ROUND 30 Oxygen Destroyer
風が吹いていた。
湖陸風が、琵琶湖の方からさらさらと。信長の時代、安土地方は三方を琵琶湖の内湖に囲まれていた。それで安土城は、『湖上に浮かぶ城』と呼ばれていたのである。安土城と、古代メソポタミアを半々にした架空の戦場で、東禅寺飛鳥とハンムラビ王が向かい合っていた。
「う……うぉおおおおおっ!」
両手に刀を持った飛鳥が、鬼気迫る表情で王の巨体に突っ込んでいく。ハンムラビ王は冷静に、飛鳥の頭上にガベルを振り下ろした。ガベル……裁判やオークション等で使われる、コーン! と音を鳴らす木槌である。
しかし、大きさはその比ではない。
長さは大太刀ほどもあり、王の背丈と負けず劣らず、見た目はまるで巨大なハンマーであった。こんなもので頭を叩かれたら、たとえヒグマだって一撃で昇天してしまうだろう。
「ひ……ッ!?」
片手に法典、片手に木槌を持った王が、軽々と武器を振り回す。飛鳥が急停止して、辛うじて最初の攻撃を避けた。勢い良く振り下ろされた槌は、飛鳥の足元を抉り、岩に激突した波飛沫のように土埃を巻き上げた。
「ワハハハハーッ!」
間髪を容れず、王がぐるりと体を拗らせ、今度はアッパースィングでガベルを下から振り上げた。見た目に寄らず中々素早い身のこなしである。こればかりは飛鳥も避けきれなかった。全身を強打された少年が、ホームランボールのように高々と空に舞い上がる。
「ぐあ……!」
「オゥ……何じゃ、それは?」
上空を見上げたハンムラビ王が、不思議そうに首を傾げた。
これは一体どういうことだろう? 打ち上げられた飛鳥が、まるで鳥のようにふわりと宙に浮いているではないか。よくよく見ると、飛鳥の足元が、ローズから手渡された靴が黄金に輝いている。正体は、『第一部』に出てきた黄金の翼を持つ魔法の靴・タラリアであった。
ギリシア神話の伝令の神・ヘルメスが履いていた靴で、飛鳥は空を飛んでいた。攻撃が当たる瞬間、ギリギリのタイミングで宙に身を投げ出していた彼は、辛うじて致命傷を避けていた。そのまま空中で体勢を立て直した飛鳥が、2本の『正宗』を構えて、風を切りながら急降下してくる。ハンムラビ王は、
「それで……?」
「う……!」
「その逃げ足の速い靴で、一体何をしようと云うのだ? 小僧」
動じず、ニヤリと嗤った。仁王立ちで、刀を避けようともしない。それもそのはず、『ハンムラビ法典』を手にした王は、あらゆる攻撃を【反射】できるのだった。
「さぁ! 思う存分敵を攻撃するが善いッ! 全ては自分に還って来るッ!」
「う……うぁあっ!」
飛鳥が刀を振り切った。迷いを残した斬撃が、『正宗』の切先が王の頬を撫でる。途端に飛鳥の頬が血飛沫を上げた。
「ウワハハハハーッ! 日和ったな、小僧! じゃが、おかげで命拾いしたようじゃないか」
「う、うぅ……!?」
王が豪快に嗤う。木槌に当たらないよう、飛鳥が慌てて距離を取った。
「お前の攻撃はお前の傷! ワシの攻撃もお前の傷!」
「そんなぁ……!」
今度は、正面から斬りつけると見せかけて、まるで瞬間移動のように光速で背後に回る。王は目で追えていなかっただろう。だが、それでも王の優位は動かなかった。
「無駄じゃ……ワシの『法典』は、全自動で【反射】する。たとえどんな不意打ちだろうとも……な!」
「く……っ!」
今度もまた、背中に傷を追ったのは、王ではなく、やはり飛鳥の方だった。肩越しに、不敵な笑みを浮かべる王と目が合って、飛鳥は慌ててその場を飛び去った。
その後も、タラリアを駆使してありとあらゆる方向から攻撃を仕掛けるも、法典の制定者にダメージが入ることはなかった。むしろ攻撃すればするほど、痛みは一方的に飛鳥に蓄積されて行く。まるでお釈迦さまの掌の中を飛び回る孫悟空のようだ。手をあぐねた少年が、宙空で大量の血と汗を拭った。
「はぁ……はぁ……っ!」
「……どうした? もう来ないのか?」
