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内務班は、不思議と穏やかな日がつづいて、何事もない、奇跡的な一週間が過ぎた。
その週末の午後、訓練で泥だらけとなって帰営すると、入口の掲示板に、一部の進級が告示されてあった。
寿は、進級こそしなかったものの、伍長勤務(伍勤)を命ぜられた。班内の男たちのなかには、うなずく者もいたが、砲兵から歩兵に転じた柳井兵長は、これは不満の色を露骨に現していた。転属して間もない予備役に、内務掛を奪われ、今度は伍勤を攫われたのが、どうやら面白くないらしく、これを堺にして、柳井の眼が、寿に対して陰険になりはじめた。
伍勤兵長は、下士官に匹敵する待遇である。階級は兵長のままだが、早い話が、見習い下士官のようなもので、兵一般の勤務から外れて、下士官の勤務に就くのである。これは、近い将来、伍長に進級するという確約を貰ったも同然で、その兵隊は、下士官や将校からも一目置かれ、中隊の兵隊からは、押しも押されもせぬ、羨望の眼差しを注がれる存在となるのである。
兵隊のなかから、伍勤(兵長または上等兵から選抜)に選ばれるのは、極めて少数である。それも、学科・術科・内務とも優良な兵隊が選抜されることになっている。
寿の場合は、年次からして、当然の抜擢と言えなくもなかったが、これには、深谷の別の思惑があってのことであった。
その答えを出してくれたのは、砲兵から歩兵に転用された、所謂「歩兵成り下がり」の古参兵であった。
それは、進級発令があってから、三日後のことであった。
初年兵に混じって、演習後の、いつもの兵器の手入れをしている際に、関特演の元砲兵、四年兵の赤羽と名乗る上等兵が、ノソリと寿に歩み寄ったことからはじまった。
この男、さすがに砲兵出身だけあって、優れた体躯の持主であった。地肌が元々そうなのか、あるいは必要以上の日焼けからそう見えるのか、その顔は、まるで、南国の異人を思わせる容貌であった。日頃から、なにを考えているのかわからず、穏やかに話をしているからと少しでも気を弛めると、突如と豹変して兇暴になる。このことから、満砲(満洲砲兵隊)の黒熊という威名を持ち、まるで、森から抜け出た黒熊がそのまま戎衣を纏っているようで、中隊の兵隊たちは、この赤羽が傍を通るだけで、身も心も縮み上がるほどであった。
遜河沿岸の監視分哨に出されていた赤羽は、通常の勤務ならば一ヶ月で戻るはずのものが、異常とも言える粗暴な性格が禍して、赤羽だけは交代が許されず、そのまま残留となって分哨へ残されていた札付きであった。軍隊で謂う、懲罰勤務というやつである。
分哨は、しかし、練達した多くの下士兵が外地へ抽出されたため、これに就く殆どの哨兵が二年兵以下の兵隊ばかりで、それを指揮する下士官すらも、乙幹上がりの二年兵であったりした。
軍隊の兵隊間の序列は、必ずしも星の数とは限らない。公の場所は別として、内務班では階級よりも飯の数、つまり、年次がものを言うところでもある。このため、中隊から隔絶されたも同然の分哨では、たとえ下士官と雖も、年次が浅ければ、関特演の四年兵には、頭が上がらないのである。結果的には、下士官は、赤羽の恣意的言動を黙認する有様で、赤羽に対しての懲罰勤務は、まったく意味をなさないものとなり、分哨交代が行われるたびに、下士官から、赤羽に対する処遇を不満とする意見が、人事掛に具申されるという、中隊人事にとっては、頭を抱える、由々しき問題に発展していた。深谷も、中隊長に、赤羽の上官に対する態度を、意見具申してみたが、この中隊長は、我が身の保身を優先する男らしく、転属させるのはいいが、ホ隊(歩兵砲中隊)から編入したばかりの者をいま出すことは、彼の原隊との摩擦を起こしかねない。したがって、中隊の名誉を保つためにもそれはできん。転属以外に他の方策があるならば、手段は問わぬから、あとは貴公にまかせると逃げる始末であった。
それを受けた深谷は、中隊長の言った他のなにかの方策を考えたらしく、部隊の再編成が行われる機会を頃合いと判断して、赤羽の分哨勤務を解き、寿の班へ編入することにして中隊へ戻したのである。
寿は、赤羽の編入を、耕介から事前に知らされていたが、その折に、「程度の悪い奴を一人お前の班に入れる」と、だけ聞かされていて、それ以上のことはなにも知らされずに、そのときは、軽く受けたに過ぎなかった。「程度の悪い」兵隊は、どこの部隊にも一人や二人は存在するからである。
ただ、その男が帰隊して、内務掛兵長の寿に形だけの申告をした際の態度に、寿は、この男とは、いつか何事か起こらん不穏な空気を抱いていた。
