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目が覚めたらまだ誰も起きていなかった。起こしてしまわないようにゆっくりと馬車から降りる。空はまだ白んでいて空気はひんやりと冷たく澄んでいて、大きく息を吸うと気分がいい。焚き火の火はもう消えていて枝は灰になって崩れている。近くから水の音がしてきたので、そちらに行ってみる。茂みを歩くとすぐに拓けて、そこには小さな川が流れていた。ヴィオラを出たときから飲み水しか水がなかったので、川の水を手ですくって顔を洗い髪を軽く流す。タオルは持ってきていないので髪の水気が切れるのを待って馬車に戻ることにした。
待ってる間に川を眺めていたら後ろの茂みからがさがさという音がした。3人の誰かかと思って後ろを見ると、そこにいたのは誰でもなく2匹の狼だった。狼はこちらの様子を伺うように見ていてじりじりと俺のことを水際に追い込んでいく。俺の後ろにはもう川しかなく、逃げるには水に入って向こう岸に行くしかない。しかし、水に足を取られながら逃げたところで狼から逃げられるかわからない。俺はここで死ぬのか。
そう思ったときに、狼の後ろの茂みからがさがさと音がした。狼が後ろを見て、俺も今度は何かとそちらを見る。茂みの中からはドラウグが枝や草かき分けながら出てきた。ドラウグは狼を見ると、手に持っていた剣を狼の頭上に振り下ろし狼は地面に倒れた。それを見たもう一匹の狼は後ずさってドラウグに向かって喉を鳴らして威嚇している。ドラウグはそんなことなど気にせず狼の方に近づいて剣を振り上げて狼の頭めがけて振り下ろしたが、今度は狼が横に跳んで避けたので当たらなかったが、ドラウグは剣をそのまま狼が避けた先に振り払ったため、狼は吹き飛んで動かなくなった。
「大丈夫か?」
ドラウグは剣に付いた血を拭きながら聞いた。
「はい、ありがとうございます」
「いやあ、危なかったな。起きたらあんたがいなかったから水浴びでもしてんのかと思って来てみたがまさか狼に襲われてるとはな、剣を持っといてよかったよ」
「この辺りはよく狼がいるんですか?」
「まあ、多いわけではないが割とどこにでもいるな。だから寝るときには焚き火を消さずに獣除けにするんだと」
なるほど、確かにこの2日とも寝るときに焚き火は燃えたままだった。むしろ、消すどころか枝を足して消えないようにしていた。危なくないのかと思ったが、寝てる間に野生の動物に襲われる方が危ない。
「水浴びは終わったのか?」
「水浴びはしてないんですけど、顔と髪は洗いました」
「それだけでいいのか?」
聞きながらドラウグは膝まで水に浸かって顔を洗い始めた。
「はい、タオルを馬車に置いてきたのでやめておきます」
「なんだ、タオルだったら俺がもってきたから使えばいい」
「いえ、顔と髪が洗えたので大丈夫です」
ドラウグはそうかと言って川から出てきた。ドラウグが体を拭いて狼を解体するのを待って馬車に戻ると、ヨシアとヒストも起きていて朝食を食べていた。
「おはようございます、大丈夫でしたか?」
「ああ、狼がいたから狩ってきた」
「おお、すごいですね。狼は美味しいんですか?」
「あまり美味くはないが、食べられないこともないくらいだ。乾燥させて保存食にするのが一般的だな。あとは皮が売れる」
「なるほど、そしたらバスに着いてから売る感じですね」
「そうだな、肉も買い取ってくれるだろうから狩っておいて損はない」
狼の肉はあまり味がよくないのか、食べてみたかったがそれを聞くと興味が失せた。
全員が朝食を食べ終わり、馬車がまた走りだす。ふと思ったのだが、俺は今大賢者が作ったと言われてる世界の知恵を探して、というよりも今手元にあるものが世界の知恵なのか、なんでもないのか確かめに行こうとしてるわけだが、考えてみれば肝心の大賢者について何も知らない。バルトの王立図書館で調べてみるが、多少は前もって知っておいた方がいいだろう。ヒストが大賢者や歴史について詳しいようだから聞いてみよう。
