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北満の国境線に、短い夏が来た。
短いだけに、夏の強烈な陽光は、紺碧の天空を灼熱で覆い尽くし、野外で作業をしている兵隊たちの肉体の水分を容赦なく抜き取り、男たちの肌を、炭のように焦がした。
あまりの暑さに、襦袢まで脱いで、上半身裸になっても、ほんの少し動くだけで、汗が滝のように溢れ出て、男たちの下半身は、下着まで水に浸かったように濡れそぼった。
夜は夜で、それとは逆に、体の芯まで冷えた。北満の夏は、昼夜の寒暖の差が著しいのである。
その暑中のある日、中隊に一部の進級が発令されて、人事掛曹長の深谷は、准尉に任官し、内務での実力を買われた寿は、伍長に進級した。幹候の深谷の昇進は、多少遅すぎる感があったが、伍勤の寿の場合は、部隊の慣習から、これは当然の進級と言えた。
先任の小月伍長と同室になった寿は、小月が他の分隊の長になったことで、これまで先任の小月伍長が受け持っていた分隊を引き継ぐことになった。
それから暫くして、寿は、弾薬庫衛兵の哨兵長として任に就いた。弾薬庫の哨兵長は、伍勤のときにも勤めてきたが、下士官になってからは、これがはじめてであった。
軍隊の衛兵勤務は、それぞれの部隊に与えられた条件によっても異なるが、基本的には同じである。まず軍隊の正面玄関である表門立哨と裏門立哨があり、それに加えて軍旗室立哨と弾薬庫立哨の概ね四ヶ所である。
寿の属する連隊は、国境線に近い主要陣地であるため、他の部隊の通常の態勢とは少し異なっていて、弾薬庫衛兵は、正規の衛兵とは切り離されて、完全に独立していることであった。
三棟並んでいる蒲鉾形の弾薬庫には一会戦分の弾量が保管されており、三棟のうちの一棟は歩兵砲中隊、あとの二棟が歩兵部隊の管理管轄であった。弾薬庫は、兵舎からは距離を置いて鞏固なベトン(コンクリート)で構築されていて、十五加(十五センチ加農砲)の直撃弾を受けたくらいではびくともしないほどの堅牢な造りであった。
この日の弾薬庫衛兵は、寿の中隊が割当られていて、本来の勤務割りでいくと小月の分隊が就くことになっていたが、この分隊は、遜河沿岸に増設された監視分哨へ出されたために、深谷が寿の分隊に振ったのである。
勤務の内訳は、弾薬庫入口に立哨一名、弾薬庫周辺の動哨に二名、控え三名に仮眠三名の三班一組編成で、衛兵勤務と同じ、長以下十名の態勢での二十四時間勤務である。上番組は、各自一時間ごとに所定の勤務に就き、下番すると一時間の休憩(仮眠)を取り、あとの一時間は哨舎の長椅子に坐って次の上番に控えるという、これの繰り返しである。
ただ、弾薬庫はそれでよかったが、正規の衛兵勤務はこうはゆかない。衛兵勤務は、傍から間接的に視れば、それは、じつにのんびりとしていて、気楽そうに見えるらしいが、勤務に就いている兵隊にとっては、これは、訓練で絞られるより辛い仕事であった。殊に、対敵監視塔の哨兵と表門衛兵は、絶えず陣地内外に神経を尖らせていなければならず、衛兵司令所の表門衛兵などは、その過酷さを言えば代表的勤務であった。
なぜなら、まず連隊本部から衛兵のいる営門は丸見えで、そこからは、どんな将校が眼を光らせているかわからない。それに加えて、日中の営門は、演習に出かける部隊や将兵の出入り、それに軍の御用商人等々が不定期に出入りするから、その検問で気が抜けない。
夜は夜で、夜間巡察将校以外に、当直将校が不定期巡察と称して暇潰しに度々やって来て、逆に衛兵は監視される。用便以外席を立つことを許されない彼らは、寸分の気の弛みも見せられない緊張の連続で、一晩じゅう将校の視線を意識して、神経を擦り減らすのである。
それに較べると、弾薬庫衛兵は、比較的気が楽であった。まず、連隊本部からは、完全な死角に収まっているお蔭で、煩わしい将校たちの眼を、気にしなくて済むし、表門衛兵のように、絶えず周囲に神経を尖らす必要もなければ、弾薬庫に近づく不審者もいない。したがって、ただ退屈なだけの勤務であった。万一、非常事態が発生したとしても、対敵望楼監視の哨兵が、報らせてくれる。砲弾なら、炸裂するまで知らぬことである。
その退屈で長い勤務も、夜間へと入った。
爽やかな夜であった。天空一面には、宝石のように煌めく星屑が輝きを競っている。
寿は、壁に立てている軍刀を佩刀して、
「ちょっと廻って来る」
と、控えにそう言い残して庫外巡視に出た。
崖に沿った動哨路を歩いて、陣地尖端の疎林へ達した辺りで、動哨中の野下一等兵と、新川一等兵に出会った。
二人は、寿の姿を認めて立ち停まると、かかとを揃えて挙手をした。
「動哨中、異常ありません」