その男が、
「ちょいと邪魔をしますよ」
と、営内靴を擦って寿に歩み寄って巨体を立てたから、赤羽を知る班内の男たちは、揃って硬い表情になった。こういう物腰のときは、普段よりも兇暴になることを知っているのである。
「赤羽上等兵、伍勤ヘーチョーどのにお尋ねしたいことがありますが、よくありますか」
と、頭からなめた口調でかかってきた。
その顔に、寿が棘のある眼を向けると、
「おっといけねえ。あんたは下士待遇でいらっしゃるお方だそうだから、敬意を払って、ハンチョーどのとお呼びするほうがいいのかな」
と、相手が上官であることなど意に介さぬ顔で、仲間に振り向いてニタリと嗤いを送った。
「ま、そんなことはどっちでもいいことだが、あんたは予備役らしいが、ハルハを越えた口ですかい」
この男の言うハルハとは、昭和十四年(一九三九)五月に、関東軍と外蒙古軍が国境線を巡って、ハルハ河西方のホロンバイルの平原で激戦となったノモンハン事件を指している。赤羽は、寿がこれに参加していない内地の予備役であることを承知の上で、質悪く訊いているのである。
関特演以来、四年もの荒んだ砲兵の歳月がこの男の性格を捩じ曲げたのは仕方がないにせよ、この男は、軍隊の上下間に対する分別すらも捩じ曲げているようであった。
寿は、遊底を外して撃茎駐胛(撃針などの機関部が納められている筒)を抜きながら、
「そう言うおまんは、ノモンハンばやったとか? それやったら、生き残ったおまんに、敬意ば払わにゃならんばい」
と、駐胛から抜いた撃針を洗いながら言葉を返した。
ノモンハンの激戦は、関東軍に属した当時の兵隊なら知らぬ者はいない。外蒙古はソ連の属性ということでソ連がこれに介入し、第二十三師団(長小松原道太郎中将)が兵力の九割を損耗させる大打撃を蒙り、この責任を取らされた連隊長級の指揮官が自決した事件だからで、寿は、これを赤羽に皮肉ったのである。
これが、満砲の黒熊の癇に触ったようである。黒熊が、白眼を剥いた。
「俺ァあんたに訊いてるんだよ、訊かれたことにまず答えて貰いてえな」
本来の寿なら、この一言で逆上して、相手に有無を言わさぬ鉄拳を浴びせているところだが、逆に少しからかってやりたい意地悪い気持ちが働いて、解いた遊底の部品を点検しながら、鼻先で軽くあしらった。
「なんね、ちがうとね。わしゃおまんの鼻息が荒かけん、てっきりノモンハン帰りの猛者ば思うたけんが、ちょっと誇大評価したようたいの。いや、オイは十二年の予備役やばってんが、残念なごつ、そンときは除隊ばしちょってくさ、ノモンハンは知らんとじゃ。ま、年次だけァおまんより喰ろうとるばってんが、で、オイとそのノモンハンが、どげな関係があっとな」
大抵の男なら、これで話は終わりである。だが、歩兵の年次など屁とも思っていない赤羽には、そのような分別はない。赫々たる砲兵が、歩兵ごときの軟弱な予備役に顎で使われてたまるかという、歩兵をどこまでも蔑んだ偏見と驕りが、肚の底にあるだけである。
敵愾心に燃えた赤羽の眼が、底光りをし始めた。
「いや、そうじゃねえんだ。俺が言いてえのは、俺の留守中にこの連中が世話になったそうだから、連中に代わってちょいと御挨拶を申し上げたいと思ったのさ」
「ほう。そりゃ殊勝な心懸たい。で、どげな挨拶ば賜るとな?」
と、寿は、洗い終えた撃茎尖頭を駐胛へ戻して、それを小銃の機関部へ組み入れた。
赤羽は、それを睨むように見つめている。いつもなら、このような回りくどい問答など、する男ではない。腕力にものを言わせて、相手に喋る余裕を与えずに飛びこんでいるところである。それなのに、動かずに手を出さないのは、寿が手にしている小銃が気になっているのである。気になっているのは、天子様から下賜された、命より大切な兵器を気遣ったのではない。迂闊に動けば、その小銃の銃床が跳ね上がって来かねない。それを警戒しているのである。
赤羽が、寿の銃に顎をしゃくって、挑発的に言った。
「兵長さんよ、そいつを、ちょいと横へ置いてくれませんかね。そいつに万一のことがあっちゃ天子様に申し開きが立たねえ」
古参の下士官でさえ怯む関特演の四年兵である。筋骨隆々たる赤羽から見れば、寿は毛の生えた牛蒡程度にしか見えてはいないのである。それは、しかし、赤羽だけでなく、誰の眼から見ても同じであった。赤羽の分厚い平手一発で、寿は瞬時に骨まで砕けそうなのである。班内の誰もが、そう思って、息を詰めていたが、それが読みちがいであることなど、誰も考えもしていなかった。殊に腕力を過信している赤羽は、自分が大きな誤算をしていることなど、些かも考えはしなかった。
