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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 日本海の荒波に船体を揉まれるだけ揉まして、動員兵たちを船酔で苦しむだけ苦しませた輸送船は、太陽が中天高く輝く頃、大小の船舶が(てい)(はく)している巨大な港の沖合に投錨した。

 眺める限りでは、その向こうは、大都市の海の玄関口にちがいなかったが、しかし、はじめて異国の地を眼にする男たちには、この港がどこだかわからなかった。男たちは、遠くに望む港の風景に眼を細め、口々に、ここは朝鮮の京城だとか、平壌だとか、釜山港だとか、あるいは支那の上海だとか囁き合ったが、到着した港はそのいずれでもなかった。この港が国際港の大連港であると知ったのは、たまたま寿の隣に居合わせた初老の補充役招集兵が、過去にこの地へ訪れて憶えがあるのだろう、感慨をこめて、

「大連港だ、ここは……」

 と、その港の名を呟いたからであった。

 輸送船は、夜になって、貨物専用の桟橋に接岸された。

 薄暗い桟橋に下船すると、船内で分られた各個の乗車区分に集合がかかって目的地までの携帯口糧を受け取り、埠頭に停車している軍用列車に乗車を命じられた。

 軍用列車と言えば聞こえはいいが、なんのことはない、列車の中央に連結されてある将校専用のスチーム暖房のきいた客車ではなく、風雨こそ防げるが、それは貨物専用の有蓋貨車であった。

 三日分の口糧を受け取った寿は、分配された量から判断して、これからは長い鉄路の旅になるらしいことを知ったが、そのことよりも、自分はいったいどこへ連れて行かれるのか、それが頻りに気になった。

 貨車のなかでは、自分たちの行先を巡って様々な憶測が飛び交った。

 ある者は南満の図們と主張した。理由は、ソ連と真正面に対峙する朝鮮と満州との国境線だから、そこの防衛に持って行かれるにちがいないと言うのである。それに反応して、別の者が、それなら虎頭や綏芬河も危ない国境線だと返す者もいれば、もしかすると、もっと遠くの北の涯の黒河辺りの国境線かも知れないと言う者まで加わって、貨車のなかは、小田原評定で一頻り賑わった。

 寿は一言も口を挿まずに会話を聞いていたが、結論に達しない話に苛立ちが募り、手帳に小さな文字でなにやら記している隣のインテリ風の、これは寿とあまり歳の差のなさそうな補充兵の肘を突いて、お前はどこだと思うか、と、小声で訊いてみた。

 すると、その兵隊は、先程からの会話を悉に聞いていたらしく、手帳の手を止めて幽かな笑いを浮かべた。

「さあ、行先は私にもわかりませんが、私の個人的な考え、と言っても憶測に過ぎませんが、我々に三日分の口糧が分配されたということは、鉄道の東西北の主要分岐点は、奉天、四平、新京、哈爾浜の四駅ですから、それから判断すると、もし南満だとすれば、先程誰かが言ったように、我々が向かう先は新京か()()(びん)を経由して図們か綏芬河方面。北満だと哈爾浜から北安を経由して孫呉か黒河方面。さらに西だと()()()()方面ということになりますが、我々がはたしてどの方面へ向かうかについては、兵隊の我々には誰にも正確な答えは出せません」

 と、感想を述べた兵隊に、寿はうなずいて、うっそりと笑った。輸送船の船内で下士官が言ったように、東であれ、西であれ北のどこであれ、行き着いたそこが目的地である。つまらぬ気を揉んだところで、行き着けば厭でもわかるのである。

 やがて出発の前触れもなく、貨車がガクリと揺れた。

 貨車を繋ぐ連結器の甲高い音が順次に後方へ送られると、機関車の重いブラスト音に重なって勢いよく吐き出す蒸気の排気音が響いた。

 もう誰一人として、自分の意思で(もと)の生活へ戻ることはできなくなった。列車は、自分の力では避けることのできない運命の目的地へ向かって動き出したのである。


 軍用列車は、漆黒の闇のなかを快調に走った。

 動員兵たちは、列車の行くがまま、車輌の揺れにまかせて眠った。

 途中、給炭や給水のために長時間停車したが、そこは駅舎からは離れた操作場のために、そこがどこなのか誰もわからなかった。

 動員兵たちは、そのたびに場所や行先を推測して囁き合っていたが、それもいつしか口を閉ざしてしまい、車内は、旅客列車にはない変則的な鉄輪の響きだけとなった。

 列車は、行先不明のまま、茫漠とした曠野を丸二日走りつづけた。

 動員兵たちは、狭い貨車で身動きできない状態のままで延々と走りつづける辛さに、あきらかな疲労と苛立ちの色が顔に滲み出ていた。

 列車は、そんな男たちの苦痛など知らぬことである。長い時間を走ったかと思えば停まり、前と同じことを繰り返して進んだ。いったいどこまで連れて行かれるのか、気がつくと、列車は、涯がないかのような樹木一つない茫漠とした雪原の曠野を走っていて、疲労しきった男たちは膝を抱くように首を(うな)()れて、ただ列車の行くがままにまかせて三日目を迎えた。

 突然、耳を(つんざ)かんばかりの金属音と同時に列車が停まって、貨車の男たちは目覚めた。

 扉の側にいた兵隊が開いたその外は、前と同じ依然とした雪原の曠野であった。

 ただ、いままでとは風景が多少異なるのは、これまでの平坦な白銀の平野とちがって、緩やかな丘陵が波のうねりのように折り重なるように連なっていることであった。

 輸送指揮官が大声を張り上げながら、貨車の横を通り過ぎた。これから目的地までは停車をしないから、いまのうちに用便を済ませておけというのである。

 男たちは先を競うように飛び降りると、鉄路の沿線に白い尻を恥ずかしげもなく陳列させて用を足しはじめた。停車時間が長かったから、寿も皆と同じように軍袴を解いて尻を剥き出したが、一分もしないうちにあまりの寒気で尻が痛くなり、大便は忽ち石のように凍りついた。

 早々に用を済ませた寿は、四方を白銀で覆った雪原をしげしげと見つめて、

「満洲ゆうとこは、まるで化けもんごつ大陸たい」

 と、思わず唸った。眼前に展開するそれは、小さな島が寄り添う日本とは桁外れに広大なのである。

「こげん広か大陸ン連中と、日本は(いくさ)ばしとるとな……」

 と、背筋に、刹那的冷たいもの感じた。

 列車に戻る際、ちょうど寿の車輌から二輌目の後部貨車に、完全軍装の一個小隊が列車に乗りこむところであった。

 それを見た寿は、

「こげん広か、なァんもなかとこのどこに、あげな部隊がおったとや?」

 と、不可思議に小首をかしげた。

 これはあとで知ったことだが、この部隊は、寿がいま立っている北黒線(北安~黒河間)の二龍山の開拓団警備に駐屯していた部隊で、孫呉で編成される新編部隊へ編入される将兵たちであった。列車は、この将兵を拾うために停車したのである。