野下が報告した。
「ご苦労」
と、寿も軽い答礼を返すと、日頃、無口でおとなしい野下が、手の届きそうなところに煌く星座を仰ぎ見て、珍しく白い歯を見せた。
「今夜は、班長殿、懐中電灯なんか要らないほどですよ、こんなに綺麗な星空は久しぶりであります」
「まっこと昼間ンごつ明るか、よか七夕日和たい」
と、寿も夜空を仰いで、
「やけんがの、美しか織姫さんば探しよると、うちン彦星どん妬餅ば焼くばってん、気ィばつけるとぞ。今夜の巡察将校は、ありゃ予備の嫉妬深かお人やけんの。いつ癇癪ば起こすやわからんけん、慎重にの」
と、軽い冗談のなかにやんわりと注意を促した。
「わかりました」
野下と新川は、含み笑いを殺して、かかとをカチンと鳴らした。
「もう一廻りして来ます」
挙手をした二人は足軽に離れて行った。一廻りして哨舎へ戻ったころが、ちょうど交替時限である。
この野下と新川は、赤羽との一件以来、寿を兄のように慕っている補充兵役と現役の初年兵である。
現役の新川は、二十歳の学徒で幹候(幹部候補)志願者である。一期検閲時の学科はさすがに甲であったが、術科と行軍力に難があったために総合判定は乙となり、一選抜候補を外された兵隊であった。
一方の野下は、現役四年兵の古参兵より年齢は二つばかり上の補充役兵だが、これは術科はもとより体力気力とも充実しており、一期検閲も甲種の成績で初年兵の最右翼と目された一選抜候補者であった。だが、優秀な兵隊であるにもかかわらず、この野下は、一選抜候補を取り消された兵隊である。
このことは、軍隊ではもっとも忌み嫌われる赤化思想の持主、所謂「アカ」と看做されているからであった。
寿の眼には、しかし、野下の身上書に記載されているような反軍的思想傾向はどこにも窺えず、むしろ他の兵隊よりも軍務に忠実な兵隊に映っていた。このことから、同じような境遇の耕介がなぜこのような扱いをしたのか逆に不振を抱いたが、考えてみると、同じような立場であるがゆえに、便宜を図ってやりたくてもできなかったのだろうと思い直して、野下に関しては、耕介には訊き質すことはせずに、敢えて捨て置いていたのである。
前にも触れたが、個人が少しでもそれらしき傾向があると目されると、なにかにつけて白眼視するのが軍隊である。殊に、左翼思想に敏感な軍隊という組織では、このような反戦思想を持つ人物に対して、極度の偏見的差別が露骨に表れるのである。これが、殺人集団を形成する軍隊の、一致団結を保つ法則であった。
形ばかりの巡視を終えた寿は、哨舎に戻って衛兵勤務綴をめくり、それに時間と異常の有無を記録した。これで、あとは最終の巡察を待つばかりとなる。
哨兵たちは、この時間だけは、首を長くして巡察を待ち侘びた。日中は厳しい守則に拘束されて気が抜けないが、夜間は別である。最終の巡察が終われば、暗黙の諒解の下に喫煙が許される、自由な時間が待っているのである。
弾薬庫は、庫内は勿論のこと、その周辺においても喫煙は一切厳禁という守則が設けられている。煙草を喫わない者にはどうでもいい規則だが、喫煙者にとってはこれがいちばん辛いものであった。
なにしろ、あくびが出るほど退屈で、死ぬほど眠くなる勤務である。この気持ちを入れ替えるには、弾薬庫横の、風雨で抉られた天然の窪みの喫煙場所に出向いて、尻から煙が出るほど煙草を堪能する以外に、気分を転換する方法はない。喫煙者にとっては、欠かせない時間なのである。岩だらけのその場所でなら、人の眼も、火気の心配もすることはないから、巡察将校たちも、弾薬庫に立ち寄った際には、公然とその場所を利用しているし、勤務に支障がない限り、夜間に限って、巡察将校たちも、哨兵たちの喫煙を黙認しているのである。その時間が、もうそこまで迫っている。
そこへ、これは他隊の下士官だが、下士官集会所で寿と親しくなった伍長が、息を切らせて駈けて来て、寿を哨舎の舎後へ呼んだ。
「どげしたとや矢部班長。こげな時間になんぞ用かの?」
訊くと、矢部伍長は、そこからは見えぬ兵舎を睨むようにかえり見て、憎々しげに言葉を吐き捨てた。
「おい、あんたはまだ知らんだろうから忠告しておくがな、今夜の巡察将校は急遽変更になったから、用心したほうがいいぜ。やっこさん、先週着任したパリパリの新任少尉だけあって、えらく張り切っていやがるからな」
「なんぞあったとね?」
と、いつもは剽軽な矢部の憤激した顔に、寿が怪訝な眼を向けると、これが眼を攣り上げて一気にまくし立てた。