「あのヒストさん、大賢者様と歴史について教えてもらえますか?」
「ええ、いいですよ。セガスさんは大賢者様と歴史についてどのくらい知ってるんですか?」
大賢者について聞くとヒストの顔が明るくなり、嬉しそうに聞いてきた。
「大賢者様この大陸にある5つの国と世界の知恵を作ったことぐらいしか知らないです」
「なるほど、では5つの国について話しますね。大賢者様が5つの国を作ったというのは少し違いまして、元々この大陸には統一帝国と呼ばれた大きな1つの国だけがあったんです。統一帝国は今は失われてしまった様々な技術があって、大賢者様は統一帝国の研究を司る機関に務めていたんですが、当時の皇帝が圧政を敷いていて、帝国国内では各地で内乱が絶えない時代が30年ほど続いていたんです。平和で安定していた時代を知っている大臣やその部下達は、その時代が戻って来ることを夢見てはいるものの、皇帝の命には逆らえずただ次の皇帝に代替わりするまで待つしかありませんでした。数年後に皇帝が急病に倒れて、息子である次代の皇帝が即位しました。これでようやく圧政が終わると思われたのですが、その皇帝は父である先代皇帝の意思を継ぎ、圧政をそのまま続けたんです。それに絶望した大臣達や民は、もう生きてるうちに平和な時代は来ないと諦めたそうです。ですが、大賢者様はそこで諦めず革命を起こそうと立ち上がりました。最初は皇帝の権力を恐れ、誰も賛同することはなかったそうですが、大賢者様の国を変えたいという熱い思いが次第に伝わっていき、大賢者様について行く人達が増えていきました。そうして結成された革命軍には大賢者様が務めていた研究機関や、お飾り状態になっていた行政府の文官達と戦うことにうんざりした軍人が少なくはあるものの参加していました。幸いなことに、帝国軍は各地の内乱を鎮圧するために派遣されていたため、中心部は比較的警備が手薄になっていたので、軍人を先頭に城内の制圧を始めたんです。そして、双方多くの犠牲を出しながら革命軍は皇帝の下まで辿り着きました。革命軍のリーダーであった大賢者様は皇帝と戦い、遂に皇帝を討ち取り革命に成功しました。革命が成功したことで誰が皇帝になるか、というところに論点が移りました。ほとんどの人が大賢者様を皇帝にしようとしましたが、大賢者様は断り務めていた機関の大臣を推薦しました。大賢者様が言うならばと人々はそれを受け入れ、新たな皇帝が誕生し、帝国は生まれ変わり平和な時代が戻って来ました。大賢者様は皇帝の側近として自身の研究をしながら、皇帝の仕事を補佐していました。そこで大賢者様は帝国を主要な5つの都市に分け、それぞれに自治権を与えて帝国を連邦制の国家にする提案をしました。皇帝はそれを採用して、統一帝国は5つの都市を持つ連邦国になりました。それから長く平和な時代が続いたんですが、5つの都市がそれぞれの思想の下で都市を運営していたため、都市間での衝突が増えたんです。はじめは議会で意見の相違による対立だったんですが、都市のひとつが武力を行使したことで、都市同士の戦争が始まったんです。戦争は苛烈を極め、都市は疲弊していき戦争を続けれら食料や資金、兵力がなくなっていきました。そこで、都市の首長が集まり議会で話し合いをし、5つの国に分かれることになりました。それが現在この大陸にある5つの国です。この戦争で研究資料や帝国の歴史を保存していた建物は消失してしまい、その資料の多くが失われました。そのため、現存する歴史書は帝国分裂後に書かれたもので、大賢者様が革命を起こす前のことについてはわかってないことが多いんです。帝国の技術も、戦争で焼けてしまい再現することができなかったため、現在はロストテクノロジーとなってしまいました」
ヒストはそこまで説明して間を置く。
「大賢者様と大陸の歴史について簡単に説明すると、こんな感じですね。もっと詳しいことを教えようを教えようとすると今日だけじゃ全然足りないくらいですね」
「ありがとうございます、バルトに着いたら王立図書館で調べてみようと思ってて、その前に少しでも知っておきたかったので、助かりました」