「はぁ、はぁ……っ!」
「来ないのなら……こちらから行くぞ!」
ハンムラビ王が木槌を振り上げ、不気味な笑みを浮かべた。
※
『何という無慈悲! これが王、これが”法の支配”ッ! 攻撃が全て跳ね返される、果たして飛鳥選手に成す術はあるのかーッ!?』
「飛鳥……後生だ……!」
大歓声の中、画面を食い入るように見つめながら、花凛が歯噛みした。
「降伏してくれ……その男なら私が倒すから! 頼むから危険な真似はよせ、飛鳥!」
「何で『武器』2つ持ってんだよ!」
舞は舞で、自分のことは棚に上げてギャアギャア難癖をつけ始めた。
「あの『本』と、『ハンマー』で2つだろ! 聞いてねぇぞ!」
「あら。そっちもやってることじゃない」
向かい側からヴィクトリアが冷静に返した。
「『参加者の人数分、武器の持ち込みが可能』……貴女たちが言い出したことよ。そう、たとえばこんな風に……」
そういうと、ヴィクトリアは胸ポケットから新たな『英雄バッヂ』を取り出した。そして、そのまま赤コーナーへ、舞たちの元へと歩み寄って来る。花凛が思わず身構えた。
「……何をする気だ? 非武装地帯での戦闘行為は禁止だぞ……」
「そう……裏を返せば……貴女たちは今から私がすることを、力づくで止めることはできない」
「……?」
ヴィクトリアは意味深な笑みを浮かべたまま、ふと足元を見下ろした。
「あら……フフ。可愛い犬ちゃんね」
そういうと、彼女は膝を曲げ、飛鳥の愛犬・タロに手を伸ばした。小さな柴犬は、初めは不思議そうな顔をしていたものの、やがて素直に撫でられるがままになった。ヴィクトリアは愛らしそうに目を細め、
「そう言えばこの犬も……『武器』として登録されてるんだってねぇ?」
「な……!?」
「貴様……何をしている!?」
そして突然、『英雄バッヂ』をタロの首輪に付けた。
「『斎藤義龍』よ」
「ウゥ……ガゥ!」
舞たちは驚いた。たちまちタロが唸り声を上げ、背中の毛を逆立て始めたではないか。
「道山を殺した男……生きている限り、人は皆『歴史』を背負い続ける」
「タロ……!?」
「何だ!? どうなってる!?」
ヴィクトリアが立ち上がり、可笑しそうに笑みを浮かべた。
「誰も『業』からは逃れられない」
※
「やめろーっ!」
「散々逃げ回りおって、これでようやく観念する気になったか、小僧」
湖陸風が強くなってきた。安土城の麓で。飛鳥とハンムラビ王の攻防は、幕を閉じようとしていた。王の手には、先ほど自軍から転送されてきた新たな『武器』……飛鳥の愛犬・タロが握られていた。
「やめろ……タロに手を出すな!」
空中から、飛鳥が悲痛な顔をして叫んだ。
「タロ……タロ! 僕だよ、飛鳥だよ! どうして返事してくれないの……!?」
「ガルルルル……!」
だが、『英雄バッヂ』に精神を支配された愛犬に、今の飛鳥の言葉は届かない。目が血走っている。タロは敵意を隠しもせず、飼い主に牙を剥いた。首輪を手にしたハンムラビ王が、勝ち誇った顔で嗤った。何も知らない柴犬の頭上で、ゆらゆらとガベルを揺らしながら。
「ワハハ! この犬っころのドタマをかち割られたくなかったら、さっさと降りて来い!」
「うぅ……!」
肩を落とした飛鳥が、よろよろと王の足元に降り立つ。勝負あり。人質……いや犬質を取られた飛鳥は、あえなく2本の『正宗』を足元に放り出した。王が近づき、覆い被さるように飛鳥を見下ろすと、やがてゆっくりと巨大な木槌を振り被った。
「フン……やれやれ、やはり威勢が良いのは最初だけだったな」
「…………」
「このワシに勝てるとでも思っていたのか?」
「……ない」
「ん?」
「違う! 勝てると思ってたから、戦ってたんじゃないっ!」
飛鳥の叫びに、王は半ば呆れ気味に顔を困らせた。
「……ますます分からんな。『負けると分かっていても戦わねばならぬ時がある』とか云う奴か? やはり貴様らは異常だ」
「う……!」