「あった、てなもんじゃねえよ。さっきのことだがな、と言っても、日夕点呼時の話だがな。野郎、なにを思ったか、いきなり俺たちの中隊へ飛びこんで来て、週番下士の俺と当番兵二名を中隊の防火用水に引っ張って行ってだ、この防火用水の底は汚れて不衛生だ、これで万一罹病者が出たらどうするかときやがってよ、お前は兵隊にどんな教育をしているのかと、野郎、兵隊の面前でよ、いきなり俺をぶん殴りやがって恥をかかせやがった。なにもよ、お前、兵隊の面前で俺を殴らんでも、ほかにやりようがあるじゃねえか。え、そうだろ?」
矢部が、怒りを露骨に表すのも当然であった。将校の階級を楯に、下士官を兵隊の面前で殴打することは、これは中隊の兵隊を掌握している下士官にとって、面子を丸潰しにされたも同然なのである。
「飲用水でもねえ単なる防火用のドラム缶だぜ。ボウフラでも湧いているんならまだしも、防火用水は、毎日兵隊に汲み替えさせて清潔を保たせているんだ。野郎も初年兵のころにゃ経験したはずだ。それにだぞ、鉄んなかに水を浸してりゃお前、金の延棒だって青錆びの一つや二つ浮いて出るってもんだぞ。なァ、そうだろ? あの馬鹿ったれ、いったい全体どういう神経をしていやがるんだ。幹候上がりのくせしやがって、まったく程度の悪い将校だぜ」
その防火用水を汲んだ当番兵が、あとで古兵たちにどれほどの制裁を加えられ、一晩じゅうかかって鉄の錆を落とさなければならなかったか、その苦労のほどは矢部の知らぬところである。
「もうすぐ巡察だ。もう行くぜ。こんなところで野郎にとっ捕まったら、またぞろビンタだからな」
と、行きかけてすぐに戻って来た。
「そうだそうだ、肝腎なことを言い忘れていた。おい、あんたのところには札付きが多いから、悪いことは言わん。巡察後は厳重に眼を光らせておくことだな。へたをすると、あの野郎につまらん抜き打ちを喰らって、ビンタどころか営倉行きだぞ」
と、警告を告げて、早駈けに帰って行った。
このとき、寿は、矢部の警告を軽く受け流していた。定期巡察後の抜き打ち巡察はまずないことを信じていたのと、矢部の言ったことが、まさか現実となって自分に跳ね返って来ようなどとは、露ほども考えなかったからである。
「近頃は程度ン悪か幹候ば増えたばってん、あれも苦労するったいね」
と、皮肉な笑いを洩らすと、ついでに崖の喫煙場所へ出向いて煙草に火を点けた。
夜空には、夏の星座が美しいほどに煌めいていて、寂とした陣地周辺は、水墨画のような色のない幻想的風景を浮かび上がらせていた。
岩肌に根を張っている灌木や疎林では、虫たちが黄色い羽音を立てて、互いの伴侶を求めて頻りに鳴きを競っている。それ以外の無駄な音は、なにもない。こうした深閑とした場所に、独り佇んでいると、日本が、世界じゅうを敵に廻して大戦争を仕掛けていることなど、まるで嘘のようであった。
「こげな馬鹿げた戦争、いつンなったら終わるとじゃ!」
吸殻を崖下に投げ捨てて、寿は哨舎へ戻った。
やがて待ち侘びていた最終の巡察時限が訪れ、毅然とした足取りで巡察将校がやって来た。
この巡察将校は、矢部が口を尖らせたとおり、寿には知るはずのない、若い少尉であった。
巡察将校を迎えた寿は、古参兵の体に染み着いている鮮やかな敬礼をして、
「巡察、御苦労さまであります。弾薬庫は、現在動哨二、庫内入口立哨一、仮眠三、控え三、事故その他異常ありません。長以下十名は、目下のところ滞りなく任務を遂行中であります」
と、挙手をして、巡察将校も、「御苦労」と、無愛想な形ばかりの答礼を返した。
大抵の巡察将校は、ここで、なにかしらの雑談をするなり、息抜きに窪地へ下りて喫煙して帰るのだが、この巡察将校の少尉は、兵隊ごときに口を利くのが煩わしいのか、窪地へ行くでもなく、周辺を陰湿な眼で見廻してから、寿の顔に陰険な一瞥をくれて帰って行った。
その後姿を、寿は、苦虫を噛み潰したような顔で見送っていた。矢部が唾棄したとおり、座金が取れたばかりの若蔵である。ここが軍隊でなければ、小生意気な態度の横面を一発張っているところだが、将校と下士官とでは、階級の差があまりにもありすぎた。寿は、仕方なく侮蔑的笑いを浮かべて巡察将校を見送ったが、それはともかくとして、巡察は形式どおりに終わったのだ。これで、明朝の交代時限までは、まず将校の顔を見ることはない。
「もうすぐ交代時限やばってん。煙草ば喫いたかもンはいまのうちにやっておけ。ただし、さっきの巡察将校は陰険な幹候少尉らしかけん、気ばつけるとぞ」
と、軽く注意を与えて、上番を控えた赤羽以下の哨兵たちに喫煙を許すと、待ち構えていた赤羽たちは、先を競って飛び出して行った。
やがて、交替時限が来て、下番者と上番者の引継が行われ、それが終わると、今度は下番した者が窪地へ走った。寿は、赤羽たちに伝えた注意を下番の男たちにも念を入れて伝えたが、彼らは、しかし、これをまともに受け取ったものかどうかは、寿には疑わしいものが残った。