 その部隊に、生涯の腐れ縁となる有働がいることを、寿は知る由もなかった。

 将兵たちを拾った列車は再び動き出した。しかし、輸送指揮官が言ったにもかかわらず、その後も列車は短い停車を繰り返した。これは、しかし、輸送指揮官がでたらめを言ったのでなく、仕方のないことであった。黒河までのこの路線は単線の閉塞区間であるから、一方の列車は信号場の待機線に入線して離合しなければならないからである。

 四日目の早朝、人家は勿論のこと、獣すら生息しそうにない曠野の直中で列車は停止し、寿たち動員兵は下車を命じられ、気が狂いそうになるほどの長い鉄路の旅に漸く終わりが来て、列車は、さらに北へ向かう兵隊たちを乗せて雪原の彼方へと走り去った。

 思い起こせば、鉄路の要所には大小の駅舎が無数にあったというのに、列車はなぜかそれらの停車場には入線せず、駅舎から離れた貨物の専用線を通過した。兵隊たちに場所を特定されないための処置かどうかは定かではないが、そのために駅名を確かめようにも確認のしようがなく、どこをどうして来たのか、そのときは皆目わからなかった。

 だが、動員兵たちの旅はこれで終わったわけではなかった。むしろこれからのほうが過酷な(みち)(のり)となった。

 それを思考の外に置いている三つ星の動員兵が、貨車を降りるなり背嚢を雪の大地に投げ捨てるように置くと、樹木一つ見当たらない周辺を見渡して溜息を吐いた。

「軍は一体全体なんば考えちょっとか? 鉄道にゃ駅ゆうもんがあっとぞ。そいをぞ、なァんもなかこげな辺鄙な場所で降ろさんでんよかろうもんがくさ」

 と、背伸びと欠伸を同時にやってぼやくと、煙草をうまそうに()っている古参兵らしき一等兵が横から口を出した。

「そりゃおめえ、俺たち関東軍の精鋭部隊がいきなり駅から街へ入ってみろ、現地の若い女たちはオソソを押さえてみーんな逃げちまってよ、梅干ババアだけになっちまうからだよ。そうなったらおめえコトだぞ。俺たちゃ年中梅干を食わされることになる。つまりだ、他の部隊との公平を欠かねえようにご配慮してくださってるのさ」

「まさか」

 と、唸った上等兵に、一等兵はケラケラと笑った。

「ま、それは冗談だがね。本当のところを言えばだな、ここんとこ共産匪や抗日ゲリラの活動が各地で活発になっていてな、それを刺戟しないためと、それに、ここら辺はロスケと鼻先をつき合わせている国境線が眼の前だからな。白系ロシア人や満人の諜者がうじゃうじゃといやがるんだよ。ま、そんなこんなを考慮してだな、目立たねえように番号の指標を建てて、軍の駅代りにしているのさ」

「そいがほんまごつなら、こりゃ、えらかとこば持って来られたゆうこつばい」

 上等兵はまた唸った。

「確かにな、えれえとこにはちげえねえが、范家屯ってとこもまったく物騒で、ひでえところだったぞ」

「ハンカトンちゃ、なんね?」

 上等兵が訊いた。

「新京から南へ四つばっか下ったとこだよ」

 そう言われても、満洲の地理に疎い男の頭には東西南北の地図が朧に浮かぶだけで、それがどこにあるのかさえ知るはずもなかった。知っているのは、関東軍は世界に比類のない最強部隊であるということを聞き及んでいるだけである。

 だから、それがこう言わせた。

「無敵関東軍七十万の精兵がデンと構えとる満洲やなかね。そいでも、そげな物騒なとこがあるとね?」

 上等兵の問いに、下級の一等兵が嘲るように言った。

「なんにも知らねえところをみると、おめえ、内地の留守隊からか?」

 上級者の上等兵がコクリとうなずいた。

「そいつはご苦労さんだがな、あるか、てなもんじゃねえぞ、ここは。さっきも言ったが、共産匪賊にゲリラ、ロスケのスパイに爆弾テロ、なんでもござれの反満抗日の巣窟だ。俺ァ范家屯の部隊から二龍山の守備隊に廻されたんだが、これがふてえしくじりよ。その部隊の近くにゃ日本の開拓団があってな、それが匪賊の襲撃に遭って手ひどくやられた。女も子供も容赦なしにだ。年頃の女は手当たり次第に強姦されて、あとはこれだ」

 と、手刀で頸を斬る仕種をして、

「それで、俺たちはその討伐に狩り出されたんだが、ところがよ、こいつが思った以上に手強くてしつこい連中ときやがった」

 と、卑屈な笑いを上等兵に投げた。下級の一等兵が上級者の上等兵に向かってぞんざいに振舞えるのも、一つは、昭和十六年(一九四一)六月二十六日に発動された関東軍特別演習(関特演)の古参兵を鼻にかけているのと、相手が内地からの動員兵だからなめているのである。

「そいで、そン討伐ば、どげなったとか」

 と、先程から一等兵の話に耳を傾けていた寿が割って入って、一等兵の横に背嚢を下ろした。

 一等兵は、自分の横に坐った兵隊の横顔に白眼を向けたが、相手が金筋一本の襟章をつけていることから、これは古参兵特有の勘で年次の差を瞬時に読み取ったらしい、急に態度を柔らげた。

「最初はね、日系の満軍が警備を受け持っていたんですがね、これがまたてんで木偶でしてね。逆にやられて、それで俺たちの中隊に泣きついて来やがったんですよ。中隊長は二つ返事で簡単に引き受けやがった。奴らがやれないことをやれば自分の点数が上がると踏んだんです。匪賊と言っても相手はチャンコロ百姓の成れの果てだ。そんな討伐なんか中隊でかかりゃすぐに片付くと、中隊長はそう楽観したんです。ところがそれが甘かったですよ。いざ蓋を開けたら、奴らは俺たち以上の実力で、その上、イタチみてえに昼も夜も休みなく動き廻りやがる。俺たちはろくに寝る暇もないどころか逆に犠牲者続出でね、終わってみたら、二個分隊の兵力を消耗してたですよ」

 一等兵は足許の雪を掬って、それを玉にして一口囓(かじ)って吹き飛ばした。

「まったくひでえもんですよ。三ヶ月かけても完全な討伐は終わらなかったんだから。それで結局は開拓団を後方へ避難させたんですが、眼の届かない遠隔の開拓団では、まだ被害が出ているって話です」

 と、もう一口囓って丸めた雪を放り投げた。

「イタチごっことは、まさにあのことですわ」

 この一等兵とはそれきり顔を合わすことはなかったが、寿は、その話を聞いて、日本の開拓団の婦女子が現地民から悲惨な迫害を受けていることをはじめて知った。のちに自分が一等兵と同じ軌跡を辿ることになろうなどとは、これも知るはずのないことであった。

