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通堂軍曹と再会した三日後、耕介の言ったとおり、中隊に大々的な改編が行われた。小出しに動員されて、蛻の殻となっていた第三中隊の第三分隊の新編分隊に配属された寿の内務班には、歩兵砲中隊からの編入者が大半を占める三十二名が割当てられた。寿は内務掛兵長となって、内務班の班長には小月という若い乙幹上がりの伍長が寿の直属の上官となった。
それと並行して、陣地でも若干の新旧交代が行われた。陣地から第一大隊の半数が出て行って、その穴埋めに、新たに臨時招集された二国の補充兵が、かつて寿たちが歩いた雪の曠野を辿ってやって来た。
この新たに招集された初年兵は、不憫なことに、火急の俄編成として招集されたために教育期間が短縮されて、一期検閲(約三ヶ月の教育)が終わると同時に本科兵となって、古参兵とともに慣れない実務に就けられた。
本来の初年兵教育期間は二年である。入隊初年度の一年は学科と術科(銃剣術と射撃及び戦闘教練全般)を徹底的に教練され、あとの一年は、本科兵見習いとしての教育実習である。
初年兵の教育は、第一期から第四期までの三ヶ月毎に検閲が設けられていて、その期間の教育が終了するたびに期末試験が行われていた。
入隊初年度の一期教育の最終日に行われる検閲の例を挙げると、検閲内容は、第一日目は学科と術科、第二日目は小隊単位の模擬戦闘訓練、そして最終日の第三日目が、兵隊の練度(主に体力)を問われる、三十キログラムを優に超える完全軍装を背負っての五十キロメートル検閲行軍であった。
この行軍は、さすがに兵隊の練度が問われるだけに過酷なものであった。午前六時に営庭を出発し、午後四時まで帰営した者は甲種、午後六時までが乙種、あとは屑の落伍兵として進級の対象から外されたのである。
ちなみに、第二期教育科目は、第一期科目の練度を更に高める教練と、第三期科目は作業(塹壕や戦闘壕構築等の諸作業)及び大隊教練が組まれ、第四期科目は連隊教練及び諸兵連合演習併びに旅団演習があり、一年の総決算として最後に師団秋季演習(十一月)が行われ、これにより初年兵の教育は終了するのである。
これでわかるように、短縮された三ヶ月程度の俄教育で熟達した兵隊が作れるはずがない。彼らは小銃もろくに射てない未成熟のまま、たったの三ヶ月間で教育を了わり、戦闘要員として充分な行動ができないまま戦場へ投入されたのである。
その不運な短縮理由はこうである。戦局多端となった昭和十九年以降は戦闘による兵力の損耗度が顕著となり、その逼迫した状況から早急に兵力を増員して戦場へ送る必要に迫られたことから、兵隊に対する教育(幹部候補教育を含む)すべてを大幅に短縮せざるを得なくなった事情からであった。
だが、本科兵になったからといっても、最下級の初年兵はあくまでも古兵たちの下僕に変わりはなかった。教育期間を短縮された代償として、古兵たちは、実戦の教育と称して初年兵を過度に絞り上げるから、彼らの辛さは増すばかりであった。
その辛さの反面、一期検閲後の初年兵の顔にも、僅かながら笑みがこぼれるようになった。これは、しかし、本科兵として扱われているという自覚から出るものではなかった。北満の国境線に長く居坐っていた冬将軍が過ぎ去り、春の陽差しが大地の水を温めはじめてくれたお蔭で、冬の間に皹割れた彼らの手が癒やされるという哀しい結果からであった。
解氷期になると、雨がよく降った。
この日も、まるで南洋の雨季を思わせるかのように、連日の雨に祟られた。
雨中での泥濘訓練を終えた初年兵たちは、ずぶ濡れ、泥まみれで戻ると、紫色に変色した唇を震わせながら、自分の作業はあと廻しにして、古兵たちの泥だらけになった被服や下着を抱えて洗濯場へ走った。
雨の日は、それでなくても雑用の多い初年兵たちの作業が倍になる。被服はまだどうにか我慢できるが、我慢できないのは他人の下着まで洗濯させられることである。だが、こればかりは最下級の兵隊は逆らえない。上級者の言うことは、天皇の命令と同じ権限があって絶対服従だからで、これに逆らえば、上官侮辱の抗命に問われるからである。
それでも初年兵にとっては雨の日は気が楽であった。どれもこれもずぶ濡れの泥だらけだから、少々手荒に扱っても、手を抜いたり余程ヘマをしない限り、古兵からビンタを喰らうことはないからである。
そのなかで、ただ一つ注意しなければならなかったのは編上靴(軍靴)であった。編上靴は皮革製であるため、水を使うと革が硬くなって痛みやすい。このために水で洗ってはならないという守則があったが、しかし、これは晴れた日のことである。
有難いことに今日も雨である。小銃も、装具も、被服も、編上靴も、身に着けていたものに乾いているものはない。班内までじめじめと濡れそぼっている。