赤羽は、相手との間合いを測って、半歩ほど詰めた。相手の小銃が万一跳ね上がっても、それを瞬時に躱して、いつでも飛びかかれる距離を取ったのだ。
間合いを詰めた分、赤羽の言葉がぞんざいになった。
「さ、早いとこ、そいつを片づて貰おうか。お前さんのその大事なお宝を粗末にしたとあっちゃ、班長さんよ、始末書だけじゃ済まねえぜ」
どうやら、穏やかに作業をさせてくれそうもない雰囲気である。班内に、陰険な雲行きが、覆い被さった。
寿は、肚の底から衝き上がる怒りを抑えながら、小銃の安全子を閉じると、小銃を腰の位置へ落として、肚で苦笑した。こげん男は、弱か奴を腕力で雌伏ばさする外道たい。炭鉱にも、こげなゲスが何匹かおったとやが、まっこと、どこン世界にも能無しの阿呆はおるもんたい。
と、全身の筋肉を引き締めて、闘志を内に燃やしたが、相手の出方を探るためにそれは秘めたまま、平静を装った。
「そげん気負うごたァなかろうがくさ。おまんが上等の兵隊さんやゆうこつァ、おまんがこン内務班に入ったときから承知しとうけん、の、いまさらそげん意気こむこたァなかばい。そいに、みんな静かに作業ばしよっとじゃけ、の、穏やかにやらせてくれんね」
と、やんわりと言葉を押し被せると、黒熊は、なぜかニタリと笑った。笑うと、ただでさえ厳めしい面が、さらなる凄味を増して、その口がこうまくし立てた。
「俺ァなにも事を荒立てようとは思っちゃいねえんだ。ただ俺が癪なのはだな、俺たち砲兵は、歩兵操典も鉄砲もろくに扱えねえ不器用な野郎ばかりと鼻で嗤われていることだ。そう思っている歩兵は、さぞかし優秀なんだろうがよ、見損なって貰っちゃ困るんだ。俺たちの腕力体力は歩兵の非じゃねえってことを、おめえさんたちゃ知らなすぎるんだ。だから、そこでだ、歩兵生え抜きの学術優秀な伍勤さんにだな、その歩兵の本領とやらを、一つご教授賜りたいもんだと、そう思ってご挨拶申し上げたってわけだ」
歩兵科の男たちは、赤羽が口を開くたびに、血の気を引かせていた。赤羽の態度が、これまでの出方とはまったく異質なのである。それに、この勝負は、はじめから兵長には勝算がないと、誰もがそう思って、奥歯を嚙み締めて見ているのである。つまり、兵長が伸ばされたあとの次に廻って来るのは、まちがいなく自分たちの番であると、彼らの全身に恐怖が絡みついているからである。今度ばかりは、歯の一本欠けるのは覚悟したほうがよさそうである。
「歩兵の躾は、だ」
と、赤羽の眼が、慄え上がっている初年兵をなめた。
「この連中同様、どうやら俺たち砲兵上がりにも甘すぎるらしい」
赤羽は、どす黒く笑って、今度は、砲兵の群れに顎をしゃくった。
「あのとおり、歩兵の躾が甘いもんでね、砲兵の連中まで根性が懶っくれちまった。歩兵の特効薬は、ちっとも効き目がねえらしい。ちょうど潮時だ、伍勤さんのあんたにだな、俺たちのこの腐りきった根性をだ、あんたのこいつで、このゲンコツで叩き直して貰うと、俺たちも歩兵さんを見直して背筋もピリッとするんだが、どうですかね」
と、岩の塊のような拳を露骨に突き出して、また初年兵を睨めつけた。
寿は、意地悪く、もう少し遊んでやりたい気持ちを動かしたが、初年兵たちのあまりに怯えきった様子を視て、赤羽の言うように、どうやらここらが潮時だろうと考え直して、自ら抑制のバネを切ることにした。
――こりゃオイより根性の悪か兵隊ばい。こげん奴をのさばらせとるけん、いつまでも軍隊内部の不条理は無うならんとじゃ!
これまでは、軍隊の慣習に倣って、古参兵の素行は大目に見てきたが、それも、ここまでのようである。諍いは必ずしも寿の好むところではないが、力にものを言わせるというのであれば、力で対抗するよりほか、この男には説きようはなさそうであった。
身に憶えのない売られた喧嘩だが、相手に道徳の分別がなければそれを力で教えてやるまでである。それに、高が知れた関特演程度の年次の兵隊に、言い掛かりをつけられて黙っているのも示しがつかない。一度は軍隊を離れたとはいえ、現役叩き上げの予備役である。内務掛兵長としての面子もある。いや、それよりも重要なのは、班の兵隊たちに、年次を食っただけの、口先だけの軟弱な兵長と侮られることである。そう思われないためには、それを知らしめる必要があった。
寿は、肚をくくった。この程度のゲス一匹始末したところで、軍隊の不条理はなくなるものではないし、くだらぬことで、折角の伍勤を棒に振るのも、営倉行きも本意ではなかったが、こうなったら、それもやむを得まい。どうせ罰せられるのなら、この腐敗しきった内務班を徹底的に掃除してから受けてやる!