煙草をやらない野下が一人残った。
下番者は、次の控えまでの時間は仮眠を許されていたが、野下は仮眠室へは行かず、長椅子の端に坐ってぼんやりしていた。寿が仮眠を促すと、いまは眠くありませんと言う。寿は、敢えて野下を捨て置いて、日報をめくっていたが、暫くして、寿のほうから口を開いた。
「おまんは、確か幹候有資格者やったの?」
「そうです」
寿は、日報を閉じて、野下と向き合った。
「それやのに、なんで幹候ば志願せんとや?」
と、訊くと、野下は、か細くだが、はっきりと答えた。
「志願したくありませんでした、幹候は」
「なしてたい? 将校になりゃ、おまん、兵隊ごつ辛か思いばせんで済むやなかね。なにか理由でもあっとな?」
野下の顔が暗く曇った。
「……幹候を受けないのは、兵隊として卒伍のなかにあるほうが気が楽だからであります」
「おまんの気持ちはわからんこともなかけんが、それだけじゃ拒否の理由にはならんばい。戦局多端となったいまは将校や下士官のの数が減っとるけん、現役補充役問わず、幹候有資格者は全員志願するよう、中隊長より達せられとるやろもん」
「わかっております」
「……ま、よかたい。幹候は命令やなかけん、おまんの好きにするたい」
と、寿は、それ以上問わずに、あっさり打ち切って話題を変えた。
「ところで、おまんのおやじさんは、確か軍医やったの」
「はい。民間の開業医でしたが、十八年に南方へ徴用されましてから、いまはどの方面に従事しているか、わかりません。おふくろが言うには、いまは音信も途絶えて不明だそうです」
「おふくろさん、達者ね?」
「いえ、おふくろは病気なんです。おふくろは、おやじと自分が招集されてから、急に弱りましてね、いまは埼玉の叔母の家に疎開して、そこで療養をしているんです」
「兄弟は?」
野下は、微笑のなかに顔を横に振った。
「一人っ子なんです」
「東京周辺は空襲で大分やられたそうなが、おふくろさんが疎開しとるそこはどげね?」
「中心部や工場地帯などの一部は空襲を受けたそうですが、叔母の住む山間部まではまだ及んではいないそうです。ですが、毎日のように爆撃機が飛来しているから、これもいつどうなるかわからないそうです」
「心配たいの」
と、呟くと、野下は、諦めに似た笑いを洩らした。
「この期に及んで、私が気を揉んでもどうにもなりませんから、極力考えないようにしています。それに、私が帰るまでのあいだは叔母が面倒を見てくれていますから、私の心配するところは、いまのところなにもありません」
寿は、静かにうなずいた。
野下がつづけた。
「でも、おふくろは我儘なところがありましてね。遠い知らない土地で暮らすより、住み慣れたところへ帰って、そこでおやじや私の帰りを待ちながら静養したいと、毎日のようにだだをこねて、叔母を困らせているそうです。おやじが遺した預金があるから、差し迫っての生活に困窮することはないにしても、空襲で焼け野原になっているところへ帰っても、そこでまともな生活などできるはずがないのに、おやじも私も生きてそこへ帰って来るものと信じているんですね。だから、せめて私だけでも帰ってやりたいと思っています」
寿は、眼前の青年を、羨むように見つめていた。夫と一人息子を、同時に軍隊へ取られた母親の苦衷は同情に値するが、生活に困窮しない分だけ余裕のある母親もこの野下も、まだ救われていると思った。
郷里に残した家族に、うしろ髪を曳かれる思いで兵役に就いているのは、野下に限らないのである。兵舎に生きる兵隊の殆どは、身内に縋ることも、かねに頼ることもできない、下層級の出身者ばかりなのである。
寿の知る悲惨な例を挙げると、こんな兵隊がいた。若くして妻に先立たれ、残されて、どこにも託す当てのない、幼い我が子を杜の境内にそっと寝かせて、我が子が目覚める前に、そこから逃げるように軍隊へ入隊した者もいた。
また、一家の大黒柱を突然軍隊に取られ、生活の貧窮に追い詰められた妻は、子の頸を絞め、寒々とした家の梁に縊れた。兵営に生きる夫は、その悲劇の訃報を知った夜、森の木立に凭れて、銃剣で我が胸を突いて、妻のあとを追った。
算え上げればきりがない。軍隊は、口では言えない、様々な事情を秘めた男たちの集団でもあるのだ。野下のように、恵まれた家庭に育った兵隊は少ないのである。
僅かな沈黙のあと、野下が口を開いた。
「班長殿には、ご家族はお有りですか?」
「あァ。立派な尻ばしとる女房に、一男二女、わしがここに来たころにはもう一人生まれとるはずやけん、子供は四人に増えとるはずたい」
野下は、白い歯を見せた。
「子沢山ですね」