 やがて整列の号令がかかって、長い縦列は歩きはじめた。ここから現地までは、出迎えていた嚮導指揮官の役目である。動員兵たちは、その将校の指揮下に入り、終着地へ向かって白い曠野へと足を踏み入れた。



 雪深い雪中の行軍は尋常ではなかった。夏場ならば陣地までは僅か一時間程度の距離だが、なにしろ窮屈な貨車に何日も鮨詰め状態で疲れきっているところへ、今度は膝まで埋まる雪と格闘しなければならなかったから、まさに雪地獄の行軍、それも延々四時間に及ぶという、小休止もろくにない強行軍であった。

 行手には、雪以外はなにもない。波のうねりに似た白い稜線が、遙か彼方までつづいているだけである。

 雪道に履く(かんじき)などというしゃれたものを持たない兵たちは、時には腰まで塡る雪に足を取られながら、上半身をもがくようにして進んだ。

 強烈な太陽光が雪に反射して、眼が眩むほど痛かった。そのために、前を行く者の影を見ながら歩くから、尚のこと姿勢が安定せず疲労が倍増した。

 不思議なことに、平坦とばかり思っていた雪原が、じつはそれが緩やかな丘の斜面であったりした。標高差が殆どないから、顎の出そうなほどの長い距離を歩いて振り返って見ると、隊列の後尾が自分よりも下に位置していることに気づいて、自分の歩いている場所が丘の上であることをはじめて意識したりした。

 隊列は、そのような丘陵を幾つも越えて、どこが道やらわからぬ雪原を進んだ。

 これには、演習で長距離行軍を何度も経験しているはずの古参兵たちでさえ顎を出した。炭鉱で鍛えて体力には自信のある寿ですら、肉体の限界が頂点に達していた。

 そのはずである。三日分の携帯口糧は食い尽くしていて、朝から胃の腑にはなにも入れていないのである。

 最初は、いくつ丘を越え、樹氷に覆われた疎林をいくつ横切ったかを憶えていたが、やがては自力で歩いている感覚さえも萎えて、最後には意識も失いかけそうになりかけていた。歩いても歩いても、まるで地の涯がないかのように白い雪がつづいているのである。兵たちは、雪に喘ぎ、雪に足を掬われながら、もう死んでもいいから終わりにしてくれと口々にぼやいた。

 目的地まであと僅かと迫った頃、隊列に追尾しきれない男たちが遅れはじめた。

 後尾からの連絡で、嚮導指揮官が大声を張り上げた。

「もうすぐだぞ、頑張れ! 眼を見開いてお前たちの前方をよく見ろ! 山が見えるだろ。あれがお前たちの目的としている陣地だ! 山の頂上に煙が立っているのがわかるな。あれはお前たちのための炊煙だぞ! 陣地はもうすぐだ。到着したら、腹いっぱい飯を食わせて充分な休養をやる。いいな! 辛いだろうが、頑張って歩くんだ!」

 その声で顔を上げると、白銀の大地の向こうに聳え立つ異様な形態の山影が眼に入った。

 寿は、眼を細めてそれを確かめようとしたが、長時間雪原の光に眩惑されているせいで、それがどれほどのものかは眼が翳んで判然としなかった。

 陣地は、近づくにつれて、その異様な形態を暴露した。それは巨大な岩山の頂を切り開いて構築されているらしく、難攻不落の要塞がもし存在するならば、まさにこのことを指すにちがいないと誰もが認めるほどの、それは見るからに堅固な築城に思えた。

 陣地の長い坂道を登りきると、これはどこの部隊でも共通していることだが、刑務所の塀を思わせる高い壁の向こうに陰湿な口を開いた営門が眼に入った。

 最前列から割れるような声が送られてきた。

「歩調とれ!」

 の、号令で、隊列は、順次時計刻みの歩調をとり、衛兵に迎えられて営門をくぐった。長かった過酷な旅路に終りが来たのである。

 延々四時間に及ぶ雪との格闘で疲れ果てた動員兵たちは、予め組まれた三つの小隊編成のまま待機を命ぜられ、暫くして飯が出た。

 朝飯抜きでの雪中行軍であったから、朝飯と昼飯の兼用である。

 だが、その歓びも束の間であった。粗末な兵食であることは予測しているものの、それでも、温かい飯に味噌汁と、せめて副食くらいは出るものとばかり思っていた動員兵に給与されたのは、大人の拳ほどの、それも精白米が僅かばかり混じっている雑穀の握飯一つに、薄く切られたたくあん二切れであった。

 それを手に、浅黒い顔の一等兵が、眼いっぱいの不満を洩らした。

「腹いっぱい飯を食わせるって話じゃなかったのか? え、これじゃ歯糞にもならねえじゃねえかよ」 

「おめえ、どこからだ?」

 と、一等兵の傍で、不味いはずの握飯を無心に食っている髯面の同級兵が訊いた。

「……()()(びん)だが」

 と、一等兵が答えると、髯面が嘲るように笑った。

「そいつはご苦労だったぜ。遠路遙々お越したァお気の毒さまなこった。だが言っとくがな、おめえたちの前線部隊じゃ兵額の定量をこってり食っていたんだろうが、残念ながら国境の部隊じゃこれが精一杯なんだよ。早い話がだ、糧秣の補給なんてものはいつあるかわからねえ有様だからな。白米入りのオマンマが食えるだけ倖せってもんだぞ」

 髯面が、指先にへばり着いた飯粒を器用に舌で拾いながら言った。

「俺ァ(ぺい)(あん)(ほく)(とん)てとこからこんな北へ持って来られたが、あすこはおめえまったくひでえ状況だったんだぞ。肝腎な糧秣の補給がままならねえから、そいつを補うためにだな、満人の雑穀をくすねて食っていたんだぞ。稗や粟をよ」

 聞いていた一等兵の眼が一刹那虚空を泳いで、それから俄に不安気な顔になった。

「ちょっと待て。いま、なんて言った?」

「なにが?」

「確か、北安の北屯って言わなかったか?」

「言ったが、それがどうした?」

 一等兵の顔がますます不安の色に包まれた。

「……つまり、俺たちは北安からさらに北へ持って来られたってことか?」

「北安から北? ……ん、そういうことだな」

「南満じゃなかったのか、ここは!」

 すると、髯面が急に笑い出した。

「おめえ南満へ行くつもりだったのか。そいつは重ね重ねお気の毒さまだ。と、言いてえとこだが、食いもんの事情は南も北も大したちがいはねえさ。国境線のどこへ持って行かれても危険は増える一方で、飯の量は逆に減らされるんだからな。どのみち俺たちゃ一銭五厘のチイパッパだ。いまさら泣言並べてもはじまらねえぞ。内地以外どこへ持って行かれようと、状況は同じだよ」

