〈壱、初邂・花祭〉第一章 静かな旅立ち
夜が明けきらぬ草原には、薄く霧がかかっていた。
朝露が銀色の光を帯び、静かに息づいている。
冬陽が目を覚ましたとき、風に揺れる木の葉が目に映った。
朝の陽光は、まだ林の奥までは届いていない。
彼は無意識に隣を見た――
けれど、そこに夏清の姿はなかった。
「……え?」
一瞬で上体を起こし、周囲を見渡す。
空っぽの景色。寝袋の跡が草に残っている。
けれど、すでに空になっていた。
昨夜の焚き火は灰になり、まだほのかに温かい。
冬陽は慌てて立ち上がり、辺りを探すが、あの男の影はどこにも見えなかった。
「……夢だったのかな?」
思わずつぶやく。
あの笑顔、あの琴の音――
白い花の記憶までもが、幻のように遠ざかっていく。
彼はしばらく立ち尽くし、どこへ向かえばいいのかもわからなかった。
寝袋を片付けようとしゃがみ込んだとき、
木の根元の石の下に、一枚の紙が折られて差し込まれているのに気づいた。
紙は風に揺れていた。
字は端正で、簡潔にこう書かれている:
霧が晴れたら、朝陽の昇る方へ進め。
一緒に歩きたいなら、前で待ってる。
――夏清
冬陽はしばし紙を見つめ、
やがて口元に笑みを浮かべた。
彼はバックパックを背負い直し、もう一度あの木の下を振り返る。
出会いの夜を胸に刻みながら、東の小道へと足を踏み出す。
陽が昇り、霧を透かして草原を照らす。
朝風がそっと頬を撫でる。
この先に何があるかはわからない。
けれど、あの人に追いつきたい――その思いだけが、足を前へと運ばせた。
草むらと緩やかな丘を越えてしばらく進むと、
遠くに山の輪郭が淡く現れ、
風に混じって野茴香の香りがした。
迷ってしまったかも――
そう思い始めた矢先、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
夏清が木の下に立ち、
手に持った小さな野の果実をナイフで静かに剥いている。
まるで、最初から彼が来ることを知っていたかのように。
「案外、早かったね。」
彼はそう言って、微笑んだ。
冬陽は少しむくれて、でも内心ではほっとしていた。
「……なんで起こしてくれなかったの? びっくりしたよ。」
「来たいかどうか、わからなかったから。」
「……もう、ほんと勝手。」
でも、その言葉とは裏腹に、笑みがこぼれてしまう。
夏清は剥いた果実の半分を差し出した。
「ほら。」
二人で道端に腰を下ろし、果実を食べた。
言葉は少なかったが、不思議と心が通じるような、
何か新しい糸が静かに編まれ始める感覚があった。
陽は高くなり、山道は遠くへと続いていく。
荷を整え、彼らは本当の意味で並んで歩き出した。
「この先、どこへ行くの?」冬陽が尋ねた。
夏清は少し考えてから、答える。
「風が止むところまで。」
それは、明確な終わりを持たない旅路。
けれど、その道こそが――
二人の心が目覚めていく、始まりの道だった。