「若いころから炭抗夫ばしとるお蔭での、体力と精力だけは馬並やったとたい」
冗談を飛ばして笑うと、野下も、貰い笑いを浮かべて、頬を淡く染めた。
「ところで、おまん、おやじさんは立派な医者やゆうのに、なんで医者にならんかったとね?」
「私には、医者になるほどの才能がなかったんです」
野下は曖昧にぼかした。
「そいで、どげん仕事ばしよったとな?」
「設計です。小型動力車の変速機とかの」
「そげん優秀な技術者がぞ、なして治安維持法ば引っかかったとや? 普通にしとりゃ、そンまま召集免除ば受けて、おふくろさんの面倒ば看れたろうにくさ」
灯りの下で、野下の眸が曇った。
「自分としては、睨まれるようなことは一切していないつもりだったのですが、他人からすれば、自分は左傾思想の要注意人物だと、そう判断されたようです」
「なんぞ誤解ばさるるごつしたとや?」
「……」
野下は、答えをためらった。この班長は、兵長のときから、下級者に無意味な暴力を振るわない話のわかる兄のような存在だが、まだ心を開いて話したことはない。ここは軍隊で、相手は中隊の骨幹である下士官である。その下士官に迂闊に気を許して喋れば、足下を掬われる結果となりかねないのだ。
それを察した寿が、眼尻を弛めた。
「そげん硬うならんでんよか。わしゃおまんの思想傾向ば調査しとるんやなかけん、心配は無用たい。いまのおまんは身内同然やけん、の、なんでも気楽に喋りゃよか」
野下は、安堵したようである。他の下士官にはない温かみを寿に抱いたらしく、口許が綻んだ。
「他人が私のことをどのように批判しようと、それは勝手ですが、私は、みんなが考えているようなことはしていません。左傾した覚えもありませんし、反日主義者でも社会主義者でもありません。したがって左翼的活動をする必要もありませんでした。ただ、左翼と目された人物の本をね、好奇心で何冊か読んだということだけです」
「それだけで、挙げられたとか?」
寿の問いに、野下は、静かに顔を横に振った。
「自分が浅慮だったんです。こっそり読んで、黙っていればいいものを、読んだ本の感想を、社内で親しくしている同僚に話したんです。そもそも、それが軽率でした。治安維持法に神経を尖らせている当局にすれば、それだけで、反戦思想を社内に伝搬したという、立派な理由が成立しますからね」
寿は、うなずいて、席を立った。
「つまり……」
と、言いかけて、水筒の冷めた番茶を二つの湯呑みに注ぐと、一つを野下に手渡して、一口啜った。
「つまり、おまんの同僚は、そいを上司に報告した。受けた上司は、会社に累が及ぶのを恐れて、おまんを特高へ売ってお払い箱にした。そういうことか?」
野下は、また顔を振った。
「……わかりません。仮にそうだとしても、それは当人しか知らないことで、私が特高に検挙されたことは事実ですから……」
寿は、茶を啜って、二三度小さくうなずいた。
「我がの点数稼ぎに、人ば陥れる阿呆はどこにでんおるとやが、まっこと馬鹿げた世ン中たい。非人道的社会の抑圧ンなかにわしらは生かされとるばってん、言いたかごつも、主張も、自由もなか。やりきれんたいの、実際」
「そのとおりですね」
と、俯き加減に答えた野下が、顔を上げた。
「では、班長殿も、そのような経験を?」
寿は、苦々しく片手を振った。
「地方じゃ優秀な炭抗夫やったばってんが、わしゃインテリんごつ知的なことはでけんよ」
と、声を上げて笑った。
その声が届くほどの窪地の喫煙場所では、下番した休憩組に交じって、次の控えに就くはずの男たちが、まだ油を売っていた。寿の制裁に泣いて縋った万年一等兵の四年兵有帆と、有帆とはきっかり飯の数が一年分少ないこれも万年一等兵の岩淵と、あとは初年兵の新川以下二名である。
この初年兵二人は、四年兵と三年兵の神様たちと一緒では、さすがに居辛くなったか、煙草を喫い終えると、小夜食の準備があるからと断って、そそくさにその場を引き上げた。
その背に、白い視線を刺した控えの岩淵は、これもさすがに、これ以上油を売ることに気が引けたらしく、
「冷えてきたぜ。俺たちもぼつぼつ戻るとするか」
と、腰を浮かした。
そこへ、動哨中の曳田が通りかかって、岩淵とばったり眼が合った。
岩淵が、照れ笑いにニタリと笑うと、
「おめえは一廻りして来い」
と、曳田は、古参兵づらをして、同伴の現役兵小出二等兵に言いつけ、自分はノソリと輪に割って入った。
一度腰を浮かした古兵たちは、曳田が加わったことで、また腰を下ろしてしまった。これが、とんでもない事件へと発展させる因となった。
腰を下ろした曳田は、小出が白眼を剥いて唾を吐き捨てたことなど知る由もない。隠しから煙草を出して火を点けると、これがまた、うまそうに煙を吐き出した。