「それじゃ、いったいどこなんだ、ここは?」

「おめえ、営門の部隊名を見なかったのか?」

 問われると、浅黒い一等兵は顔を横に振った。

「北安の北の涯と言ァおめえ、あとはロスケとの国境線しかなかろうじゃねえか。詰まるとこはだ、ここはその孫呉ってとこさ。したがってだ、この先には黒河の永久陣地がデンと控えていてだな、黒龍江のでっかい川、つまりアムール川ってやつを挟んで、向う側は赤い国ってことだ。おめえさんが行くはずだった南満とは正反対のとこさな」

「……俺は、班長から、お前は牡丹江だと聞かされていたが、それが、北の涯だったとはな……」

 一等兵の終わりの言葉が細くなった。

「騙されたんだよ、おめえは、軍隊にな」

 と、鼻でせせら笑った髯面の声を背に受けながら、寿は辛かった移動の時間を想い起していた。二人の会話から判断して、自分もどうやら途轍もない遠方に持ってこられたことだけはわかったのと、兵食の給与が歯糞にしかならぬこのような粗末な形で出るということは、髯面の一等兵が言ったように、軍隊の食糧事情は内地よりも相当悪化しているのだと思った。

 やがて下士官集合の声がかかって、兵隊たちの会話はそれで打ち切りとなった。

 程なくして、軍曹の襟章の横に幹部候補の座金をつけた若い見習士官が寿のところへやって来て、

「兵長、お前も来てくれ」

 と、呼ばれてそのあとについて行くと、なぜか下士官の位置に立たされた。下士官でもないのに、なぜそこへ立たされたのかと、そのときはわからなかったが、この答えはすぐに出た。

 寿たち動員兵は三つの小隊に分けられてあったから、これを一つに纏めるとほぼ中隊である。一個小隊は四個の分隊(一個分隊は約十二名)から成り立っているため、呼ばれた意味がここでわかった。つまり、三個小隊に分けられた十二個分隊のうち、ちょうど寿の分隊だけ下士官が不足していたため、この場の員数合わせのために予備役兵長である寿が当てられたのである。

 連隊長代理の少佐が演壇に上がって訓話をはじめた。気勢がよく、下級者を威圧する態度はどこの部隊でも共通している。寿は、それを疲労と眠気を抑えて聴いた。

 やがて連隊長代理の長い訓話が終わり、一通りの手続きも終わって、転属兵たちは割当てられたそれぞれの中隊へ散った。

 新たな仲間とともに内務班へ入った寿は、その内務班を見た瞬間に眼を丸めた。それは、かつて過ごした小倉の連隊以上に荒んだ凄まじいものであった。

 内務班というものは、兵隊が日常起居する生活の場である。五尺の藁蒲団こそあるものの、この内務班は、およそ人間が生活する施設とは程遠い存在であった。

 寿の過ごしたかつての小倉の中隊の内務班も刑務所よりもひどいと悪評が高かったが、それでも内務班の寝台は独立していて、班内はある程度ゆとりというものがあった。 だが、しかし、この内務班にはそのような配慮は微塵もなかった。兵隊の寝台は板張りの上下二段構造となっており、それも両隣に寝ている者と肩を擦り合わせて寝なければならぬほど窮屈なもので、あの鮨折りのなかにギッシリと詰められた押鮨同然の状態であった。

 寝台というものは、本来人間の肉体を休める空間が確保されていなければ意味がない。これでは体を休めるどころか、逆にストレスが溜まるばかりである。つまり、この内務班は、通常時の員数以上の兵隊で膨れ上がっているということになるが、あとで事情を知ると、それも仕方がないことがわかった。

 その事情とは、このとき、満洲全域に配備されていた関東軍砲兵隊の火砲弾薬は、国境線の重要陣地を除き、既に戦局が非勢となっている南方や、迫り来る敵に対する本土防衛の増備として、沖縄本島や日本内地へ大々的に転出されていて、関東軍砲兵隊の武力は著しく縮小されていた。

 このため、兵器を奪われた多くの砲兵は、(かく)々(かく)たる砲兵の権威まで剥奪された挙句に歩兵部隊へ編入され、歩兵部隊の内務班は、関特演以来の気の荒い古参の砲兵で膨れ上がったのである。それでなくとも殺伐としている内務班は、これらの砲兵で荒れに荒れていた。

 肝腎な歩兵はと言うと、再編のために残された若干の二年兵と、あとは年老いた二国の補充兵と痩せ細った現役の初年兵ばかりであった。このことから内務班は、年次の古い砲兵の古参兵たちに牛耳られて、いまや砲兵が歩兵科部隊で「ハバ」を利かせる有様であった。

 中隊の幹部たちは、砲兵の横暴な振舞いに眉間を寄せるだけでどうにも手の施しようがなく、兵隊の事実上の取締役である中隊人事の准尉でさえ気の荒い砲兵を扱いかねていて、寿の分隊の班長が言うには、その准尉は、軍隊では珍しい神経質な男で、胃潰瘍を患って洗面器に溢れるほど血を嘔いて、挙句は後方の陸軍病院に担送されるという、軍隊にとっては由々しき問題まで発生していた。准尉の後釜には、前任者の性格とは対照的な、気の強い乙幹のインテリ曹長が居坐っているそうだが、それにしても、まったくとんでもないところへ連れて来られたものだと、寿は、ただ諦めの嗤いを浮かべるしかなかった。



 入営して二日後、初年兵や内務班の他の兵隊たちは勤務や訓練で出払ったが、寿たち予備役の転属兵は残された。古参兵に対する勤務割が定まらないためである。

 暇を持て余した男たちが、班内でゴロゴロしていると、事務室勤務の一等兵が内務班にノソリと入って来て寿の前に立った。再編の事務要員として残されたこの一等兵は、学歴は申し分なかったが、如何せん班内での素行に著しい陰日向があるために、進級選考時にはいつも洩らされている万年一等兵の転属組であったが、事務を執らせれば誰よりも手際がよかったために、前任の准尉が重宝がって残留させたのである。

