ROUND 5 織田信長 vs ナポレオン・パナパルト④
見上げると、黒い豆粒が、遥か遠方から弧を描いて降ってきた。やがて豆粒はぐんぐんと近づいてきて、ボーリングの球ほどの大きさになった。球体は、少し離れた前方に落ちて、そして、
……次の瞬間、爆炎が青年の体を灼いた。
佐々信彦は、激しい爆風に晒され背中から地面に叩きつけられた。彼は織田軍の先陣として、今まさにフランス領に入らんとしているところだった。その刹那、敵の大砲に狙われたのである。
瞼の裏が橙色に焼き付いていた。ボヤけた水晶体が再びピントを合わせ、モノが見えるようになるまでしばらくかかった。
硫黄のような臭いが周囲に漂う。攻撃された。それは彼にも分かった。だが、何かがおかしい。何か……戦場にしては、やけに静かすぎる。悲鳴も、怒号も、発砲音も、何も聞こえなかった。
それもそのはず、彼の鼓膜は破れていたのである。
爆撃を受けた時には、たとえ直撃せずとも、爆風や衝撃波が襲う。その時、口を塞いでいると、鼓膜や眼球が破裂する危険性がある。なので、万が一貴方が今後ミサイル攻撃を受けたなら、少し間抜けに見えるかもしれないが、耳を塞ぎ目を閉じて、口は大きく開けておくことをおすすめする。
信彦は両の鼓膜と、それから左の眼球を破られていた。よろよろと起き上がり、唯一無事だった右の眼球で、何とか戦況を確認する。
澄んだ青空は、今や濛々と立ち込める黒煙に包まれていて、昼間だというのに周囲は薄暗かった。前方にいた仲間たちは、皆爆散していた。
目の前の地面が、隕石でも降ってきたかのように大きく抉れていた。その周りに、バケツをぶち撒けたかのように広がる血の赤と、その上に倒れ込む兵士たち。臍から下がなくなっている者、全身に破片が刺さり血を流している者、千切れた自分の右足を拾い、必死にくっつけようとする者……。
周囲には阿鼻叫喚の断末魔が響いていたが、あいにく……あるいは幸いにも、だろうか……彼には何も聞こえなかった。
鼻の奥がツンと痛かった。人が肉塊になると、独特のアンモニア臭がする。信彦はほとんど反射的に、踵を返し、今来た道を転げるように戻り始めた。何か考えがあっての行動ではなかった。ただ彼の頭は恐怖に支配されていた。
恐怖……動物としての本能。いつの間にか彼は悲鳴を上げていた。自分が叫んでいることすらしばらく気づけなかった。背後からも大勢の味方が押し寄せて来ていたが、そんなものはお構いなしに、彼は走って逃げ続けた。
空は今や、真っ黒に染まっていた。五月雨のように、パラパラと黒い豆粒が降ってくる。その度に地面が激しく揺れた。
余談だが、アメリカにはテロ攻撃などに遭遇した時の行動指針がある。
それが①『RUN』②『HIDE』そして③『FIGHT』である。
テロに遭ったら、まず第一に貴方がしなければならないのは①『RUN』逃げることである。
犯人に出くわす前に、とにかく出来るだけ現場から遠く離れる。
一体犯人は誰なのか。何故こんなことを、テロの目的は何なのか。
はっきり言って、そんなことは今どうでもいい。そりゃテロリストにも崇高な犯行理由があるのかもしれない。しかしだからと言って、貴方が訳のわかんねえ主義主張や、超個人的な怨恨に巻き込まれて死ぬ必要はない。今はただ何も考えず、ひたすら逃げるのだ。
信彦は逃げ続けた。逃げて、逃げて、後方の味方にぶつかりそうになりながらも逃げて、それから岩場の陰に飛び込んだ。茂みの奥で、全身を震わせながら、彼は何度か胃の中の物を戻した。
その横を、馬の大軍が走り抜けて行った。後から後から、味方の兵士たちが続々と戦場に駆けつけてくる。通勤ラッシュみたいだ、と信彦は何だか場違いなことを思った。これがただの通勤ラッシュだったら、どれほど良かったことか。人の波が押し寄せてきていた。これ以上は逆走できない。もはや逃げようがなかった。
では、もし逃げられない場合はどうするか?