古参兵たちも、水に濡れて泥だらけになった自分の兵器の手入れに余念がない。いちいち初年兵に構っている暇はないのである。そのはずである。へたに口を出せば、自分たちの作業が遅れて寛ぐ時間を奪われるから、敢えて口も手も出さないようにしているのである。
そうした相互間の陰湿な空気が漂うなか、外では、風に煽られた雨が頻りに窓を叩いて、初年兵たちの作業を急き立てていた。
初年兵たちは、それを意識しながら、連日の雨で遅れがちになっている作業の手を早める。急がなければ、もうすぐ午後八時の日夕点呼である。雨だからと、作業遅延の言訳は許されない。遅くとも、消灯時限までに終わらせなければ、それこそただでは済まなくなる。古兵たちに作業の遅れを咎められてビンタで就寝時間が奪われるだけでなく、就寝後に巡回して来る週番上等兵の眼を怖れなければならないことになるのだ。
その恐々とした作業も、消燈時限間際になって漸く終わり、それを待っていたかのように消燈ラッパが鳴り響いた。
初年兵の一人が、その音に弾かれるように飯台に飛び上がって、朧に点る電灯を消した。
自分の雑用を初年兵に言いつけた古兵たちは、いい気なものである。日夕点呼後には早々に毛布に潜りこみ、消灯ラッパが鳴るころには既に毛布のなかで爆睡である。連日の雨中での訓練で体が疲れきっていて、今夜だけは手も足も出したくないらしいのだ。こんな疲れた日に、わざわざコトを起こさずとも、消灯後には、週番上等兵がやって来て、自分たちの代務を、こってりと引き受けてくれるはずである。
そう。初年兵たちの一日は、消灯ラッパですべてが終わったわけではないのだ。まだこのあとに、重箱の隅をつつく、あの週番上等兵の陰湿な眼が、班内の随所をなめるように廻って来る。その脅威が去るまでは、初年兵の一日は終わらないことになっている。初年兵たちは、毛布のなかで、神経を張り詰めるだけ張り詰めて、眠りたくても眠れずに、それを待たなければならないのだ。
寿は、その情景を、寝台に身を横たえて静かに見守っていた。
初年兵たちは、何事もなかったように眠っている。だが、それが初年兵の狸寝入りであることもわかっていた。
現役のとき、寿も、厭というほど経験して、憶えがある。彼らは、胸の内で、怯えながら祈っているはずである。
今夜は無事に済ませてくれるだろうか? 昨夜のように、誰かがヘマをして、いきなり叩き起こされて一斉ビンタを取られはしないだろうか? 今夜だけは、どうか穏やかに休ませてくれ……と。
初年兵たちは、その恐々とした時間のなかで、これまでの一連の作業を忙しく振り返っているはずである。
これまでの作業に不手際はなかっただろうか? あれはどうだ……? これは大丈夫か……? それは……?
そうだ。自分のやるべきことをすべてやり終えているなら、いまさら心配をしたところではじまらんのだ。取り越し苦労などせずに、お前たちは早く眠ることだ。なにかが起こるときは、自分の意思とは無関係になにかが起こるのだ。それが軍隊なのだ。
毛布のなかで、寿は、胸の内でそう呟きながら、怯えているはずの彼らを案じたものである。
初年兵の時分に、同じ苦しみを経験した寿は、彼らの苦衷を不憫に思った。内務班の最古参兵の内務掛兵長として、できることなら彼らを庇ってやりたいが、それをやればきりがない。初年兵は、それらの苦痛に耐えて、はじめて一人前の兵隊になると言われているのである。馬鹿げた話だが、これが軍隊の伝統的慣習なのである。
初年兵たちよ、諦めて我慢しろ! 内務掛兵長と雖も、伝統的軍隊の慣習を枉げるわけにはいかんのだ。こればかりは、どうにもしてやれんのだ!
やがて、薄暗い廊下の向こうから、営内靴を擦るような足音が聞こえた。微細なものでも見逃さない、初年兵の粗探しに執念を燃やす、あの質の悪い週番上等兵の巡回がはじまったのだ。
初年兵は一斉に体を硬くした。
木銃を手に班内に脚を踏み入れた週番上等兵は、初年兵の顔を一つ一つ、ゆっくりと、それも念入りになめるように視て廻りながら班内を一巡すると、通路の端に寝ている初年兵の頭を木銃の先で軽く小突くと、ニタリと笑って鼻を啜った。
「初年兵の狸寝入りも、どうやら巧妙になってきたようだな。ふん。今夜は俺でよかったぞ。これが俺以外の古兵だったら、お前たちは安穏として寝られんところだぞ。ま、今夜のところは大目に見てやる。よし、もう寝ていいぞ」
この週番上等兵は気性の荒い三年兵で、腹の虫の居所が悪いと、誰彼なしに見境なく鉄拳を振る舞う男で、初年兵たちからは三中隊の狂犬と恐れられた猛者である。その狂犬が、今夜に限ってなぜかおとなしかった。そのはずである。この狂犬とて、纏っている毛皮の中身は、誰もと同じ赤い血が流れていて生身の体なのである。連日の雨のなかでの訓練で疲れ果てているから、今夜ばかりは牙を剝く力も萎えているらしいのである。三中隊の狂犬は、大きなあくびを一つして、営内靴を重そうに擦りながら、隣の班に足音を消した。初年兵たちは、幸運にも、連日の雨に救われたのである。
狂犬の去ったあとには、風に煽られて騒がしく窓ガラスを叩く大粒の雨音だけが、班内に響き渡っていた。