 その男が、兵隊ずれをした、と言うより大着な室内礼をして、寿にこう尋ねた。

「お尋ねしますが、兵長殿、兵長殿のご生誕地は、九州の、えーと、佐賀県の()()でありますか」

「……そうじゃが」

「前職は、あの、炭抗夫でありますか?」

「そうじゃ」

「ここへ来る前は、あの、小倉の……」

 言い終わらぬうちに寿が癇を立てた。

「今頃なんば言うちょっとか、きさん。事務室でオイの身上書ば見とろうがくさ」

 と、眼を尖らせた。

「そンとおりたい。きさんの言うとおり、オイの出身は九州の小城で、元は炭抗夫で、いまァ帝国陸軍のれっきとした兵長さんたい。そいがどげしたとや!」

 苛立った兵長に噛みつかれた一等兵は、しどろもどろになった。

「あ、いや、その、つまり」

 ストーブにへばりついている男たちの嘲笑が洩れた。

 それを耳にした寿はますます苛立った。

「回りくどかごつ言わんでんよか。用件を言え、用件を。なんの用か!」

「事務室の曹長殿がお呼びであります」

「阿呆、そいを先に言わんかい」

 と、体を起こしたものの、一等兵を視て、

「待ちんさいや? 事務室ン曹長が、今頃なんでオイに用があっとや? 勤務割やったら直属ン班長が呼ぶはずやなかね」

 一等兵は、

「さあ」

 と、首を捻り、寿も不得要領の首をかしげた。

「とにかく、曹長殿がお呼びでありますので、兵長殿、事務室までお越しください」

「……ようわからんばってんが、来いと言うとるんなら、行くしかなかばい」

 そう呟いて、寿が重い腰を上げたときには、一等兵の姿は消えていた。

「なんじゃありゃ? おかしか奴ったいの」

 と、寿が苦笑を洩らすと、ストーブを抱きかかえるようにして見ていた兵隊の一人が、

「ありゃ頭ば少々めげちょる万年一等兵ぞな、兵長さん」

 と、ゲラゲラ笑い合った。

 それらの声を捨て置いて、寿は薄暗い廊下を事務室へ向かった。

 事務室の扉を叩いて入室すると、なるほど、班長が言ったとおりの、見るからにインテリ風の曹長が部屋の奥に坐っていて、名簿らしきものを開いていた。

「川尻兵長まいりました」

 と、節度ある室内礼をすると、その曹長は、入室した寿に歯並びのいい白い歯を見せて片手を挙げた。

 その途端、寿の口から「お!」と、短い歓声が上がった。

 信じられないことが起こっていた。視線の先には、二度と逢うことはないと諦めていた男が、寿に満面の笑みを湛えているのである。

 愕きのあまり立ち竦んでいる寿に、曹長のほうから歩み寄って、

「久し振りやったのォ、寿!」

 と、寿の両肩を掴んで顔を覗きこむように懐かしんだ。

 寿は、感激のあまり、思わず姿勢を崩しかけたが、事務室の視線が一斉に自分に集中しているのと、部屋の隅に居坐る庶務掛軍曹の白い視線を意識して姿勢を正した。

「お久し振りであります、(ふか)()曹長殿」

 寿と曹長の深谷は、高等中学(現在の高等学校)の同窓であり、兄弟よりも互いを許し合った幼馴染みの無二の親友である。

 その曹長は周りのことなど意に介さず、

「堅苦しか挨拶は抜きじゃ。ちょっとこっちへ来んね」

 と、寿の腕を引くように隣室へ引き入れた。

 この部屋は、もともと准尉の居室である。それを深谷が使っているということは、中隊の人事は深谷が掌握していて、准尉は永久に不在という証明でもあった。

 深谷は寝台に腰を下ろすと、

「あれからちょうど二年たい。おまん、元気そうやなかね?」

 と、再会の歓びを顔じゅうに表した。

「おまんも血色がよかばい」

「こンとおり、ピンシャンばしとるたい。いやほかでもなかばってんが、こンたびの転属要員の名簿ば捲りよったらくさ、第四分隊の名簿におまんの名前があったもんやけん、まさか思うて驚いたとよ。いや、同じ出身地でん同姓同名ば名乗る別人ゆうこともあるばい。そいで確認するために木村ば行かせたとやが、そげんしても、地球も存外狭かもんたい。こげんとこでおまんに逢おうとはのォ」

 軽く冗談を飛ばしたつもりだが、その顔はまんざら冗談でもなさそうであった。深谷自身も、寿との希有な再会がまだ信じられずにいるのである。

「心臓ば停まるごつ愕いたとはわしンほうたい。二年前おまんが出て征ってからは、もう永久に逢えんごつ諦めちょったけんの。……そうね、おまん無事ン生きとったとね。わしン班長が言うとったばってんが、准尉ン後釜にゃインテリばごつ曹長が居坐っとる言う話やったが、そいがおまんじゃったとは露も思わんかったばい。そいにあン一等兵、木村言うとね。ありゃ少々頭ばおかしかごつなかね」

 皮肉を投げると、深谷は声を上げて笑った。

「ここは満洲の北ン涯てやばってん、方々から多種多様な奴が集まっとるとよ。謂わば関東軍ガラクタ兵の吹溜りみたいなところたい。あいつは、影じゃコソコソ素行ば崩しとるばってんが、頭はまだしっかりしとる兵隊ぞ」

 と、窓際に置かれてある白木の椅子に指をさして寿にすすめた。

「楽ンすりゃよか。わしらは遠慮の要らん間柄やけんの」

 寿は軽く会釈をして椅子に腰を下ろすと、軍衣の隠しから煙草を取出して火を()けた。いくら無二の親友とはいえ、公の場では階級に隔たりがある。事務室ではとてもできない振舞いだが、いまは二人きりである。

「小倉ン連隊も……の」

 と、寿は、薄紫色の煙を一つ吐いて、

「わしらがおったときとちごうて、あすこもすっかり変わってしもうてくさ。内務班は腑抜け同然ばなりくさって、そりゃお粗末なところやったばってんが、そげんしたっちゃこン中隊はそれ以上ひどかとこばい。いくらご時世とは言え、ここまでとは思わんかったがくさ」

 と、内地の部隊よりも環境の悪さを愚痴った。

「まるで山賊の梁山泊ごつ有様たい」

「そいがいまン関東軍の情けなか実態たい。諦むるがよかぞ。いまンおまんは(さい)(ろう)の群れば放りこまれた番犬たい。内務班の員数が増えて荒れとるんは、ありゃ関特演以降縮小されとる歩兵砲中隊を追い出された四年や五年兵の編入者が各中隊へ割当てられた結果たい。いずれわかろう思うばってんが、連中、将校やわしン前じゃおとなしかごつしとるばってんが、あン連中、歩兵部隊は軟弱と歩兵を小馬鹿にしとるばってん、歩兵の言うことは糞喰らえ程度ンしか思うとらん。やけん、おまんもせいぜい噛みつかれんごつすることぞ。ま、もっともおまんの気性やけん、おまんのほうが先に噛みつくかもしれんがの」

 なにやら含みのある笑いを浮かべた深谷に、寿も嘲りに似た笑いを鼻先で返した。

()()だけァ立派なけんが、中身ン根性はどげなもんかの?」

 荒れた内務班の様子を見れば、それがどれほどのものか想像はつくというものである。

「そりゃそうと、(こう)(すけ)よ、おまんの家は大丈夫ね? おやじさんが逝って男手ンおまんが抜けたらくさ、おふくろさんと嫁さんとじゃ百姓は大変やなかね」

「そンこつなら、近所ン人が協力ばしてくれちょるばってん、二人でなんとか切り盛りしてやっとるゆう話たい。あんたはなんも心配せんでんよか言うて、女房ン手紙にそげ書いてあった。ま、いまさら気ば揉んだところでどげもならんばい。唄ン文句やなかばってんが、そいこそ、ここは御国ン何百里やけんの。手を貸しとうても、こげん辺鄙なとこへ引張り出されてしもうたら、そいこそどげもこげもでけんけの」