「まったくひでえ疲れだぜ。大体よ、こんなくだらねえ番犬ごっこなんてものは、ショネコか二年兵にやらせるもんだぞ。それをあのインテリ准尉、俺たち四年兵にやらせやがって! やってられねえぞ!」
「他の中隊じゃお前、ショネコと二年兵の混成でやらせているらしいぜ」
と、わざわざ曳田の席を空けてやった有帆が、曳田の怠慢を咎めるどころか、これも煙草を咥えてぼやいた。
「俺たちゃホ隊の四年兵だぜ。それをよ、歩兵の三一狸に鼻先で扱われるなんざお前、ホ隊の権威も地に落ちたもんじゃねえか」
胡坐を組んだ有帆が、軍靴の踵で小石を崖に弾くと、それに答えて、曳田が、憎々しげに口を尖らせた。
「それにだ、俺はあの野郎も気に入らねえんだ。高が予備役の兵長だった奴がだぞ、准尉のポン友ってだけで野郎の袖に潜りこんでよ、それがお前、いまじゃ俺たちを顎で使う班長殿だ。俺たち関特演の四年兵をコケにしてだ!」
「それだ、くそ面白くねえのは。俺も前っからそう思っていたんだ。ブリキの星一つ頂戴したからって、野郎、ここんところ調子づいていやがる」
と、有帆が、忌々しげに返した。
「だけどよ」
と、話を割ったのは岩淵である。
「あいつには逆らわねえほうがいいぜ」
と、古参兵づらをして言った。この三年兵が四年兵たちと対等に口が利けるのも、暴力と悪事に関しては師匠株だからである。
その悪事の師匠が、珍しく善人ぶって言うのである。
「あいつの腕っ節と気性はよ、尋常じゃねえからな。それにだ、厄介なことに、野郎には、煩い六中隊のムジナという附録までくっついていやがる。へたに楯突くと、お前、どこへ持って行かされるか、それこそ、わかったもんじゃねえぞ」
星明かりに、岩淵が二人の横顔を窺うと、曳田の眼は、怒りで据わっていて、有帆のほうは、奥歯をヒクヒクと噛んでいた。関特演以来、赫々たる武勲を誇った歩兵砲中隊の権威を、内地の留守隊からふらりとやって来た予備役の兵長に一晩で面子を潰されたことは、寝ても覚めても忘れたことはないし、それを根に持ちながらも、さりとて権力を奪い返すほどの実力もないこの二人は、持って行き場のない怒りを、個別に表しているのである。
「赤羽の野郎も野郎だ。キンタマ抜かれやがって、いまじゃ野郎の言いなりだ!」
有帆が罵ると、曳田が呪いの眼を剝いた。
「赤羽か。チッ、図体だけはご立派だが、口ほどにもねえ野郎だぜ。ドンパチもろくに経験のねえ予備役のおっさんによ、蕎麦みてえに伸ばされやがって。挙句は、いまじゃ野郎の腰にぶら下がる瓢箪ときた」
と、これも一撃で簡単に潰された曳田が、そんなことはなかったかのような顔で、咥えていた煙草を唾ごと崖下へ吹き飛ばして寝転んだ。
その曳田に、岩淵は投げやりに言った。
「しょうがねえやな。あの班長さんの言種じゃねえがよ、俺たちゃ大砲を捲き上げられてダルマにされちまったんだ。まだ豆鉄砲でも貸与されるだけ倖せってもんだぞ。これは聞いた話だがな、南満の部隊じゃお前、その豆鉄砲すら渡らねえ連中がわんさといるって話じゃねえか。もし俺たちがそうだったら、それこそただの丸太だ。な、いまさら喚いたってどうしようもねえぞ。大砲のことは運が悪かったと諦めるんだな。もうどっちだっていいことだ」
岩淵は、事実、どうでもよくなっていた。砲兵だろうと歩兵であろうと、どっちに転んだところで、所詮は一銭五厘のチイパッパでしかない。大砲が豆鉄砲に代わっただけである。岩淵は、そう割り切って、いまでは諦めようとしている。
その岩淵に、曳田が癇癪を起こした。
「馬鹿野郎! あんな予備役野郎にでかい面されてだぞ、おめえはなんとも思わねえのか。え。かりそめにも、俺たちゃ赫々たる武勲を誇るホ隊の古参兵だぜ。軟弱な歩兵たァ格がちがうんだよ、格が! 歩兵の糞野郎になめられてたまるかてんだ!」
いきり立った曳田に、岩淵は鼻で嘲った。
「まだ言ってやがら。だからおめえは万年一等兵なんだよ。考えて見ろ。この期に及んで、砲兵の俺たちがどれほどの値打ちがあるてんだ。馬鹿が!」
と、さらに厭味の上塗りをして釘を刺した。
「牙をもぎ取られた虎がだぞ、いくら吠えたってな、そいつはみっともねえ悪足掻きにしかならねえんだよ。いまさら俺たちが意気ったところで仕方がねえだろうが。だがな、おめえがどうしても肚の虫が治まらねえてんなら、これからはあの班長さんに代って、おめえが内務班の音頭を取るんだな。あの班長さんの首根っ子を押さえてだ、おめえが内務班の実力者になりゃ、俺ァ明日にでも三階級特進の下士官進級を隊長に推薦してやるが、どうだ?」
それだけは永久に望めそうはなさそうである。曳田は、口をへの字に歪めて黙ってしまった。