「それはいいですね、あそこは学問を究めたい者にとってはこれ以上ない環境なので、大賢者様に関する文献もたくさんありますよ」
「世界の知恵についてもありますか?」
一番気になっていることを聞いてみる。
「世界の知恵についてはわからないことが多いんです。歴史書に書かれていることも眉唾物で、何でも願いが叶うなんてそんなことが可能だとは思えないのですが、帝国の技術についてもわかってないことが多いので、もしかしたら世界の知恵の力で大賢者様はまだ生きてるなんて言う人もいるくらいですから」
ヒストが言ったことに、さすがに驚きを隠せない。大賢者がまだ生きている、そんなことを言うなんて正気なのだろうか。大昔の人物のはずなのだから。
「大賢者様が生きていたのは何年前ぐらいなんですか?」
「およそ1500年前と言われてます。ただ、帝国分裂後の文献から逆算した年代なので、それよりも前の可能性もありますね」
なるほど、1500年前となると当然生きているはずはない。しかし、あくまでそれは普通の人間ならばの話で、もしも世界の知恵が実在してその力が本物なのだとしたら、大賢者がそれを使って不老不死になっている可能性もある。だが、そんなことは常識的に考えてありえない。統一帝国の技術が今よりも優れていたとしても、そんなことで説明できるようなものではない。大賢者はとっくに死んでいると考えるのが妥当だろう。
「ありがとうございます」
「いえいえ、もしよければ帝国についての本を持ってきているので読んでみますか?」
「ええ、ぜひお願いします」
ヒストが荷物の中を漁って本を取り出した。厚みがあり重そうに持っている。
「この本を読めば帝国の歴史と大賢者について大体わかると思います、私が説明したことと被る部分も多いと思いますが、より詳しく書いてるので読んでみてください」
ヒストから本を受け取って表紙をめくる。当然だが文字がびっしりと書かれていて、読むのは時間がかかりそうだ。
「バルトに着くまでに返してもらえたらいいので、ゆっくり読んでくださいね」
「本当にありがとうございます、こんな親切にしてくれて」
お礼を言うとヒストはにこりと微笑んで頷いて、読んでいた本に視線を戻した。俺も借りた本を読み始める。最初は統一帝国の成り立ちから書かれていた、読み進めようとしたところで馬車が停まり、ヨシアが休憩だと声をかけたことで全員が馬車から降りて昼食の準備を始めた。
「セガスも歴史の勉強がしたいのか?」
昼食を食べているとドラウグが質問してきた。
「歴史というよりも大賢者様のことを調べたいですね」
「まあ似たようなもんだな、良くも悪くもあの人がいなきゃ今の国のはなかったからな」
確かに大賢者が帝国を連邦制にしたから5つの国が生まれたわけだから、5つの国の歴史は大賢者に辿り着くわけか。
「そうですね、なので歴史についても調べるつもりです」
「歴史は面白いよな、王国騎士団で働いてたから少し勉強させられたが、できるならもっとやりたいと思ったよ。ただ、騎士団で教わる歴史は国の思想に偏っててだめだな」
ドラウグは首を横に振りながら愚痴のように吐き捨てた。
「でしたら、ドラウグさんも一緒にバルトで勉強しませんか?」
ヒストが顔を輝かせてドラウグに提案した。
「いや、俺は遠慮しておくよ。もうこんな年になっちまったし、あとはゆっくり趣味程度に本でも読むよ」
「そうですか、でもやる気になったら言ってくださいね、勉強仲間ができるのは大歓迎です。もちろんセガスさんもですよ」
ヒストは断られて残念そうにしていたが、それでも諦めきれないようでこちらにも提案してきた。
「考えておきます」
勉強もしたいがそれ以上にやることがある。申し訳ないがバルトで足を止めるわけにはいかない。
「私はいつまでも待ってますからね」
そう言ってヒストは大きく食事を口に運んだ。俺とドラウグも止まっていた手を動かして食事を再開する。ヨシアはすでに食べ終わり片付けを始めている。遅くならないように急いで食べよう、まだ先は長い。