 そう言って、耕介は寿の喫っている煙草を指でさした。俺にもくれというのだ。

「おまん、煙草はやらんかったんやなかね?」

「こげんとこに長かごつ居坐るとな、人間の品性も変わってしまうとたい」

 と、寿に向けた顔の表情こそ穏やかだが、その眼は、古参兵特有の擦れ枯らした眼をしていた。

 寿は、煙草の切り口を軽く叩いて、一本をつまみ出してすすめた。

「ばってん……」

 と、寿は、耕介の煙草に火を点けてやりながら訊いた。

「余計ンごつかしらんが、おまん幹候ば志願したとね?」

 深谷は煙を吐きながらうなずいた。

「現役ンときァ二年辛抱すりゃ除隊できたばってん、そンときゃ妥協ばしたとやが、今度はそうはいかん。今度はこれまでとちごうて、十六年に兵役法が改正されてくさ、満期除隊者は一時除隊、即日招集で除隊は延期されとる有様たい。オイはそいで考えば変えたとたい。兵卒ン苦労は、あン初年兵ンときで懲々やったけんの。やけん、どうせ除隊でけんとなら、今度ァいっそンごつ楽なほうば択んじゃれと、そげ目論んだとたい」

「なら、なして下士官ね? おんしゃオイとちごうて、除隊ばしたあと帝大ば行き直してそこを出とるばってん、そいこそ将校有資格者やなかね?」

 淡く笑った深谷の顔が横に振られた。

「そう都合よく行かんとこが軍隊たい」

「どげしてかの?」

「中学ン教員ばしとったわしン兄貴を憶えとろうがくさ」

「あァ、おまんとは歳ば離れた……」

 言いかけて、寿は急に口を噤んだ。不運な顛末を辿った耕介の実兄を思い出したのである。

 耕介は、寿の顔にうなずいた。

「つまりは、そげェゆうこつたい」

「……そいで……乙幹ゆうわけね……」

 寿の声が弱々しく床に落ちた。耕介の実兄が治安維持法で特高(特別高等警察)に検挙された経緯については、耕介自身が多くを語ろうとしなかったから詳細は不明だが、ただわかることは、実兄は一旦特高へ検挙されたが七日後には憲兵隊へ送致され、それも十日程度で釈放されたということだから、実際には大した事件にはされなかったのであろう。

 だが、一度でも思想的にいかがわしい人物として特高なり憲兵隊に検挙され、しかも教職の身にある者が官憲に拘留されたという事実が残れば、世間の眼は一様にして冷淡である。実兄は思想犯の要注意人物として()()され、教職員の資格を剥奪されて、やがて召集令状を受け取って出征した。

 出征して暫く経った頃、彼の実家に戦死公報が届いた。戦死した場所は北支戦線の奥地、名も聞き及ばぬ地名であったという。実兄は、国家に対する思想的反逆者として、国粋国家の権力に抹殺されたのである。

 殊に軍隊は、これに類する事案に関しては敏感に反応する組織である。身内や縁者に一人でも左傾した人物がいると、本人はそれとはまったく無関係であっても、赤化思想に感化された要注意人物と目され、本人の身上書には赤い附箋を貼りつけ、徹底的に屑の兵隊として扱ったのである。

 幹候有資格者の耕介も例外ではなかった。軍隊は、耕介が自ら幹候を志願して試験の成績は優良であったにもかかわらず、聖職の実兄が治安維持法で挙げられたという理由から、耕介を乙種幹部に降格したのである。

 寿は、両壁にチラと眼を配って、それ以上の会話は避けた。壁の両隣は事務室と将校居室に挟まれている。好奇に満ちた幾つもの耳が、ラッパの如く開かれているにちがいないからである。

 耕介のほうは、しかし、そのことなどはもう気にもしていない素振りで、

「ところでな、寿」

 と、曇った寿の顔に笑みさえ浮かべて、

「わしらが初年兵ン頃の、ほら、あの鬼軍曹ば憶えとるか?」

 と、意外なほうへ話の矛先を向けた。

 これは寿の関心を大きく惹いた。鬼軍曹とは懐かしい響きでだからある。

「あァ憶えとるたい。わしらがなにかと世話ばなった、あン(とう)(どう)軍曹どんじゃろ? 忘れろゆうても、わしにゃ忘れられんお人たい、あン人だけァ、の」

 うなずいた耕介は、ちょっと待てと片手を制して、事務室の当番兵を呼んだ。

 要領を心得た当番兵は、待ち構えていたように茶を淹れた盆を運んで来た。

 (えん)(かん)(軍隊で謂う灰皿)に煙草を揉み消して、当番兵から湯呑を受け取った寿は、それを口に運ぼうとして、ふと湯呑を覗きこんだ。軍隊ではまずお目にかかることのない緑茶なのである。湯呑に鼻先を当てて香りを嗅いでみると、馴染みのある懐かしい香りが鼻を擽っ(くすぐ)た。

 寿は、耕介にニタリとした。

「どげな、懐かしか味ばい? おまんがよか茶葉じゃゆうて、何杯も飲んだ川根ば名産の緑茶たい。これを飲んで家族ば思い出せゆうての、女房ン奴が送ってくれたとよ」

 満足そうに笑みを浮かべた耕介を上眼使いに、寿は、緑茶を一口啜って感嘆の声を上げた。

「ほんに懐かしか味たい。あン頃ば思い出すばい」

 感嘆の声を上げて、

「……お互い、女房にゃ当分逢えんばい、の……」

 と、湯呑の緑茶をしみじみと見つめて呟いた。

「仕方なか。人間の拘束権ば(にぐ)る軍隊からは、わしらは逃げようがなかけんの」

「まっこと、つまらん世ン中になり腐ったもんたい」

 寿は、大事そうに緑茶を啜ってから、先程から気になっている耕介の言葉を引き戻した。

「そりゃそうと、耕介、さっき軍曹どんごつ話ばしよったばってんが、あン軍曹どんがどげしたとか?」

 かつての中隊で聞いたところによると、鬼軍曹こと通堂軍曹は南方戦線へ動員されたとそう報らされている。その南方戦線の島嶼では玉砕が相次いでいるのだ。軍人の消息は、大抵は悲観的である。

