ROUND 38 少女地獄
せっかくなので秦の始皇帝にまつわる話もいくつか。
始皇帝は33歳の時、暗殺未遂に襲われている。襲ったのは隣国・燕の刺客、荊軻である。大国・秦ならではの弱点を突かれた形になった。秦の法律では、
『王に見える時は誰も武器を所持してはならない』、
『許可なく王に近づいてはならない』、
などとされていた。なのでこうした暗殺未遂が起きた時、近くに護衛すらいなかったのである。
この暗殺未遂事件。司馬遷の『史記』では、国のため、人のために命を賭した荊軻を『正義』と讃え主人公として描いているが、同時期に書かれた劉向の『戦国策』では、燕と趙と秦、並び立った三国外交政策の失敗として、国を滅ぼした軽率な行動だったと諌めている。
というのもこの時代、『暗殺』は何も殺害のみが目的ではなく、歴とした外交手段だった。弱い立場の者が、強い立場の者を暗殺行為を持って威嚇し、土地を奪い返すなどの約束を取り付けることは慣例として許されていた。一旦約束をしたら、強者はそれを守らなければならない。約束を破ることに慣れた現代人には一寸理解が出来ないかも知れないが、弱肉強食・戦国時代ならではの論理がそこにはあった。
もう一つ。
五十歩百歩と云う、日本にも伝わる故事がある。これは孟子が魏の恵王に語ったもので、戦場で50歩逃げた者が、100歩逃げた者を笑ったところで、どちらも逃げたことには変わりない……と云う意味である。
ところが秦の時代はそうではなかった。現実に逃げた歩数の違いで刑罰が変わっていたのである。史料ではしっかり歩数が計測されていた。なので秦に時間旅行する時は、万歩計は持っていかない方が無難だろう。こうして進軍と後退に厳格なルールを課した始皇帝は、周辺六国王を滅ぼし、39歳にして初めて中国を統一した。
※
「どうする? この子……」
壁の端では、ガスを吸い込んだ幼女がスヤスヤと眠りについている。こうして見るとただの幼い女児に過ぎない。自分より年下の『敵』を眺めながら、ローズが尋ねた。
「連れて行く? 人質になるかしら……?」
「いや……」
花凛は頭を振った。脳裏には、先ほどのハンムラビ王の末路がチラつく。
「……此処に置いて行こう。人質を取ったつもりが、逆に相手の手駒を増やすことに成りかねん」
「それも……そうね」
「どうした?」
「いえ……」
ローズはふるふると首を振って立ち上がった。
「こんな小さい子でも、大会に参加してるのね……」
「……私からしたら、ローズも十分幼いが」
「でも……」
「分かってる。とにかくこれ以上犠牲を出さないよう、一刻も早くこの大会を終わらせなくてはならない!」
「アンタたちさぁ……私の扱い、だんだんヒドくなってってない?」
ようやく肉片から再生した小麦が、仲間たちを遠巻きに、不信感を露わにして吐き出した。
倒した始皇帝の『バッヂ』を回収し、彼女が遺した魔法の蝋燭を拝借して、少女たちは地下迷宮の先を急いだ。余談だが、始皇帝陵の中は、
『水銀で永遠の海を作り、人魚の膏を灯りとし、いつまでも火が消えることのないようにした』
と云う。実際にトルクメニスタンの『地獄の門』など、現在も地下で燃え続ける『消えない火』と云うのは実在しているので、あながち与太話とも言い切れない。
少女たちが通路を進むと、やがて完全な闇が迫ってきた。
もはやお互いの背中すら見えず、ただ宙空に、魔法の蝋燭がぽつんと4つ、揺らめくのみである。夜目が効く効かないの話ではない。墨汁の中に飛び込んだような黒の世界は、骨の髄まで凍えるような寒さだった。これが霊気と云う奴だろうか? 空気の手が皮膚を貫通し、頭の中、体の芯を直接掴まれているような冷たさ……といっても何処にも逃げ場はなく、とにかく前に進むしかない。立ち止まったら、その場で凍りついてしまいそうだった。
「……危ない!」
最初に気づいたのは飛鳥だった。突如前方から、迷宮の奥から何かが、こちらへと駆けてくる風切り音がする。それと、獣のような唸り声が。姿は見えない。が、間合いに入った時には、花凛はすでに『正宗』を抜いていた。
「破ッ!」
刹那、黒一色の世界に白銀の二枚刃が、可憐な花びらのように煌めきを放つ。花凛の二刀流が炸裂した。一瞬間を置いて、斬られた相手の断末魔の叫びが通路を揺るがし、やがて生暖かい返り血が、滝のように少女たちの頭上に降り注いだ。時間にしてほんの数秒、瞬きの間の出来事だった。あまりの早技に、小麦などは、全てが終わるまで何が起きたのかさっぱり把握できていなかった。ゴトリ、と鈍い音がして、獣の首が足元に転がる。
「何こいつ……?」
「さぁ……? 狼のような、烏のような……」
蝋燭を近づけ、真っ二つになった屍体をしげしげと眺めながら、飛鳥たちは首を捻った。突如4人を襲った襲撃者は、悪趣味なSF映画に出てきそうな、何とも奇妙な造形をしていた。
少なくとも動物園にはいそうにない。体はライオンのように大きい。もしあのまま襲われていれば、今頃四肢がバラバラになっていたのは飛鳥たちの方だっただろう。花凛は襲撃者の姿に何となく見覚えがあった。担当の死神・泥梨葬太が連れていた『スプラッ太』に似ている。だとすればこの生き物は、地獄からの使者だとでも云うのだろうか……?