「まァそう尖らずにだな、俺たちはのんびりと気楽にやろうぜ。そのうちにだな、曳田のあにさんよ、原隊からおめえさんにお呼びがかかろうぜ。曳田一等兵殿、貴殿の力が必要でありますから、どうぞホ隊へお戻りくださいってな。おめえがそれまで辛抱……」
岩淵が言い終らぬうちに、
「じょーかーん!」
と、入口を立哨している赤羽が、大声を張り上げた。
最初は、痺れをきらせた哨兵長が出て来たものと思ったが、赤羽の悲壮な声の感じからして、そうでないことをすぐに悟った。異常を感じた男たちは、バネがはじけるように、慌てて窪地を跳ね上がった。
そのときは、しかし、既に遅かった。男たちの前には、今頃の時刻に来るはずのない、あの巡察将校が巌のように立ちはだかっていた。
巡察の少尉は、真っ先に飛び上がって狼狽のあまり将校に対する敬礼の捧げ銃を忘れた曳田に歯を剥いて、声よりも拳のほうが先に来て、曳田の頬桁が、鈍い音を立てた。
「兵隊の分際で貴様、それが将校に対する態度か!」
と、左の拳が伸びて、曳田の反対の頬を打ちのめした。
「貴様ら、そこでなにをしとったか! 徒党を組んで、妄りに部署を離れた理由を言え!」
と、今度は右手の拳が来て、
「言えんのか、貴様!」
と、曳田に喋る暇を与えず、もう一発殴打して突き飛ばした。
「重要な任務を放棄して、なぜ持ち場を離れたか、その理由を言え!」
と、岩淵に移って、左右の頬へ打撃を加え、
「答えろ!」
と、次に控えた有帆の顔面に、強烈な鉄拳を食いこませた。
両手の拳を巧みに操る機械的な動きは、余程手慣れていなければできない技である。曳田だけが余分に殴られただけ、唇が裂けて血を滲ませていた。
「よし、言いたくなければ黙っていろ。その代り、貴様らを、服務規程違反で重営倉にぶちこんでやる。覚悟しておけ!」
これには、男たちの身体が芯まで凍りついた。腫れ上がった口を歪ませた曳田が、自分のことを棚に上げて、慌てて一歩踏み出してかかとを打ち鳴らした。たかが煙草を喫った程度のことで、これ以上殴られるのも、重営倉もたまらないと考えたのだ。
「も、申し上げます」
「よし、言え!」
少尉は、挑むように曳田の前に立った。
「許可は……」
「許可がどうした」
「……」
「さっさと言わんか!」
と、またも鉄拳が曳田の顔面に飛んだ。怯えきった曳田は、切れた唇を慄わせながら呟くように答えた。
「許可は……哨兵長殿であります、少尉殿。哨兵長殿は、もう巡察はないから、随時休憩してもいいと……」
驚いた岩淵が曳田の肘を突いたが、曳田の口から出た言葉はもう取り消しも訂正もできない。
少尉の唇が陰険に歪んだ。
「間違いないな」
曳田は認めるしかない。認めなければ、さらなる強打を被る羽目になる。
「そうであります」
「いまの言葉に二言はないな!」
少尉が念を押した。
「ありません!」
破れかぶれに答えた曳田に、少尉の眼尻が、陰湿な痙攣を起こした。
「よし。俺が戻るまで、貴様らはその場で不動の姿勢だ」
男たちを睨めつけた少尉は、哨舎へ踵を(きびす)返した。
一方、赤羽から急報を受けた寿は、血相を変えて哨舎を飛び出していた。
喫煙場所は、弾薬庫入口を出たそこである。その入口を寿が駈け抜けようとしたところで、少尉と鉢合わせた。
少尉は、不動の挙手をした寿を認めるなり、歯を剝くと、無言のまま、いきなり寿の頬へ鉄拳を浴びせた。不意を喰らった寿は、横飛びに崩れた。
「立て!」
少尉が号んだ。
「立たんか!」
と、怒声を放って、起き上がろうとする寿の脇腹へ長靴の先を強烈に食いこませた。
寿は激痛を堪え、脇腹を押さえて、低く唸った。その呻き声に、少尉は、鼻で嗤ったようである。くの字に横たわった寿の頭鉢に、体重のかかった長靴を、じわりと捩りこんだ。
長靴の鉄鋲と、硬い大地の地肌に噛みつかれた寿の頭部に、意識が奪われそうなほどの激痛が貫いた。
「そのままで聞け。耳は塞いどらんから、よく聞こえるはずだ」
少尉は、苦悶に喘ぐ下士官を見下ろして、さらに長靴を捩った。
「伍長の分際で、貴様、服務規程を無視するとは見上げた奴だ。貴様、いつから連隊長並の権限を持った。所定以外の陣地内での喫煙は、如何なる場所においても厳禁であることは、下士官の貴様がいちばんよく心得ているはずだぞ!」
執拗に攻める長靴は寿の意識を朦朧とさせはじめた。
このとき、少尉が、そのまま力を抜かずにつづけていれば、寿は、そのまま悶絶していたにちがいない。あとで考えると、そのほうがよかったのだが、そのときは、頑固な意地がそうさせなかった。
「立て!」
舌打ちをした少尉の長靴が、頭から外された。
寿は、立とうとしたが、あまりの激痛に、すぐには起き上がることができず、それを振り払うように、四這のまま、二三度こうべを振った。