②『HIDE』隠れることである。
鬼ごっこの次はかくれんぼだ。音を立てず、息を殺して。テロリストに見つからないように。訓練された優秀な兵士は、近くにいる者からではなく逃げる者、動く者から撃つ。銃を突きつけられたら、下手な抵抗しないこと。たとえ見つかって、銃を突きつけられたとしても、すぐに殺されるとも限らない。
相手は貴方を人質に取るだとか、あるいは何か質問したいだけなのかもしれない。ここで焦って妙な動きをしないことだ。安心してほしい。仮に相手に殺意がある場合は、貴方はとっくに撃たれて死んでいる。
崩れた岩場に背を預け、信彦はガタガタと震えていた。先ほどの光景がフラッシュバックし、再び喉の奥に胃液が迫り上がってきた。聞いてない。こんなことになるなんて聞いてない。自分が今まで見てきた映画やドラマは、戦国時代は、もっと血湧き肉躍る大活劇ではなかったか。涙なしでは語れない、熱い人間ドラマがあるのではなかったか。
それが、こんな呆気なく……感動的なBGMもない。いや、もしかしたら観客には聞こえているのかもしれないが、鼓膜の破れた彼には、もはや何の音も聞こえなかった。
全然違う。もっとこう、戦うことは勇敢なことだと思っていた。素晴らしいことだと、誇らしいことだと。実際の戦場には、名誉も栄光もあったもんじゃなかった。あるのはただ、肉塊になった友人と、飛び出した自分の眼球と。それでもまだ不幸中の幸いだったのは、彼は幽霊で、痛みがほとんどなかったことだろうか。
死神のゲーム……信彦自身はその参加者ではなかったが、死んであの世を彷徨っているところを、兵士役として集められた。
「大丈夫。痛みは感じないから。負けて死んでも、また元通り幽霊になるだけ。ゲーム感覚で戦争しようよ」
胡散臭い笑顔の死神にそう言われ、彼はつい話に乗ってしまった。確かに痛みは感じない。ただ、だからと言って、死の恐怖が消えたわけではなかった。
信彦は26歳で死んだ。過労による自殺だった。衝動的にビルの屋上から飛び降りた瞬間。地面に叩きつけられるまでの間、その間の恐怖と、頭蓋骨が粉々に砕かれる痛みを、彼はいまだに、死んでも忘れられなかった。幽霊になろうが、怖いものは怖い。
とはいえ、幽霊ライフもしばらく経つと、徐々に恐怖も薄らいできていた。もう働かなくていいと思うと、あの世もそんなに悪いところではないと思った。喉元過ぎれば何とやらで、悠久の時を持て余していた信彦は、性懲りも無く新しい刺激を求めていた。
子供の頃から歴史ドラマは良く見ていた。侍は何となくカッコいいと思っていたし、ここで名を上げたらもしかして自分が大将になっちゃうんじゃねーの? とか、そんな妄想も膨らまし、気軽に戦場に来てしまった。
それが間違いだった。
気がつくと彼はフランス兵に囲まれていた。
耳が聞こえなかったので気が付かなかったのだ。四方から銃を突きつけられているのに気づき、彼は右眼からポロポロと涙と、左眼からドロドロと硝子体を溢した。
さて。先ほど、銃を突きつけられたら決して抵抗しないこと、と述べた。では……あまり考えたくないことだが……相手が明らかに貴方を殺そうとしている場合は?
③『FIGHT』その時はもう、戦うしかない。
狙うなら首だ。
ペンでも、鍵でも、尖ってるものなら何でもいい。心臓や手足にも急所はあるが、まさか相手も裸ではあるまい。ましてや相手は武装したテロリスト。無理に刺しに行っても、恐らくほとんどは防護服に阻まれて上手く刺さらないだろう。
大体、心臓は肋骨で覆われているから、胸を真っ直ぐ刺してもほとんどは心臓に届かない。臍の上辺りから、刃を立てて上に向かって抉るのがプロの技だ。素人は致命傷を与えられないから何度も何度もメッタ刺しにするが、プロは一撃で殺す。
さらにナイフの達人になると、攻撃時に音はほとんどしない。道のすれ違いざま、首元をトンとやられても、貴方は恐らく、死ぬまで気が付かない。
余談が過ぎた。なので、比較的手薄な首を狙うのが一番効果的だ。あるいは目か。ここで注意してほしいのは、③『FIGHT』戦うのはあくまで最後の手段ということだ。
戦う以上は必ず勝たなくてはならない。
別に勇敢じゃなくても、誇らしくなくても良いから、どんな汚い手を使ってでも勝つこと。でなければ貴方は死ぬ。
一か八か、信彦は叫び声を上げ、手にした刀で目の前の兵士に斬りかかった。その瞬間、彼の体に合計8発の鉛玉が撃ち込まれ。彼は呆気なく絶命した。その間、ほとんど1秒も経っていなかった。
それで、終わりである。
涙を誘う荘厳なBGMも、空から迎えにくる天使もない。死んだ。血と火薬の臭いが、死臭が周囲に漂っていた。何も彼だけではない。兵士のほとんどが、そうやって、誰にも看取られることなくただ死んでいった。
「どうやら我が軍が押しているようですな」
ナポレオンの隣で、老齢の騎馬兵がニンマリと笑った。
ナポレオンと呼ばれた少女は、白馬の上で燃えるような赤い髪を靡かせ、ゆっくりと頷いた。
その数時間前……。