忌み月が赤く染まる時
(……なんだ、これは)
俺の目の前に立つ“それ”は、もはや人の姿をしていなかった。
全身を覆う異様な体毛。獣のように突き出た鼻面。鋭く光る黒い眼球。その奥からは、低く唸るような音が漏れている。
まるで――化け物だ。
あり得ない。こんな存在、見たことも聞いたこともない。 俺がこれまで戦ってきたどんな相手とも違う。恐怖より先に、脳が現実を処理できず、思考が止まった。
もし、ヤマトにはこういう存在が普通にいるのだとしたら――。 そんなことを一瞬でも考えたが、すぐ隣で震えているキタラの表情がそれを否定する。 目を見開き、震える唇を噛み締める彼女。その顔には、明らかに「想定外」の恐怖が浮かんでいた。
つまり、これは――本当に“異常”なのだ。
咆哮が響いた。獣のそれに似た、耳を劈くような凶暴な咆哮。 化け物は地を蹴り、猛烈な勢いでこちらへと突っ込んでくる。鋭い爪が土を裂き、地面が抉れる。
(速い――!)
視界の端で奴の姿が揺れたかと思えば、次の瞬間には俺の懐に入り込んでいた。 空間ごと切り裂いて跳んできたかのような、異常な踏み込み。
だが――奇妙なことに、奴の剣筋は変わらなかった。
本能のまま暴れる野獣ではない。洗練された剣の型を、今もなお保っている。 化け物になっても、あくまで“訓練された戦士”として戦っているのだ。
(なら……まだ勝機はある。いや、あってくれ!)
俺は必死に動く体を制御し、剣を交わす。 一撃ごとに凄まじい衝撃が腕を通じて全身に響く。手が痺れ、指の感覚が消えていく。
だが、守るだけではいずれ斬られる。 防戦一方――いや、もはやただの耐久戦だ。 このままでは、剣が折れるか、俺の腕が先に潰される。
だが、ようやく頭の中が冴えてきた。 先ほどの衝撃でぼやけていた視界も、徐々に戻ってきた。
(考えろ、冷静に――勝つために、必要な情報だけを拾え)
化け物は、異常な跳躍力と腕力を持ち、動きも速い。 けれど、“俺を殺していない”。
本気で殺す気なら、すでに爪で首を裂いているはず。 それをしないのは、“生け捕りにしろ”という命令を守っているからだ。
つまり、まだ理性がある。知性がある。命令を判断し、行動している。 ならば――こちらにも“揺さぶる隙”がある!
「……っ!」
俺は奴の一撃をあえて真正面から受け止め、そのまま地面に倒れ込んだ。 仰向けになり、剣の切っ先を自らの喉元に突きつける。
(――来い)
俺を攻撃すれば、この剣が俺を貫く。 奴にはそれができないはずだ。命令を守っている限りは――!
案の定、化け物は攻撃を止めた。 俺の上に馬乗りになり、重い息を吐きながら、動きを止めている。
(……今だ!)
腰に差していた短剣を抜き、全力で奴の喉に突き立てる。 痺れた手の力を振り絞り、刃を押し込む。
「が、あああッ!!」
奴が叫ぶ。喉から赤黒い血が噴き出し、顔に降りかかる。 その隙を逃さず、俺は剣を手に取り、心臓目がけて突き立てた。
(死ね!)