軍隊の内務班よりも殺伐とした炭鉱で精魂を鍛えた寿である。腕力を鼻にかけている赤羽とちがって、根性は赤羽とは桁外れに据わっているのである。
喧嘩で勝機を摑むには、とにもかくにも、相手よりも先に敵の弱点を衝くことにあるのは自明である。こやつは頑強な肉体を持っているが、この程度の男を床に伸ばすには、ほんの一秒もあれば充分であると、この数日間の赤羽の素行をさり気なく観察している寿には、赤羽の急所を既に見破っている。初年兵の恐々とした視線を意識しながら、寿は、赤羽の挑戦を受けることにした。
「そうね……」
と、さり気なく間合いを詰めて、
「ぬしゃ、よっぽどピリッとさして欲しかとやの」
と、兇険な視線を放った。
逆に挑まれた恰好となった赤羽は、歯を剝いて反射的に一歩退いて身構えた。相手が手にしている銃の床尾の脅威を、今度は本気で警戒したのだ。
寿はその分だけまた詰めた。
「どげしたとや」
「……」
赤羽は、相手との間合いを保つために、また退がった。
「答えられんとか、上等兵!」
寿の語気が尖った。
赤羽も、背後の古参兵たちも、相手がこういう形で出て来るとは予想してはいなかったらしい。寿の逆襲に、班内の緊張が、押し寄せる波騒のように高まった。
「きさん、オイをどげな風に視とるか知らんばってんが、オイを甘か見ると、ぬしゃ後悔ばする羽目になるとぞ。そいでもよかね。きさんがいま退くとなら、オイは眼ばつむって知らんごつしちゃるが、きさんにそいがでけんとなら、仕方なか、そン証明をきさんにするまでたい。どげな、上等兵!」
寿の挑む声に、赤羽は跳ねるようにまた二三歩退って攻撃態勢を立て直した。
「上等だ。見せて貰おうじゃねえか!」
赤羽の白眼が光った。
「俺ァ、てっきり骨抜きの伍勤とばかり思っていたが、こいつはどうだ。少々骨太ときて安心したぜ」
それを受けた仲間の一人が、赤羽の背後からアジった。
「おい赤羽、俺たち砲兵はな、軟弱な歩兵とは鍛え方がちがうんだぞ。そこんところをだな、その伍勤さんにとっくとお見せして差し上げろ。それを充分承知して貰った上でだ、俺たちと和平交渉と行こうじゃねえかよ」
アジったのは、赤羽と同年兵の有帆一等兵である。
「おめえは一屯もの大砲を一人で引っ張るほどの剛力の持主だ。その伍勤さんは、お前の力量をまだご存じねえからな、この場をお借りして、砲兵の権威とやらをお見せして差し上げろ。ただしだ、とびきり上等なやつをだぞ!」
赤羽の背後で、嘲笑のどよめきが起こった。
「そうだ。内地や後方のなまくれた部隊とは根性がちがうってところをだな、おめえのその剛腕でだ、たっぷりとお示しして差し上げろ!」
と、誰かが囃し立てると、群れの蔭から、また別の声が来た。
「大砲を扱わせりゃ俺たちは金鵄勲章ものだが、如何せん歩兵の操典はからっきしだ。おい赤羽、その伍勤さんに歩兵の操典ってやつをだな、よーく教わりな。だが言っとくぜ、その前に、砲兵の操典をこってりと教授してからだぞ。そのあとは俺たちにまかせろい」
露骨に声を被せたのは、これも赤羽と同年兵の札付き一等兵曳田である。この男、自分より強い者に雌伏することで、いつも自分を有利な立場に置く狡猾な男で、下級者には、歩く姿にも難癖をつけてビンタを取るという悪疫を、部隊じゅうにばら撒いている呆れ者である。
その男が、自分たちの帰趨を考えずして、言うのである。
「ここじゃ俺たちの体が鈍ってよ、体を動かすことと言やァ、歩兵の愚図どもにヤキを入れてやるくらいのもんだからな!」
嘲るように笑うと、また別のが、すかさず口を入れた。
「おい赤羽、この内務班じゃお前は関特演の最古参だ。遠慮なんか要らんぞ。この内務班がどんな風に保たれているか、そいつをお教え申し上げろい!」
柳井の声である。これは、転属の兵長に伍勤を攫われた個人的な妬みが含まれている。寿の存在がなければ、今頃は内務掛兵長の伍勤として、班内で胡坐をかいていられたのだ。
「どうした赤羽、早いとこ済ませちまえ。いつものお前らしくねえぞ」
曳田が急き立てると、今度は女の声色が引き継いだ。
「そうよ、気を揉ませないで早くやってちょうだいよ。もたもたしてると、晩ご飯、お預けになっちゃうわよ」
癇に触る古参兵たちの嘲笑が沸いた。
この仲間の援護で、赤羽の浅はかな闘志が、さらに奮い立った。
「聞いたかい伍勤さんよ、みんなもああ言ってるんだ。あんたの歩兵の躾とやらを見せて貰おうぜ。山椒程度じゃつまらねえよ。額から汗が噴き出るほどの刺戟の強い薬味だ。そいつを一つ頼みますぜ」
――まっこと、脳味噌ば潰れちょる阿呆ばっかり揃うとるばい!
