雨が君を連れてきた
静かな雨の帰り道、初めて二人で傘を分け合った。
冷たい雨が終わるとき、七瀬の心に芽生えたのは――黒沢陽翔への小さな興味と、温かなカフェの灯りだった。
大雨が街を濡らしていた。
小さな傘の下で、黒沢陽翔は初めて一人の女性と並んで歩いていた。
彼はただ黙ったまま、足元だけを見つめて歩く。
隣の七瀬はどうすればいいのか分からず、落ち着かない表情を浮かべていた。
雨音だけが響く静かな帰り道。
その沈黙が、七瀬の胸を妙にくすぐる。
――
「あ、あの……黒沢くん。帰り道って、同じ方向なの?」
「さあ……分からない。」
「そ、そうなんだ……」
【どうして黒沢くんは、そんなに平然としていられるの……?】
――
「く、黒沢くん。どうしていつも黙ってるの?」
「話すのが好きじゃないから。」
「じゃあ……どうして私と傘を一緒にしてくれたの?」
「君が可哀想に見えたから。……昨日のこと、謝罪のつもりだ。」
七瀬は言葉を失った。
些細なことなのに、彼は覚えている。彼女にとっては気にするほどのことではなかったのに。
「……黒沢くんって、優しいんだね。」
ぽつりと呟いた瞬間、自然と口元がほころぶ。
――
その笑顔に気づいた陽翔は、ちらりと視線を向ける。
「……今、笑ったよな。正気か?」
「えっ!? な、なに言ってるの!?」
「笑ってたんだ。」
「ち、違うよ……別に、なんでもないの!」
七瀬は慌てて顔を手で隠した。
――
再び沈黙。
だが突然、陽翔の口から信じられない言葉が漏れた。
「……でもさ、お前、胸……大きいな。」
「なっ……なに言ってるのよ、変態!!」
七瀬は真っ赤になり、思い切り陽翔の肩を叩いた。
「ち、違う! 勝手に口から出ただけだ……!」
口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
七瀬は息を呑む。
【……笑った。】
胸の奥が熱くなる。慌てて横を向き、視線を逸らした。
――
「……どうした?」
「な、なんでもないよ……」
【……笑うと、すごく……格好いい。】
――
やがて二人は小さな建物の前に辿り着いた。
ほのかに香るコーヒーの匂いが雨の匂いに混ざる。
「え……ここ、黒沢くんのカフェじゃない?」
「入れよ。温かいコーヒーを淹れてやる。服も替えた方がいい。冷えてるだろうし。」
七瀬は思わず目を見開いた。
冷たくて、時々意地悪なのに……こんなに気遣ってくれるなんて。
心の奥にじんわりと温かさが広がっていく。
そして彼女は思った。
――黒沢陽翔という人間を、もっと知りたい。
カラン――
ドアベルの音とともに、二人はカフェに入った。
外の冷たい雨とは対照的に、店内は柔らかな灯りとコーヒーの香りに包まれていた。
ほんのりと甘い焼き菓子の匂いも混ざり、温かい空気が全身をそっと抱きしめてくる。
七瀬は思わず深く息を吸い込んだ。
冷え切った体が、少しずつほどけていくような気がした。
一方、陽翔は靴を脱ぎ、急いで二階へと上がっていく。
だが七瀬は、ドアの前から一歩も動けずにいた。
「……どうした? 入れよ。カフェの上が俺の家だ。」
「わ、私……なんだか、ちょっと……落ち着かなくて……」
陽翔は振り返り、ため息をつく。
「そこに突っ立ってたら、客の邪魔だろ。」
七瀬は唇を噛みしめ、小さくうなずいてから木の床を踏みしめた。
黄色い照明に照らされた店内は、不思議と安心感を与えてくる。
まるで雨の冷たさごと心を溶かしていくようだった。
その時、カウンターの奥から一人の女性が顔を出した。
「陽翔……あら、てっきりお客さんかと思ったわ。」
「彼女、雨に濡れたんだ。母さん、お湯を用意してやってくれ。風呂に入れる。」
「はいはい。」女性は優しい笑みを浮かべて七瀬に近づいた。
「どうぞ遠慮なく。あら……昨日の子じゃない?」
「は、はじめまして……すみません、ご迷惑を……」
「七瀬、風呂に入ってこい。俺はコーヒーを淹れておく。」
そう言い残し、陽翔は階段を上がっていった。
「……ありがとう……」
雨音がかすかに聞こえる中、七瀬の胸は妙に熱くなっていた。
安心するのに、どこか落ち着かない。
「ふふ……七瀬ちゃん。」女性――アンナが近づき、いたずらっぽく囁いた。
「一緒にお風呂、入らない?」
「えっ!? い、いえ! 一人で大丈夫ですから!」
七瀬は慌てて両手を振る。
「ふふふ、そんなに恥ずかしがらなくても。知らない家だと緊張するでしょ?
それに……陽翔の小さい頃の話、聞きたくない?」
七瀬は一瞬で固まった。
「っ……く、黒沢くんの……小さい頃……?」
「ええ。今とはまるで違う、明るくて可愛い子だったのよ。」
胸の奥がドキンと跳ねる。
恥ずかしいのに、聞きたい気持ちが強くなる。
「……少しだけ、なら……」
「ふふ、秘密にしておくわ。女の子同士の内緒話よ。」
アンナは柔らかく笑い、七瀬の手を取って浴室へと導いた。