そこへ、またも強烈な足蹴りが、脇腹に来た。
「さっさと立たんか、馬鹿者が! 立って釈明しろ!」
と、呶鳴りあげて、
「貴様ァ、将校をなめとるな!」
少尉の長靴が、脇腹から大腿部に移って、まるで枯れ枝を折るかのように、踏みつけ、狂ったように蹴りまくった。
寿は、相手が将校であることから、激痛を堪えてじっと耐えていたが、少尉の執拗な暴力に、遂に正常な歯車が逆転してしまった。
激痛を忘れて跳ね上がると、
「こン外道されが! ぬしゃいつまでやるとか!」
怒声とともに、少尉の顔面に一撃を加えた。
「きさん、それでも将校か!」
と、間髪入れずにもう一撃を放った。
この一撃は、少尉の鼻骨を折ったようである。鈍い音と、骨の折れる感触が拳に伝わると同時に、少尉の鼻から、鼻血が吹き出た。そこまでは、寿には記憶があったが、しかし、それからのことは、この少尉がどうしてこうなったのかの記憶が途切れてしまっていて、我に返ったときは、赤羽の声がすぐ耳許で喚いていた。
「これ以上やれば死にますぜ、班長殿! こいつを殺す気ですかい!」
その声を意識したときには、赤羽の丸太のような腕が寿を羽交締めにしていて、見下ろすと、少尉は、顔面血まみれとなっていて、半死の状態で白眼を剝いて悶絶していた。
「そのくらいやれば、もう充分ですぜ」
赤羽の巨体が寿から離れた。
「俺がこの場にいたからよかったですがね、そうでなかったら、班長殿は、この野郎を殺しているところでしたよ」
寿の兇暴性を改めて実感した赤羽の口髯は慄えていた。
正気を取り戻した寿は、内心で、このあとのことを心配したが、起こしてしまったものは、いまさら取り消しができないと、肚を据えて開き直っていた。
寿は、何事もなかったかのような顔をして、少尉を抱え起こした。
顔を覗きこみ、それから襟首を掴んで頬を張った。
「おい、巡察将校!」
と、少尉を揺すって、また頬を二三発張った。
少尉の意識が戻った。
寿の顔に安堵の色が浮かんだ。大怪我を負わせたようだが、生きていれば、どうにかなる。咄嗟にそう思った。
「おい少尉、聞こえるか」
「……」
寿は襟首を掴んで揺すった。
「返事ばせんか、きさん!」
意識朦朧とした少尉は、虚ろな眼を開いただけで、答えることができなかった。
「返事がでけんでも、わしン言うことはわかるの!」
少尉は、幽かに反応を示した。
「出会い頭にぞ、いきなり暴力ば振るうけん、こげん羽目ばなっとぞ。よし、これからおまんを、医務室ば連れて行って手当ばしちゃる。わかったか!」
寿はもう一度少尉を揺すった。
「おい、聞こえとるんか! 返事ばせんか、きさん!」
少尉の意識は朦朧としているが、寿の声は届いているようであった。
「アバラ骨の二三本は折れとるかもしらんが、安心せい。こン程度の怪我で死にはせん。これはきさんが先に仕掛けた暴力やけんの、わしは正当な防衛ばしただけぞ!」
と、少尉を、引き起こして、諭すように言った。
「おい、よく聞くとぞ。医務室で軍医に問われたら、こう言え。深夜の弾薬庫不定期巡察中に、おまんは誤って弾薬庫裏の堀に足ば滑らせた。あすこは立ち入り禁止区域になっとるばってんが、おまんは着任早々やけん、知らなんだと言えば通る。それに、あすこは暗かけんの。立札ば立っとるが、そげなもん、あげな暗がりじゃなんも見えやせん。怪我は、そン掘ば誤って滑り落ちたもんで、庫外巡視中のわしに助けられた。そげ言うとぞ。どげな。言えるか!」
寿は、少尉の肩を、また揺すった。
少尉の反応は、依然と薄かったが、寿の声は届いたようである。
「よし、おまんも幹候上がりとはいえ、パリパリの少尉たい。そン将校がぞ、伍長ンごときにやられたとは口が裂けても言えんばい。言うてもよかばってんが、ただし、将校連中は誰も信じやせんぞ。喋るだけ、おまんの面子ば丸潰れになって、点数が下がるだけぞ」
言い含めて、寿は、赤羽に少尉を担がせて、医務室へ行った。
これを悉に見届けたのは、外に出ていた哨兵と、それを哨舎の蔭で視ていた小出二等兵であった。曳田は、巧みにその場から逃げていて、小出の傍に身を潜めていた。
寿と赤羽に、両脇を支えられて医務室へ運ばれた少尉は、殆ど意識不明の状態に陥っていた。
凄まじい怪我の状態を診た軍医は、首をかしげて、二人を訝しげに視たが、少尉に事情を聞こうにも、当人は意識朦朧として口が利けず、寿が少尉に言ったことを、軍医にそのまま伝えると、軍医は、まさか将校が兵隊に暴行を加えられたとは思いもしなかったから、寿の報告を、疑心暗鬼のまま受けて衛生下士を呼んだ。
「この患者を、明朝北安へ担送する。手配をしておけ」