砲兵たちの軽薄な悪罵を辛抱強く聞いているうちに、寿は、怒りよりも、馬鹿を相手にしている自分があほらしくなって、口許が思わず弛んだ。
「笑いやがったな。なにがおかしい!」
寿の手元を気にして動けずにいる猛獣が、苛立って、吼えた。
寿は、それに答えて、むずがる幼子を宥めるように片手を突き出して、言った。
「そンぐらいで、もうよかばい。おまんの強か気迫はようわかったけん。の。もうこの辺で勘弁しちゃらんね」
「勘弁だと? いまさらなにぬかす! 銃を置け!」
赤羽が、鼻息を荒げた。
「わかった。ようわかったけん、降参じゃ」
うなずいた寿は、体を飯台へ捻って小銃を置いた。
その僅かな動作が、赤羽の眼には、隙と映ったようである。眼尻を烈しく痙攣させると同時に、
「野郎! ひねり潰してやる!」
と、巨体が揺れて、丸太のような、太い腕が伸びて、寿の後頭部へ、鋼鉄のような拳が襲いかかった。
その次の瞬間的な出来事は、眼の前の初年兵たち以外は、誰も眼にしなかったし、当の赤羽自身が、いったいなにが起こったのか、皆目わからなかった。それを思考する前に、赤羽本人の意識が消えてしまっていたのである。
古参兵たちが、予想外の結末に気づいたときは、赤羽の巨体は、床に崩れて、その震動が、個々の足下に伝わってからである。それでも古参兵たちは、まだ事情が呑みこめないらしく、倒れた赤羽に怪訝な視線を注いで、その場に茫然と立ち竦んでいた。
誰の眼も、赤羽の鉄拳は、寿の後頭部を打ち砕いたものと見えたのだ。だが、それよりも素早く、寿の炭鉱で鍛えられた鋼のような肘鉄が下から突き上がり、赤羽の喉元へ直突していたことなど、赤羽の巨体に遮られたために、古兵たちは誰も見てはいなかったのである。
寿は、床に横たわった巨体に、冷やかな嗤いを落とした。
「きさんが望んだ辛か薬味ぞ。どげな、ぴりっとする暇はなかったろうがくさ」
言いながら、微動だにしない赤羽の横腹を、営内靴の先で軽く小突いて、
「わしァ手加減ばしたつもりやったけんが、こりゃ少々薬味が強かごつあったようたいの」
と、顔を上げると、いきなり古参兵の群れに、怒声を浴びせた。
「なにボケーっとしよっとか、きさんら! おどれらの親分が伸びとるんぞ。早よ介抱ばしちゃらんかい!」
二三の古参兵が弾けるように動いて、赤羽の巨体を牽き擦って寝台へ運んだ。それを見届けて、寿は、血の気を引かせて佇立している初年兵たちに振り向いた。
「手ば休めちゃならん。きさんらはそのまま作業じゃ」
初年兵たちは、一斉に手を動かしはじめたが、しかし、手を動かしはしたが、その眼は、落ち着きがなかった。つい今し方までは、腹の内では、年次を笠に着ただけの軟弱な古参兵ではないかと、疑念を抱いていたのだ。それがどうだ。軟弱どころか、あの赤羽の巨体を、たったの一撃で、なんの苦もなく床に伸ばしたのだ。彼らは、事態が予想外の方向へ急転回したことに、今度はその顛末が気になって、落ち着かないのである。
寿は、その視線を背で意識しながら、砲兵の群れに、ずかずかと歩み寄った。
「おい砲兵!」
と、呶鳴り上げた一声は、元砲兵たちはもとより、班内の男たちの顔色を一変させた。
「寝台の前へ、整列ばせい!」
怒声に弾かれて不動の姿勢をとった古参兵の一人に歩み寄った寿は、その男に、凄まじい眼光を放った。
「おい、きさん、柳井兵長どん。こン内務班がどげに変わったか、そいをこってりとわしに教えてくれるそうやが、どげな? いまがちょうどよか頃合いぞ、そいをおせーてくれんね、砲兵の操典が、どうとかとも言うたの」
蒼白になった柳井の頬が、引きつけを起こしたように烈しく痙攣した。
「それは、俺じゃねえよ。曳田が……」
と、答えようとすると、
「なんばぬかすか!」
と、間髪入れずに、いきなり強烈な鉄拳が柳井の鼻頭に飛んで、鼻血を噴き出した柳井は、これも一撃で床に叩き伏せられた。
「ばかったれが、おのれが火つけばした張本人のくせしくさってからに! よ、高が四年兵の分際で、きさん、誰に口ば聞いとっとや!」