全身の力を振り絞り、剣に体重をかける。 断末魔の叫びが森に響く。木々が揺れ、岩が砕ける。
暴れ狂う腕が俺の顔面を叩き飛ばし、視界が白く弾ける。 だが、それでも――俺は立ち上がった。
胸に突き刺さった剣を、もう一度深く押し込む。
「頼む、もう死んでくれ!」
その言葉と共に、化け物の動きが止まった。 全身を震わせた後、ついにその巨体は崩れ落ちた。動かない。
俺はその場に崩れ落ちた。
(……終わった)
全身が痛い。骨が折れているのは分かる。 だが、そんなことはどうでもよかった。
「なんだよ、あの化け物……」
呆然と呟いたその時、背後から声がした。
「知るか。俺が聞きたい」
振り向くと、キタラが立っていた。 知らぬ間に俺のそばに戻ってきていたようだ。
「……見てたか?」
「え?」
「仇は取ったぞ」
「……うん」
「あんな奴らを何百人殺しても、お前たちの命には足りない」
「……うん」
「この世は、本当に不公平だ」
「ほんとに……不公平だね」
懐から、菓子を取り出した。 サンとヨルシカのために用意していた、蜜入りの麦餅。
俺はそれを手渡した。
「食べよう...、二人で。」
キタラは一口かじり、噛み締めるように味わった。
「……美味しい。あの子たちにも、食べさせたかったな」
そして、彼女はぽつりと呟いた。
「私のお父さんね、ヒーノの里を攻めに行って死んだの」
「聞いた」
「でも……本当はね、途中で熊に襲われて死んだの」
「……そうなのか」
「ダサいよね、全然関係ないところで死んで。ヒーノと戦って死んだって思わないと……やってられなかったんだよ」
俺はふと、倒れた化け物の死骸を見た。
「……お前の父の仇、あいつにしよう」
「はあ?」
「見た目、熊っぽいだろ。今日は、お前の家族も、父の仇も全部討った。そういうことにしよう。」
一瞬の間の後、キタラは呆れたように笑った。
「……バカじゃないの?」
でも、俺も笑った。腹が痛いのに、止まらなかった。
「……ありがとう、シンワ」
空に浮かぶ忌み月が、どこか遠く、静かに燃えていた。
そのすぐ背後。
立っていた。――あの化け物が。
「……っ!?」
崩れたはずの胴体。だが、奴は立ち上がっていた。全身から血を滴らせながら。
視線が合う。黒く濁ったその目が、俺を見据えていた。
《赤い忌み月》
その瞬間、俺の脳裏に、空に浮かぶあの不吉な月がよぎった。
(――死ぬ)
だが、その瞬間。
化け物の胴が、真っ二つに裂けた。
上半身が飛び、下半身が崩れ落ちる。 その間に立つ男――ザガーロ。
彼は荒い息を吐き、俺の胸倉を乱暴につかみ、顔を近づけた。
「……あなたは、自分の立場を理解しているのか!!」
怒気というより、苛立ちと焦りが入り混じった声音だった。
けれど、俺の耳には、その言葉はまるで届いてこなかった。
死ぬ――そう思った。
あの瞬間、俺は死を受け入れていた。
それだけは絶対にあってはならない事だった。
(...俺は何をやっている!)
たまらなく、自分自身に腹が立った。
俺が学んできたのは、守るための剣だ。
けど、それじゃ足りない。このままじゃ、次は本当に終わる。
これから先に待つのは、人じゃない。化け物との戦いだ。
“化け物を殺せる剣”が、俺には必要だ。
俺はザガーロの手を力強く振り払った。
(くそっ、くそっ、くそっ……!)
俺は化け物の死骸を思いきり踏みつける。
「ザガーロ、剣を教えろ!」
息を切らして俺は叫ぶ。
「……は?」
「……敵は人じゃない。化け物だ。化け物を殺す剣を教えろ!!」
「……何を言ってる? 今はそんなことを――」
「毎日だ! これから毎日剣を、叩き込め!」
俺の声は震えていた。怒りや焦りのせいじゃない。
ただ真っ直ぐに、俺の中から湧き上がった想いだった。
ザガーロは、まるで正気を疑うような目で俺を見た。
それは、呆れと困惑が混じった、冷たい視線だった。
そして、誰にも届かぬほど小さな声で、ぽつりと呟く。
「……お前ではないのだ。」
その言葉が何を意味するのか、誰に向けられたものなのか――俺には分からない。
ただ、背を向けるその姿が、どこか遠く感じられた。
本格バトルでした。
臨場感が出ていると嬉しいです。