ROUND 9 織田信長 vs ナポレオン・ボナパルト⑧
「撃ち方やめぇッ!」
砲兵隊が粗方撃ち終わるのを見計らって、ナポレオンは小高い丘の上から声を張り上げた。先手必勝。ナポレオンの対織田信長戦法は、まず大砲を撃ち込んで敵を混乱させ、怯んだところに歩兵が突撃する……と言う、割と王道なものだった。
「進めッ! 全軍進めぇッ!」
それから彼女は引き連れた1万の兵士を、迷わず全て投入し、中央突破を図った。
※
『軍学とは与えられた諸地点にどれくらいの兵力を投入するかを計算することである』
これはナポレオンが遺した言葉である。計算。子供の頃からナポレオンは数学が得意だった。
『数の優勢な方の部隊にこそ勝利は保証されている』
『成功率が60%以上でなければ戦闘を交えるべきではない』
『軍学はまずあらゆるチャンスをよく計算し、次に、偶然というものを、ほとんど数学的に、正確に考慮に入れることに在る。この後の点についてこそは誤りを犯してはならない、そしてここでは小数点以下の数が一つ多いか少ないかによっても一切がガラリと変わらないとは限らない』
現代でも、戦争のみならず、社会のあらゆる面でデータ重視の傾向は強いが、ナポレオンはその走りだと言えるだろう。
彼の部下・レドレルは、宮殿で初めてナポレオンに会った時、皇帝にまで上り詰めた男の、そのあまりの陰気さに驚いたという。ナポレオン曰く、
『軍事計画を立てる時の私以上に小胆な人間はいないだろう』
『私はその場合に起こりかねないあらゆる危険、あらゆる災禍を誇張して考え、全く苦しい動揺の状態にあるのだ』
『私がいつもすべてのことに応え、すべてのことに立ち向かおうと待ち構えているように見えるのは、何かを企てる前に、長いあいだ瞑想し、起こるかもしれないことを予見しているからだ』
……と語っている。つまり彼は戦う前に常に最悪の事態を想定し、作戦計画を練っていた。
『そして決心がつくと、すべてを忘れ、どうしたらその決心を成功させることができるかということ以外は考えない』
物量と速度。
ナポレオンの戦い方は、比べて見るとなるほど織田信長と似ている。信長もまた、鉄砲隊を組織し、「一騎駆け(戦場に早く到着するために、全軍の準備が整わなくても大将が先頭に立って飛び出すこと)」を得意としていた。常に敵領地との間合いを図っておき、最短距離で最速で移動する訓練をしていた。
越前国(現・福井県)の戦国武将・朝倉宗滴は、武者としての心得や従軍体験談を83条に渡って遺した。その中に、第16条『大将としての心構え』がある。
掻い摘んで説明すると
『大将は前にいろ。後ろにいたら兵も自然と後ろに集まり、終いには我先に逃げ出してしまう』
と言う内容だ。この時代の武将の考え方はこうであった。
ナポレオンもまた信長と同じく、常に前線にいた人だった。
『雲行きが怪しくなったら、私は一番の激戦区に駆けつける』
だからこそ人々が着いて来たとも言える。ナポレオンが軍に入った頃、フランスは内乱状態にあり、正直ろくな軍人がいなかった。絵描きや医者が軍を指揮していたほどである。
さらにその当時は金で地位が買えた時代(売官制)で、軍の指揮官という「権力」も何処かのブルジョワ貴族が買うだけ買って、でも前線には出てこない……という有様だった。
こんな惨状だったから、学生時代から兵法を読み漁っていたナポレオンはすぐさま頭角を表し、26歳の若さでイタリア方面軍の最高司令官に上り詰めた。常に先陣を切るナポレオンの背中を見て、フランス兵たちは勇気付けられたのである。
時代を越えた、似た者同士の戦い。だが戦局は、徐々に形を変えつつあった。
※
「どうやら我が軍が押しているようですな」