罵倒した寿は、柳井の脇腹をしたたかに蹴り上げた。柳井は、低い呻き声を洩らして、簡単に悶絶してしまった。
「まだおったばい。体ば鈍ってどげとか言うた奴がの。言うた奴ァ出て来い! わしがそン体ばほぐしちゃる」
あの黒熊の巨体を、軽々と一撃で倒した寿に仰天している古参兵たちは、不動の姿勢のまま、誰も動こうとはしなかった。一言でも口を開けば、赤羽や柳井の二の舞になるのは、誰もの眼に見えているのである。
古参兵たちの黙っている態度に、まだなめられていると感じた寿は、さらに感情を激化させた。
「誰も出らんとか。ふん、鼻息だきゃいっぱしの根性ばしとるばってんが、腹ンなかァ尻の穴まで腐れ切っとるようたい。よし、よかぞ。そン性根を、いまからオイが叩き直しちゃるばってん、腹ン力ば入れて、覚悟ばせい。奥歯ァ折らんごつ、しっかと噛み締めるとぞ!」
眼の前の兵隊に一撃を喰らわせて、寿の呵責のない壮絶な制裁がはじまった。これは、元砲兵の古参兵たちも、歩兵の古兵も、いままで誰も見たことも味わったこともない、まるで死の拷問とも言える私刑であった。砲兵たちの顔面は、忽ちにして歪み、鼻骨は折れ、唇が裂けて、折れた歯が血しぶきとともに飛び散った。少しでも抵抗しようものなら、寿は、その者の顔面を滅多打ちにして、床に投げ伏せて、所構わず蹴りまくった。古参兵たちの襦袢も、寿の襦袢も、床も、見てる間に血に染まった。あまりの残忍さに、腰を抜かして小便を洩らす砲兵もいた。寿は、しかし、それに対しても、容赦しなかった。洩らした小便に口を当てつけて、踏みつけ、血に染まった床の小便を吸わせた。
「どげか、よ、おのれがしぶかった(洩らした)小便ぞ、美味かろうがくさ。こン与太もンめが、アホったれ、いつまで啜っとじゃ。さっさと立って、不動の姿勢ばとらんかい! わしン教育は、たったいまはじまったばかりぞ!」
と、腰を抜かしかけた男に怒声を浴びせると同時に、強烈な蹴りを顔面へ放った。
班内に苦悶の呻きと絶叫が飛び交った。
この班内の異常な騒ぎに気づいた下士官たちが、転がるように駈けて来た。
だが、下士官たちは、内務班へ入ったものの、修羅場と化した班内に総毛立って、そこからは一歩も動けなくなってしまった。
「……事務室の、曹長殿を呼んで来い」
蒼白になった先任の青海軍曹が小月伍長に囁いた。
寿は、下士官たちが入って来たことに気づいていたが、それを無視して、意地になった。
たまりかねた有帆一等兵が、下士官に縋りついて、半泣きに合掌して、哀願した。
「助けてください、班長殿! お願いであります。許してください、兵長殿! お願いであります。勘弁してください。兵長殿!」
「やかましか! 大けな図体ばしくさってこんゲスが、おなごンごつ、ギャアギャア喚くんやなか! 内地の留守隊の甘ったれた教育がどげなもんか、わしゃそいをきさんらに教授ばしとっとぞ。おとなしか授からんかい!」
と、有帆の襟首を引き上げ、既に歪になった顔面に営内靴の硬い靴底で張りあげ、巨体を蹴り飛ばして次に移った。
「おい、曳田、関特演の四年兵どんよ。きさんは、大砲ば扱わすると金鵄勲章もんの砲兵げなが、大砲がそげん偉かとか。よ、砲兵は、歩兵より偉かと、きさんの部隊じゃそげん教えちょっとか。よッ!」
手にしている営内靴のかかとの部分で、曳田の横面を打ち裂き、よろめいた曳田の襟首を掴んで、顔面を飯台へ叩きつけた。
「おい、きさん、さっきン威勢ばどげしたとや。よ、こン軟弱ば伍勤兵長様にぞ、きさんらの有難か操典ば、オイに教えてくれるとやなかったとか!」
言い放って蹴り飛ばすと、次には班内の窓ガラスが割れんばかりの怒声を放った。
「しゃきっと立たんかい、しゃきっと! こんにゃくンごつフニャフニャしくさってくさ、全員不動の姿勢じゃ!」
居合わせる下士官たちも、寿の気迫に圧倒されて、思わず反射的に不動の姿勢をとったほどである。
寿は、返り血を浴びた顔で、古参兵を睨めつけた。
「どげか。オイが申し送られた、こいが内地ン軟弱ば歩兵の有難か躾たい。どげな、ちったァ骨身ン沁みたばい」