「もしかして、どこぞで戦死ばしたとか?」

 そう言葉が衝いて出ても、決して不自然ではない。

 耕介は、それを打ち消すように片手を大きく振って否定した。

「そン逆たい」

「逆?」

 耕介は、今度は大きくうなずいた。

「あン人はぞ、大砲の弾ば(あた)っても死なん怪人物ぞ」

「どげんこつね? どうもようわからんばってん、もっとわかるごつ言うてくれんね」

 耕介は、面白半分に意地悪く焦らせてやろうかとも考えたが、寿のあまりの真顔に、焦らすのをやめてこう言った。

「じつを言うとの、そン鬼軍曹どん、戦死どころか、こン連隊におらすとよ。あすこン、あン六中隊にの」

 と、隣の兵舎に軽く顎で示すと、寿のほうは、それを逆に耕介の冗談と受けとって鼻で笑った。

「まさか。きつか冗談はやめにせんね」

「なんが、冗談なもんかい」

「……」

耕介は、寿の疑念に満ちた顔を覗き見て愉快そうに笑ったが、寿はまだ素直に受け容れられぬらしく、耕介の眼の奥を探るように見つめていた。

 その顔に、耕介は、今度は擽る(くすぐ)ように笑った。

「そン様子じゃ、オイの話が信じられんごつあるの? やけんど、これはほんとの話ぞ。どげな、さすがのおまんも、こればっかりゃ肝ば潰れたばい」

 素直に信じろというのが無理であった。通堂軍曹は南方戦線に動員されたと、寿は固く信じこんでいるのだ。それにである。一旦所属部隊から離れた他中隊の部隊間で兵隊同士が再会するなどということは、たとえ同じ戦場で戦って運良く生き残ったとしても、このたびの耕介との再会のように、奇跡のような出来事が起こらない限り、巡り会うことは殆どあり得ないのである。ましてや、海を距てた南方の島嶼なら尚のことである。その南方戦線に通堂軍曹は動員されているのだ。いまもそう信じている寿に、それを信じろというのがどだい無理な話であった。

「……まさか、ハッタリやなかやろね?」

「この期に及んで、おまんに嘘ばついても仕方なかばい」

「……そりゃそうじゃが……」

 耕介の笑いは冗談とも受けとれるが、その眼には、どうやら悪戯の魂胆はなさそうである。

「そいがほんまこつなら、わしゃあン男に担がれたことになるばい」

 寿の胸に、怒りの針がチクリと刺した。

「そいと言うのもぞ、除隊ばした三ヶ月後にたい、オイは通堂軍曹どんに逢いに行ったとやが、そンときにぞ、ちょうど顔馴染みの衛兵指令がおってたい、ほれ、四中隊ば銃剣術ン達人やったあン白井伍長たい。根性の悪かごつ男やったけん、おまんも覚えとろうがくさ」

 耕介は、あァとうなずいた。

「そいが言うにはぞ、わしらが除隊したすぐあとにたい、軍曹どんは南方戦線へ動員されたゆうこつやった。やけん、いまンいままで、わしゃそいを信じて、てっきり軍曹どんは南方ば行ったとばっかり思うちょった。……そうかい、まさかあン軍曹どんまでがおらっしゃるとはのォ。……で、そン軍曹どん、元気にしとりんしゃるんか?」

「逢えばわかるが、相も変わらずゆうとこかの。ま、あン人の品格はお前も知っとるごつ、並ン神経やなかけんの。あン頃と同じで、こン連隊でもなんの勤務も就かんと、逆に准尉を顎で使うとるたい。こン連隊じゃどン将校よりも年次の古か天下人やけんの、あン人は。まっこと、大した骨の太か鬼軍曹どんたい」

 寿は初年兵当時を思い起こして、懐かしさと再会の歓びに波打つ胸の鼓動を意識しながら幾つもうなずいていた。

「相も変わらずたァあン人らしかばい。そげんしたっちゃ、いまだにまともな勤務ば就かんで、ようもまァ安穏ばして軍隊の飯ば食えたもんたい」

 それを受けて、耕介はまたケラケラと笑った。

「そいがあン人の特異体質たる所以で、そいを許すのも軍隊やけんの」

 確かにそうである。軍隊は、表面では厳格主義を繕っているが、内面はじつにでたらめで、不条理が平気で(まか)り通る、いい加減な組織である。兵隊には、とても怖ろしくてやれないことでも、最古参の下士官ともなれば、何事も臆しもせずに図太くやってのける。将校は、それを、見て見ぬ振りをして、無関心を装うのである。そんな下士官は、軍隊には無数にいる。だから、誰も不自然とは思わない。軍隊は、そういうところでもある。

「わしが来たこつ、もう知っとりんさるんか?」

 そう訊くと、耕介は、顔を横に振った。

「いや、まだ報せとらんが、おまんが来たこつば知ったら、そりゃ愕くやろたい。わしと逢うたときも、腰ば抜かするごつ愕いちょったんやけんの」

「いやァたまげたばい。おまんに逢うただけでん奇跡や思うちょっとに、まさかの班長どんもおらっしゃるたァの、こりゃ神仏ば無碍にゃでけんばい」

 寿は、感慨深げに窓外の兵舎へ眼を細めた。

「あン人が無事ンごつ知ったとやけん、早速今晩にでん御挨拶ばせにゃならんばい。(しよ)()()ンときァ特別世話ばなったとやけん、そンわしが、眼と鼻ン先におるのに、挨拶せんゆうわけにゃいかんけんの。どげかの曹長どん。おまんも一緒につき合わんね。わしン勤務割ばきまってからやと、二人揃うて行けそうもなかけん」

「そン勤務割のことやがの……」

 と、耕介は、それには答えずに、幾分言葉を改めた。

「二三日後のことやけんが、この第三中隊に大々的な編成替えがあるとたい。このたび臨時で出て征った兵隊の穴埋めと、歩兵砲中隊からの余剰要員の転属を受けて再編されるとやが、オイは、おまんを第三小隊の第三分隊へ入れることにした。おまんと一緒に来た現役と予備は明日から勤務に出すばってんが、下士扱いのおまんは、それまで遊んじょってくれ」

「そいなら外出ばさしてくれんね? ちょっと街ン様子ば視たかとじゃ」

「街ね?」

 と、耕介は呟いて、ニタリと笑った。街といっても、都会のような街というほどのものではない。巨大な軍隊で膨れ上がった兵隊の性の()け口のためにできたような街である。したがってそれ以上訊くのは野暮というものである。

「あとで外出証ば渡すけん、日中は自由にすりゃよか。ただし、晩飯までは帰営するとぞ」

「わかった」

 うなずいて寿は立った。

「もう帰るばい。(にっ)(せき)点呼後にまた来るけん。軍曹どんとの積もる話はそンときたい」

 寿は、営内靴で床を叩いて不動の姿勢をとった。

「川尻兵長、帰ります!」

 大袈裟に大声を張り上げて、耕介に規律ある室内礼をした。部屋には二人だけだから、なにもそこまでする必要はないのだが、薄っぺらい板一枚で仕切られただけの居室は将校の居室と事務室に挟まれている。事務室には、軍曹以下の事務要員の耳が、将校居室にはどのような将校が聞き耳を立てているかわからない。営内での場所柄そうしておかなければ、茶番が茶番でなくなり、中隊人事を掌握する耕介の面子を潰すことになるのである。

 内務班に戻ると、寿とともに転属して来た男たちが待ち構えていて、兵隊特有の好奇心を剥き出しにあれこれと聞きたがったが、寿は、それらを適当にあしらって、寝台へ寝そべった。

 ――そうね、あン班長どん、南方ば動員されたんやなかったとね。……白井のバカが! オイを(たぶら)かしよって!