「……とにかく先を急ごう」
屍体はやがてシュウシュウと音を立て、切断した部位から黒い煙が上がり始めていた。奇怪な死骸から目を逸らし、漂う腐臭から逃げるように、4人は足早にそこを立ち去った。
次第に誰もが無言になった。道は緩やかに、下へ下へと続いている。ただ坂道を下る息遣いが、小刻みに耳を震わせるだけになった。悴んだ体を少しでも温めるべく、逸れないよう互いに身を寄せ合いながら、少女たちは必死に足を動かした。
もはや今、どの辺りまで潜ったのかも分からない。もしかしたらこのまま、永遠に終わりは来ないのかも……そんな思いが少女たちの頭を掠めた時、ようやく視界が開けた。
「わ……!」
「何だ? ここは……!?」
花凛たちが息を呑んだ。闇を潜り抜けたその先には、何とも場違いな光景が広がっていた。空に浮かぶ太陽、そよ風に揺らめく新緑の木々。足元を彩る七色の野花。木漏れ日の合間を、小鳥たちが戯れあっている。
「夢……?」
小麦がぽかんと口を開けた。まるで白昼夢でも見ているかのようだった。そこは、森の中だった。先ほどまでとは打って変わって、穏やかな空間がそこに広がっている。一体何故地下の奥深くに太陽が昇っているのか。誰にも分からない。
此処は地獄の一丁目一番地、何が起きても可笑しくはないが、何だか肩透かしにあった気分だった。ともかく体の芯まで纏わりついていた霊気から解放されて、4人は思わず安堵のため息をついた。
「気をつけろよ……」
花凛が慌てて、鋭く周囲に目を光らせた。自分たちを油断させる、敵の罠とも限らない。少女たちは警戒しつつ、慎重に暖かい森の中を進んだ。森の中央に、小さな黒い丸太小屋があった。庭にはテーブルやハンモックが並んでいる。そばに広がる小さな湖畔には、蓮の花びらが浮いていた。
「あら。ごきげんよう」
不意に扉が開き、小屋の中から人影が現れた。
「ひ……!?」
「ヴィクトリア……!」
花凛たちは慌てて身構えた。黒づくめの少女は、慌てることなく、淹れたての紅茶を片手に4人を眺め回して優雅な笑みを浮かべた。屋根の上に留まった烏がそんな少女たちを見下ろし、面白そうに哭き声を上げる。
「ようこそ。私の地獄へ」
黒髪の少女は木製の椅子に腰掛けると、白い煙の漂うカップに口を付け、美味しそうに頬を緩ませた。いざ大将を暗殺せんと、血気盛んに乗り込んできた花凛たちも、これには拍子抜けだった。
目の前でヴィクトリアがくつろいでいる。周囲には誰もいない。標的は暗殺者を前に武器を構えることすらなく、丸腰だった。果たして余裕の現れなのか、此処が地獄とは……? 不思議と、柄を握る手にいつの間にか汗が滲んでいることに、花凛は気がついた。
「そう……此処まで来れたってことは、あの子……始皇帝は失敗したのね?」
「…………」
「それで……何の用?」
「…………」
「ヴィクトリア……貴様を殺しに来た」
青い空、白い雲。花は風と共に踊り、小鳥たちが楽しそうに唄う。とても殺しに来た、なんて言える雰囲気ではなかったが、異常な状況に流されてはいけない。先頭に立っていた花凛が、努めて威厳のある声を出そうと顔を引き締めた。
「貴様が宇喜多姉妹を……彼女たちの魂を引き裂こうとしているのは良く分かった。この仕組まれた戦いに、我々は毒を持って毒を制し、終止符を打つ!」
「……そう」
殺意を受け取ったヴィクトリアは、だが、身じろぎ一つしなかった。カップをテーブルに置き、微笑を崩さずに、
「私も見くびられたものね……」
小さくため息をついた。その途端、周囲の空気がズズズ……! と、奇妙にねじ曲がっていく。花凛たちは思わず後ずさった。
たちまち黒い、怨念を具現化したような得体の知れない質感が、ヴィクトリアの背後に立ち込める。辺りが徐々に暗く、黒く染まっていく。ローズが小さく悲鳴を上げた。
「わざわざ盤外戦を挑まれるなんて……教えてあげましょうか? どうして戦争にルールが出来たのか……」
「……ッ!」
「死神のような悪役はね」
決闘指環がきらりと光る。そして、地獄が幕を開けた。
「無法地帯の方が強いのよ」