ちょうどそのとき、被服倉庫に出向いていた、被服掛の上等兵が、戻って来て、班内の異常に、慌てて列に割りこんだのと、事務室の耕介が来たのとが、同時であった。このため、被服掛の上等兵だけが、難を逃れる幸運を得た。
耕介は、班内の、凄まじい荒れようを視て、一瞬間、ほくそ笑んだようであった。班内を一通り見廻してから、寿に歩み寄って、毅然と命じた。
「寿、もうそのへんでよか、やめておけ。それ以上やると、過剰暴力で営倉へ入ることになるぞ」
激昂している寿は、血に染まった顔を耕介に振って、歯を剥き上げた。
「おうよかぞ、営倉でん刑務所でん、どこでん入っちゃるがくさ。ばってん、そン前に、こン外道どもン精根ば叩き直してからたい! 半端もんの与太ンくせに、こン外道ら関特演を鼻ばかけよってくさ、わしら歩兵を頭からなめくさっとる。こげん外道どもは、徹底的に叩き潰さにゃならんとじゃ!」
「もうよか。とにかく、もうやめろ。これ以上隊規を紊乱する行為は俺が許さん」
と、耕介は、古参兵の一つ一つの顔を、鋭く睨めつけた。
「お前たちもだぞ! 今日のことは、俺は見なかったことにしてやるが、ただし、今回限りだぞ。これまでは大目に見たが、今度このような騒ぎを起こしたら、理由の如何を問わず、班長以下全員を軍規違反で処罰するからそう思え。わかったな!」
血に歪んだ古参兵たちの顔には、処罰の怖ろしさよりも、激烈な制裁から解放されたという安堵が色濃く滲み出ていた。
「よし、小月班長、こやつらを解散させて、班内を綺麗に片づけさせろ。これじゃ点呼も受けられん」
言いつけて、耕介は事務室へ退き下がった。
寿は、すぐにでも耕介から呼び出しがかかるだろうと、寝台へ戻って、返り血で汚れた顔と手を拭いていたが、なぜか耕介からの呼び出しはなかった。
それが気になって、事務室へ行こうとすると、初年兵の一人が寿を遮るように来て、
「兵長殿、襦袢を脱いでください。洗って来ます」
と、かかとを揃えた。寿が密かに眼をかけている一選抜候補者、補充役兵の野下二等兵であった。
「兵器の手入れは終わったとか?」
「終わっております。兵長殿の分もあれに」
寿は、銃架に、眼をやって、うなずくと、脱いだ襦袢を見つめて、
「こりァすぐに洗うても汚れは落ちん。暫く水に浸けて、あとで洗えばよか。そいより、班内の掃除が先じゃ。怪我のひどか奴ァ医務室へ行かせろ。わしァちょっと事務室へ行って来るけん」
清潔な襦袢に着替えて、痛々しそうに床の後始末をしている古参兵たちを一瞥して、寿は内務班を出て行った。
事務室では、事務要員たちは、何事もなかったように執務に没頭していたが、さすがにあの異常な騒ぎの動揺は隠せないようで、寿が入室した途端に、顔の表情を硬くした。
そのなかで、庶務掛の軍曹だけが、好奇に満ちた眼を向けていた。事務室曹長の深谷が、幼なじみの朋友をどう扱うか、興味津々なのである。
それを意識した深谷は、寿を自室に招き入れた。
「そいにしても、随分と派手にやらかしたの。私的制裁もあすこまでやりゃ、おまん、一つ間違えると犯罪行為で懲役もんぞ。ちったァ手加減ばするもんぞ」
と、小声でにが笑いを洩らした。
「すまん。オイは穏便に済ませるつもりやったけんが、どげもこげも、あれらの横暴な態度が我慢でけんでの。そいで、やんわり喝ば入れるつもりやったばってんが、少々手荒かごつあったかの」
と、こちらも、苦笑いで返すと、どういうわけか、耕介がいきなり壁板を叩いて、寿を呶鳴りつけた。
「馬鹿もん! 兵隊の分際で、きさん、あの騒ぎはなんのつもりか!」
耕介の突然の怒声に、寿は眼を丸くした。
「この国家非常時の大事な時局に、伍勤兵長ともあろうもんが、それも率先して隊規を紊乱するたァ言語道断ぞ! いくら親友のおまんじゃからゆうても、許せることと、許されんことがあるぞ! 少しはおのれの分ば弁えて行動せい。きさんには、軍人の分別ゆうもんはないのか、馬鹿もんが!」
耕介はさらに声を荒げて捲くし立てて、事務室側の壁板をまた二三度強く蹴り上げて、隣の将校居室側に張りつく寝台を蹴り上げた。
