ROUND 6 織田信長 vs ナポレオン・ボナパルト⑤
「ナポレオーネ先輩! 出撃の準備が整いました!」
広い宮殿の玉座の間(La Salle du Trône)に、従者が転がるように駆け込んできた。
フォンテーヌブロー城(Château de Fontainebleau)。
元々は王の寝室があった場所を、ナポレオンが玉座に改装した。元々ナポレオンはコルシカ島生まれで、故郷がフランス領となる前は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテと呼ばれていた。
1769年8月15日生まれ、1821年5月5日没。
日本で言えば江戸時代、葛飾北斎が『富嶽三十六景』を描いた時期である。享年51歳。
玉座で肘を突いていたナポレオンは、セーラー服を翻し、弾かれるように立ち上がった。胸に『左向きの鷲』のバッヂを付けたこの少女の名は、エマ・デュポワ。2006年3月21日生まれ、2024年4月2日没。享年18歳。18歳の時セーヌ川に落ち、感染症にかかり帰らぬ人となった。
「相手は極東の……ノブナガ・オダとかいう輩です」
「よし! 今すぐ出撃するぞ、後輩!」
エマ・ナポレオンはすぐさま下知をとった。
「日本人か……」
生前、エマは日本の漫画(bande dessinée)が好きだった。フランスでは1990年代から空前のBDブームが巻き起こっていた。『ドラゴンボール』『ワンピース』『ナルト』『フェアリーテイル』……特に彼女が気に入ったのは、いわゆる『学園モノ』のBDに描かれる、日本特有の『先輩・後輩』という関係性だった。
外国には先輩・後輩の概念はない。歳の差によって武将の主従関係のような契りを結ぶのが、彼女にはとても新鮮だった。いつか私も、スカートの長いセーラー服を着て、竹刀を片手にKATIKOMIしてみたい……残念ながら生前彼女の願いが叶うことはなかったが、死神の大会に招待され、エマはとうとう憧れのSENPAIになれたのだった。
「織田信長なら識っている。『ドリフターズ』で読んだ」
「おぉ! これは心強い!」
「相手にとって不足なし。油断するなよ、先手必勝だ」
ナポレオンは従者に馬を用意させ、それから壁に飾られた、キラキラと輝く戦利品……『英雄バッヂ』を眺めた。
「フフ……今度の戦は、どの英雄と出撃するとしようか」
少しウェーブがかった、燃えるような赤い髪を掻き上げ、ナポレオンは笑みを浮かべた。壁一面に並べられたバッヂは、悠に十を超えている。26勝無敗3TKO勝ち。全て彼女が、大会の中で撃破してきた英雄たちだった。彼女はバッヂを回収すると、それから回廊を伝い、名誉の中庭(La Cour d’Honneur)へと向かった。
馬蹄形の階段(L’escalier en Fer-à-cheval)の下には、すでに鎧を身に纏った兵士たちが、所狭しと集まっていた。始まりの合図を今か今かと待ち侘びる、目を血走らせた数万人の漢たち。その全員の視線が華奢なセーラー服の少女に注がれている。ナポレオンは怯むことなく、サーベルを引き抜くと、切先を真っ直ぐ天に掲げて叫んだ。
「諸君! 我々は侵略戦争が好きだ!」
※念の為に注記しておくが、この発言は実際にナポレオンが遺した言葉である。
「フランス人は前進することを好む! 一つのところに留まって、防御体勢を取るのは好かぬ! 平和とは、降伏でもあり得ず、威嚇の結果でもあり得ない。平和とは勝利の産物である! この戦いを終えたら、故郷に帰り、諸君は人々から尊敬の念を持ってこう言われるであろう。『あの人は、昔日本との戦いに参加していたのよ』……と」
※この、「俺はあの時〇〇の戦いに参加していたんだぜ(と胸を張るが良い)」と言うフレーズは、『ナポレオン言行録』(岩波文庫)を読んでいると度々出てくる。彼が兵士を鼓舞する時に、好んで使ったフレーズらしい。
「命を大事にする者は去れ! 栄光と名誉を重んじる者は前へ出よ! フランスに栄光あれ!(Gloire à la France!)」
たちまち地割れのような大歓声が宮殿を包んだ。兵士たちは拳を天に掲げ、La Marseillaiseを歌いながら前進を始めた。一歩ごとに大地が揺れ、水面が戦慄き、野鳥の群れが祝福するかのように天空へと飛び立った。眼下に広がる壮大な眺めに、ナポレオンもまた武者震いした。
「お姉様」
「ローズ」
ふと後ろからか細い声がした。ナポレオンが振り向くと、彼女と同じ赤い髪を短く切り揃えた、顔のそっくりな少女が窓際に立ってこちらを覗き込んでいた。
「エマお姉様……」
「ローズ、ダメじゃないか。安全なところに隠れていないと」
「お姉様……また戦うの?」
「安心しろ。今回も私は必ず勝つ。私の辞書に『不可能』の文字はない」
「ナポレオーネ先輩!」
肩を寄せ合う2人の少女の間に、鎧を身に纏った従者が割って入った。
「先輩、どうやら敵は、まだバッヂを2つしか持っていないようですな」
「ふむ。では……」
ナポレオンがパッと妹の肩を離した。
「26将を全て出撃させよ」
「……たかが小鼠一匹狩るのに、ライオンの群れを解き放つのですか?」
「莫迦め。それを油断というのではないか。敵が少数だからと言って決して侮ってはならぬ」
「は……」
「名作は序幕から……面白い漫画は第一話から既に伝説なのだよ。フフフ……」
※ナポレオンは……と言うよりこの時代のフランス人は……悲劇を好み、彼は良く戦争を劇に例えた。ナポレオンは若い頃ジャン・ジャック・ルソーに多大なる影響を受け、何遍か小説も書いているが、残念ながら『非常につまらない』『お涙頂戴の感傷性』と酷評されている。彼が文人・詩人として大成していたら、あるいは歴史も、今とは違った形をしていたかもしれない。
「さすが先輩……しかし……」
「どうした後輩? まだ何か不安材料が?」
「信長という男は……私もWikipediaで調べましたが……日本人の中でも特に変わり者・傾奇者のようですな。果たして真っ当な手段で戦ってくるかどうか」
「奇策を用いるのは正攻法で戦えない者だよ。英雄は常に王道を往くものだ」
「おぉ!」
「それに……フフフ。こちらには例の武器もあるしな」
「さすがナポレオーネ先輩!」
ナポレオンは腰に手を当て、フフンと鼻を鳴らした。ロングスカートを翻し。従者とともに去っていく姉の背中を見つめながら、1人取り残されたローズが不安げに声を漏らした。
「お姉様……お願いだから、優しかったお姉様に戻って……」