ナポレオンの隣で、老齢の騎馬兵がニンマリと笑った。
ナポレオンと呼ばれた少女は、白馬の上で燃えるような赤い髪を靡かせ、ゆっくりと頷いた。
「敵の数が少ないな」
「そうですな。ざっと……2000といったところでしょうか」
小高い丘の上で。いつものように前線に立ち、エマ=ナポレオンが目を細めた。
「見ろ。奴らが引いていくぞ」
ナポレオンの言った通りだった。織田軍が徐々に後退し始めている。
「これをどう見る?」
「ふむ。少ない先兵……あれはただの陽動か、囮でしょう。ああやって下がっていき、我々を誘っている。残りの兵士が後ろで待ち構えておるか、籠城戦に持ち込むつもりなのか」
「『ウルムの会戦』か、『カンナエの戦い』といったところか」
※『ウルムの会戦』とは、ナポレオンがオーストリア軍を破った戦いである。敵の進軍ルートに陽動部隊を送り、かつ撤退先のミュンヘンにも部隊を送り背後から包囲した。てっきりナポレオンが別方向から進軍してくると信じきっていたオーストリア軍は、瞬く間にパニック状態に陥った。後にナポレオンは手紙で妻に「行軍するだけでオーストリア軍を打ち破った」と自慢げに語った。
※『カンナエの戦い』は、こちらはカルタゴの名将・ハンニバルがローマ軍を粉砕した時の戦いである。カンナエの要塞付近で、ハンニバルは最も弱い兵士を中央に、強い兵士を両翼に置くと言う珍しい布陣を取った。ローマ軍が攻撃しカルタゴ軍が中央から後退していくと、それに合わせて屈強な兵士たちが左右から回り込み、囲ってしまった。
日本で云うところの鶴翼の陣だろうか。前進してくる敵をV字型に開いた両翼で包囲してしまおう、と云う陣形である。後方を突かれたローマ兵は混乱し、逃げることもできずに殲滅した。
対抗策としては、自軍も左右に展開させ相手の翼が広がるのを阻止するか、一点集中攻撃して中央突破してしまう、などがある。要は側面の防御力を高めれば良いわけで、わざと後方を手厚くしたり、斜め後ろに下がって迎え撃つ戦法なども後に考案された。果たしてナポレオンの下知は、
「『董卓』」
馬上で、ナポレオンが紺のジャケットをふわりと広げた。裏側に煌めくバッヂの数々は、全て彼が今大会で倒してきた歴戦の英雄たちだった。
「『イサベル』。『ゼノビア』。『エパミノンダス』。『平将門』。『李牧』。『シャカ・ズールー』。『キュロス二世』。『スレイマン一世』。『エカチュリーナ二世』」
ナポレオンの呼びかけに応じ、英雄たちがまるで10連ガチャのように呼ばれて飛びててジャジャジャジャーン! した。10人の英傑たちは、久しぶりに陽の光を浴び、眩しそうに目を細めた。
「お前たちは後方へ回れ。敵が左右から迂回してこないか、来るようだったら迎撃しろ。存分に暴れて来い」
「うぃ〜っす!」
「我々はどうしましょうか」
「決まってる。中央突破だ」
颯爽と駆けて行く十傑を見送りながら、ナポレオンが不敵に嗤った。
「戦いは数だよ。彼らを除いても、我々にはまだ16もの英雄たちがついている。このまま押し潰してやるさ」
「御意」
「行くぞッ! 私に着いて来いッ!」
言うが早いが、ナポレオンは馬を走らせ、黒煙の立ち込める戦場へと突っ込んで行った。約1万の兵士が、雄叫びを上げて後に続く。激しい地鳴りが、漢たちの熱気が、遠く離れた地からでも分かるほど、大気を震わせた。
似た者同士の戦い。信長は子供の頃から中国古典の兵学・史学に励み、ナポレオンもまた孫子の『兵法』を愛読書にしていたと言われている。だからこそ互いの手が読めていた。
だが戦局は、徐々に形を変えつつあった。
『戦乱の昇竜』織田信長と『荒野の獅子』ナポレオン・ボナパルト。
2人の違いを挙げるとすれば、それは……。