壁越しに聞く限りの物音と怒声からして、曹長の逆鱗は尋常ではないらしい。伍勤兵長は、朋友の曹長にそうとう痛めつけられているように、誰もが思ったはずである。
ニタリと笑った耕介は、眼を丸くして佇立している寿に、指を口許に立てて、片目をつむった。なんのことはない。隣の将校居室と事務室の気配を感じ取った耕介が、彼らの耳を欺くための猿芝居を演じたのである。両隣の部屋から、こそこそと人の動く気配と低い嘲笑が聞こえた。
苦笑を浮かべた耕介は、寿の肩を軽く叩いて耳打ちした。
「おまんがオイの幼馴染みやけん、おまんをなにかと特別扱いしよるゆう蔭口を敲かれとるけんの。やけん、こンくらいのことはしておかんと、あれらに示しがつかんとや。ま、気にするな」
そう言って、寝台に腰を下ろした。
「正直に言うばってんが、の、寿、おまんの行為は、公に褒めるようなもんやないが、おまんが班内の大掃除ばしてくれたことで、オイは歓んどるとよ。オイ以外にも、蔭で歓んどるもんがおるのも、確かぞ」
耕介は、隣の将校居室へ、チラと視線を投げた。
「連中も、こいでおとなしかごつなるやろばってんが、やけんがの、寿、そいはともかくとしてたい、オイの立場もちょっとは考えちゃれよ。この件は、オイは黙認ばするつもりやが、しかし、中隊長は、これをどげに受け留めるかの。あれだけの騒ぎを起こしたとやけん、なんぼなんでん、気づかんはずァなかけんの。ま、ほかン将校連中が誰も出て来んとこを見ると、たぶん、連中も知らん顔ばきめこむつもりやろが、そいはまァよかとしてたい、一つ言うとくばってんが、明日の勤務や訓練に欠員ば出すと、将校連中も、中隊長も黙っとらんぞ。人事掛のオイとしても、知らん顔がでけんごつなる。そげな拙かごつならんようにの」
つまりは、誰も練兵休を取らせるなということである。
それを寿は、うっそりと笑った。
「そン心配なら、オイよりも、小月班長のほうが充分心得とらすたい」
耕介は、淡く笑ってうなずいた。
「おまんの性格を知っとるんは、ここじゃオイと通堂軍曹どんだけやけんの。此度の件で、将校も下士連中も、おまんの資質ば知って一目置くたい。砲兵上がりの連中も、少しはおとなしかするやろばってんが、調子ば乗らんようにの。何事も自重ばすっとぞ。そいに、さっき小月にも言うたけんが、点呼時限までにゃ抜かりのなかごつ慎重にの。今夜の週番司令は、陸士出のパリパリの少尉やけんの。もうよか、帰ってそン被服ば着替えろ」
血糊の付着した軍袴の腰のあたりを視て嗤うと、耕介は、壁に向かって大声を張り上げた。
「いいか川尻、今後、このような不祥事をしでかしたら容赦はせんぞ。きさんを営倉にぶちこんで、徹底的にしごいてやるからそう思え! わかったか!」
「わかりました曹長殿! 以後、気をつけます。川尻兵長帰ります!」
寿も、営内靴で、床板が割れんばかりの音を立てると、大声を張り上げて、片眼をパチリとやった。
翌日、練兵休は一人も出なかった。出なかったと言うより、古兵のなかには、動くのもおぼつかない可哀想なほど痛めつけられた者もいたが、内務班長の小月伍長が、頑として休養を許可しなかったのである。
古兵たちは、痛んだ体を引き摺って、それぞれの勤務に出て行った。
中隊長は、口を閉ざしたままであった。これも、どうやら中隊の体面を保つ努力に専念したらしい。
この騒動は、その日には、連隊じゅうに知れ渡った。噂の伝搬が世間より速いのも、軍隊の特徴である。
だが、それよりも、中隊内で、ちょっとした椿事が起こった。今回の騒動で、中隊の空気が一変したのである。内務班の躾と称した古参兵の、あのいつもの初年兵いびりは、蔭では行われたようだが、中隊内を傍若無人に荒し廻っていた元砲兵たちが、まるで仔猫のようにおとなしくなり、紊れていた中隊の統制が正常に機能し始めたのである。
それを歓んだのは、中隊人事を掌る深谷であることは言うまでもないが、それ以上に肚の内で歓んだのは、中隊長以下の中堅幹部たちであった。
寿は、別段気にもかけずに、普段どおりの任務をこなしていたが、名実ともに中隊の実力者として、連隊将兵たちの脳裡に自分の名が刻まれたことまでは意識しなかった。