。観察の結果、重大な問題を発見した。

ルクスの剣技は、右腕の振り下ろしの際に肘を百三十五度まで伸展させる独特のフォームを持っている。百二十度の可動域では十五度足りない。不足分を肩関節で補っているから、本来の威力の八割しか出ていない。

そして——ここが核心だが——百三十五度まで伸展したときのルクスの上腕三頭筋の収縮が、まあ、その。

美しい。

筋繊維が鋼線のように浮き上がって、皮膚の下で力の流れが目に見えるあの瞬間。あれを鎧が邪魔している。許されることじゃない。

……いや、待て。何の話をしていた?

「推しの筋肉の動きを最大化する鎧の関節パーツ」の話だ。業務だ。仕事の話をしている。

エーリカは関節パーツを分解し、蝶番の軸受けを削り出し直す作業に入った。可動域を百四十度まで拡張する。余裕の五度は安全マージンだ。ただ可動域を広げるだけじゃ駄目で、広がった分の強度低下を補わなきゃいけない。軸受けの肉厚を〇・五ミリ削って可動域を得る代わりに、結晶層の魔力補強パターンを再設計して強度を維持する。

さらに。

関節の内側——ルクスの肘の内側が当たる面に、衝撃吸収用の魔力緩衝材が貼ってある。これの厚みを〇・二ミリ増やす。なぜか。

昨日の観察で、ルクスが肘の内側をさすっているのを見た。たぶん関節パーツの縁が当たって擦れている。本人は気にしていないだろう。戦う人間は、鎧の擦れぐらいで文句を言わない。

でもエーリカは気にする。推しの肘の内側に擦過痕があるなんて、許容できない。あの柔らかい——いや、見たことはない。見たことはないけど、肘の内側は人体の中でも特に皮膚が薄い部位であり、そこに不要な負荷をかけるのは鎧設計として怠慢であり——

「……業務です。これは業務」

自分に言い聞かせながら、緩衝材の厚みを〇・一ミリ単位で調整する。ルクスの腕の太さは——預かった鎧の内径から逆算して——上腕部の周囲が約三十六センチ。前腕部が約二十九センチ。この数値は工房の帳簿に記録してある。帳簿に。公式の記録として。何もおかしくない。

(帳簿の該当ページにだけ付箋が三枚貼ってあることには触れないでおく)

作業は六時間に及んだ。

完成した関節パーツを鎧本体に取り付け、可動テストを行う。きしみなし。引っかかりなし。百四十度までスムーズに展開し、戻りも滑らか。

完璧だ。

翌日。

ルクスが鎧を装着して訓練場に現れた。エーリカは工房の窓から——業務上の観察として——その姿を見守った。

ルクスが剣を振った。

いつもの振り下ろし。だが今日は——肘が完全に伸展した。百三十五度。制限なく。肩で補う必要がない、純粋な腕の振り。

斬撃が空気を叩く音が、工房まで届いた。

ルクスが自分の腕を見つめた。目を瞬いた。もう一度振った。もう一度。三度目に、彼の口元がほころんだ。

エーリカは窓辺で、唇を噛んで小さくガッツポーズした。目の奥がじわっと熱い。泣きそうだ。泣いてどうする、馬鹿。

その日の夕方。

ルクスが工房を訪ねてきた。

「エーリカ殿」

「はいっ!」

また声が裏返った。

「今日の訓練で気づいたのだが、鎧の動きが格段に良くなっていた。関節の可動域が広がった気がする」

「あ、はい。ちょっと調整しました」

「ちょっと、ではないだろう。明らかに違う。肘が——信じられないほど自由に動く。長年の違和感が消えた」

ルクスの目がまっすぐエーリカを見ていた。碧い目だ。深くて澄んでいて——

直視できない。

エーリカは視線を作業台に逃がした。心臓がうるさい。鼓動が耳の中で反響している。

「あの……大したことじゃないです。可動域を二十度拡張して、軸受けの肉厚を調整して、魔力補強パターンを再設計して、あと緩衝材の厚みを変えただけなので」

「それは大したことだ」

「いえ、あの、ルクス様の戦闘フォームに合わせただけで——」

「私のフォームを分析したのか」

沈黙。

やばい。

「い、いえ! 鎧の摩耗パターンから推測しただけです! 別に観察とかしてませんから!!」

嘘だ。双眼鏡で見た。バレたら死ぬ。

ルクスは少し考え込むように黙ったあと、口を開いた。

「エーリカ殿。あなたは——」

来る。何か来る。エーリカの胃が縮んだ。

「あなたは、神に遣わされた方なのではないかと、時々思う」

「は?」

「この砦に来てからのあなたの仕事は、もはや人の業ではない。兵たちの装備が日に日に良くなっている。怪我が減った。士気が上がった。あなたは——聖女だ」

エーリカの脳が一瞬フリーズした。

聖女。

聖女?

推しが私を聖女と呼んでいる?

違う。違う違う違う。私は聖女じゃない。ただの魔道具オタクだ。あなたの鎧を推し活の一環としていじり倒しているだけの、業の深いオタクだ。聖女は推しの腕の周囲を帳簿に記録して付箋を貼ったりしない。

だが喉から出た言葉は。

「あ、ありがとうございます……」

蚊の鳴くような声だった。

ルクスは満足げに頷いて、「明日の訓練も楽しみだ」と言い残して去った。

工房に一人残されたエーリカは、作業台に両手をついて、がくがく震えていた。

「推しに聖女って言われた……」

言われた。推しに。聖女って。

嬉しいのか? 嬉しくない。いや嬉しいけど、それは求めてる種類の「嬉しい」じゃない。私はあなたに聖女として敬われたいんじゃなくて——

いや、何を求めてるんだ。何も求めてない。推しは推しだ。遠くから眺めて、装備を最高の状態にして、推しが最高のパフォーマンスを発揮する姿を見守るのが推し活であって——

「……死にたい」

二度目の「死にたい」が出た。今日だけで二回。辺境生活の精神衛生状態に問題が生じつつある。

その夜、エーリカは帳簿を開いた。ルクスの装備の調整記録。

付箋が三枚だったページに、四枚目を貼った。

「上腕三頭筋の伸展時、関節パーツとの干渉なし。理想的な筋収縮を確認」

理想的な筋収縮。業務記録だ。何もおかしくない。

——何もおかしくない、と思いたかった。

右手の指先がまだ微かに震えているのは、六時間の精密作業の疲労のせいだ。ルクスの碧い目を思い出しているせいじゃない。

断じて。

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