「良いか小僧、戦争とは! 『勝つ』ためにやるものだッ! 負けると分かっていて戦う莫迦が何処にいる。『勝利』のために綿密な戦略を練り、事前に入念な準備を行い! 真の強者は、良いか真の強者は! 若さや勢いなんかに、ましてや気合いや根性なんてあやふやなものに頼ったりしないッ!」
巨大な木槌が、少年めがけて容赦無く振り下ろされた。
「貴様はッ! 戦う前から敗北する運命にあったんだよ小僧ぉーッ! 貴様らの仲間も……あの赤髪の小娘もッ、全員皆殺しにしてやるからなァーッ!」
「……ッ」
ガベルが飛鳥の頭蓋骨を砕く、その瞬間……飛鳥は靴を加速させ、まるで瞬間移動のように、大老の背後に回った。槌はそのままの勢いで地面を抉り……
「……むぅ!?」
……やがて激しい音を立て、足元が崩れ落ちた。
下は、湖になっていた。
先日の、アレクサンドロス大王との戦いで、舞がひたすら掘り続けた穴である。落とし穴になったこの場所に、飛鳥は密かに敵を誘導していた。『勝利』のために綿密な戦略を練り。
「む……がはっ!」
ハンムラビ王が、勢い余って顔から琵琶湖に突っ込む。飛鳥は、再び瞬間移動を行い、湖畔に隠しておいた『酸素ボンベ』を掴むと、目にも止まらぬ速さで王の目の前まで戻ってきた。
そのまま、『酸素ボンベ』をハンムラビ王の口元に押し当てる。そして、一気に酸素を放出した。
「……!?」
水中で、たちまち王が肺から大量の酸素を吐き出し、周囲が泡に包まれた。
【反射】。
全ての攻撃を全自動で跳ね返す王の『能力』……傷付けるでも、奪うでもなく、与える攻撃によって、王は反射的に酸素を吐き出さざるを得なかった。
※水泳やダイビングを経験した者なら分かると思うが……人は酸素を吸うと、肺が浮袋になって浮力が生じる。逆に息を吐き出すと沈んで行く。
「……!」
ハンムラビ王は驚いたように目を見開いた。王の巨体が、グングンと琵琶湖の底に向かって沈み始める。回遊中のフナたちが、慌ててその場を離れて行った。事前に入念な準備を行い。『息を吸う』という生理現象を、攻撃に見立てたのである。
空中戦から、今度は水中戦へ。
白く輝く水面の下で、飛鳥と王が睨み合った。
下へ、下へ。頭上では、同じく湖に落ちたタロが必死に犬かきで岸を目指していた。余談ではあるが、犬も、訓練すると水深5mほどは潜れるようになるらしい。下へ、下へ、下へ……。
さて、世界記録は24分3秒である。普通の人は、計算上15分も息を止めていると、窒息で死ぬことになる。とはいえ、実際は持って2分弱が限度だろう。よほどトレーニングを積んでいない限り、息を止めると、酸素の足りなくなった脳が『化学受容器反射』で呼吸を促す。
それは、たとえ王であっても。
どんな歴史上の人物だろうと、呼吸をしなかった者は恐らくいないと思われる。
たまらず王が『法典』を手放した。『能力』を解除し、酸素を求め大きく息を吸う。その瞬間を狙って。飛鳥が、迷わず『正宗』を王の胸に突き立てた。たちまち周囲が赤く染まる。沈む。敗者が沈んで行く。水中に漂う己の血煙を、沈み行くハンムラビ王が、信じられないものを見るような目で見つめていた……。
「……ぷはぁっ!」
瞬間移動で岸に上がってきた飛鳥は、たまらず倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁーっ……!」
息が。酸素が吸えるって、何て有難いことなんだろう!
大の字になって、激しく呼吸を続けていると、やがてタロが顔を覗き込んで来た。飛鳥が首輪に嵌められた『英雄バッヂ』を毟り取ると、たちまち愛犬は我に返った。
「くぅ〜ん……?」
「はは……」
不思議そうに小首を傾げるタロの頭を撫でながら、飛鳥は苦笑した。
「はぁ、はぁ……『英雄』なんてもうこりごり! ……だけど」
「わん?」
ほんのりと赤く染まった琵琶湖を見つめ、飛鳥が愛犬に尋ねた。
「だけど……僕さっき、ちょっとカッコ良かったよね?」