 通堂軍曹とは小倉の連隊で別れたきり、あれから七年の歳月が流れている。寿は、そのときの出会いをしみじみと思い起こしながら当時を顧みて感慨に耽った。

 そう。あれは、寿が入隊して二ヶ月が過ぎようとしていた頃のことである。地方での気儘で(なま)(ぬる)かった性格を徹底的に洗い落とされると同時に、国や人を護る軍隊と信じていたはずの軍隊の不条理を思い知らされ、最下級の兵隊がどれほどのものであるかを身をもって体験し、年次優先の権力の前では、個人の人格など、蟻の値打ほどもない存在であるという絶望感が肉体を支配しはじめた、まだ肌寒い早春の夕暮れ時であった。

 それは、いつものように、他班と競うようにして夕飯の飯上げに炊事場へ出向く途中のことであった。

 寿たちが炊事場へ急いでいると、炊事場近くの通路に、それも人の往来の烈しい通路の中央あたりに、どういうことか軍帽(兵隊が日常被る略帽)が一つ転がっていた。

 最初は、飯上げを急ぐ炊事当番の慌て者が落としたものと寿は見過ごしたが、それにしては不可解であった。なぜなら、軍隊では軍衣の釦一つ失っても、畏くも大元帥陛下より下賜された兵器を粗末に扱ったと、顔が歪むほど手荒く制裁を加えて始末書まで取る組織である。ましてや無帽で炊事場へ出向けばどういうことになるか。軍隊のなかではもっとも気性の荒い炊事場である。その怖ろしさを、初年兵は骨の髄まで体に叩きこまれているのだ。

 その軍帽が、内務班に戻るときもそのまま放置されていた。そのことは、もしかすると、その軍帽は、炊事当番のものではないのかもしれなかった。それならば、それを拾って、直属班長なり事務室なりへ届ければ済むことであるが、そのような善意を起こそうものなら、それこそ(おお)(ごと)である。秒読みに飯上げを待っている古兵たちから、「(しよ)()()ン分際ばして、ようもそげな暇があるたい」と、飯が喉を通らぬほどの制裁を加えられるのである。仮に初年兵たちにその気持ちが充分にあったとしても、それが怖さに手が出せないのである。彼らは、だから、見て見ぬ振りをきめて、それを避けて通るのである。他人の落とした軍帽を気にするよりも、いまは飯上げのほうが重大な優先事項である。軍帽を失った者がどういうことになるかを知っていても、この場は眼をつむるほうが賢明なのである。

 この日の寿は、副食の詰まった食罐((しよくかん)飯とか味噌汁やおかずを入れる容器)を担ぐ先棒を担当した。

 班へ戻る途中、その場所に差しかかった寿は、厄災を避けるために一旦はその場を通り過ぎたが、しかし、そのまま見過ごすことのできない性格がそれを許さず、後棒の同僚に合図して足を止めさせた。

 同僚が血相を変えて眼を三角にした。

「なんばすっとか? やめとけ、そげなもんにかかわるこたァなか、飯ば遅らすると、きさん、ひどか目に遭わさるるばい」

「なんも、こげん程度でビンタはなかろうもんが。文句ば言われたら、責任はオイがとるくさ」

「やめやめ、やめとけ。早よ戻らにゃ、そいこそおたふくさんごつさるるばい」

 咎める同僚を横眼に、寿は軍帽を拾った。

 軍帽は兵隊の体の一部である。それを着用しないときは、内務の作業をしているときか、それとも入浴のときか寝ているときだけである。それほど大事なものを、どれほど間抜けな奴でも安易に落とすことはまず考えられない。それを落として放置しているということは、余程のなにかがあった証拠である。今頃は、この軍帽を失った兵隊は地獄の責めに苦しんでいるはずである。拾った軍帽を確かめてみると、それには通堂と記されているだけで、どういうわけか、部隊番号もなければ官等級も記されていなかった。

 寿は、肝腎なそれらがないことに一刹那怪訝な顔をしたが、拾ったからにはもう捨てるわけにはゆかない。軍帽を軍袴に挟んで食罐を担ごうとした。

 そこへ、通路の蔭からフラリと出て来た下士官が寿たちを呼びとめた。

 肩に食いこむ食罐を降ろして挙手をした二人に、下士官の軍曹は軽く顎をしゃくって寿の前に歩み寄った。

「ぬしゃどこン中隊の兵隊か?」

 と、出し抜けにそう訊いて、寿の顔をまじまじと見た。

「第一大隊第三中隊第二分隊第四班であります」

 大声を張り上げた初年兵に、軍曹は、これも顎をしゃくるようにうなずいた。

「なんで呼び止められたかわかるか」

「……わかりません、軍曹殿」

 事実、なぜ呼び止められたか皆目わからなかったから、寿はそう答えるよりなかった。

 炊事班長の軍曹が、食罐を地べたに置いたまま立っている初年兵の姿を認めて、食罐の不手際かなにかで古参の軍曹に咎められていると思ったらしく、血相を変えて炊事場から飛び出して来て寿を睨みつけた。

「こン(しよ)()()、なんぞヘマばやらかしたとですか?」

 初年子とは、初年兵のことである。関東地方ではショネコとも言うが、古参兵が初年兵を卑下する俗語である。

 軍曹は、炊事班長を視て、素気なく言葉を返した。

「そやなか。わしゃこン兵隊に用ばあってくさ、すまんが、ぬしゃちょっと外してくれんか」

 炊事班長は、口惜しげに寿を一瞥して炊事場へ消えた。

 他隊の飯上げを急ぐ初年兵たちが、訝しそうに二人を横眼に見て、慌ただしくそれぞれの部隊へ散っている。

 そのざわめく音を耳にしながら、寿は、内務班を頻りに気にし始めていた。軍帽だけならまだしも、下士官に呼び止められたこの遅れは、古兵からビンタを頂戴する格好の材料となるからである。

 ――こン忙しかときに、どげん用があっとや!

 と、肚で呪いの声を上げたが、その寿の胸中など軍曹は知らぬことである。

 名札を見て、

「おまん、かわじり言うとか?」

 と、訊いた。

 平仮名の名札を見れば一目である。それよりも、早く用件を済ませて欲しかった。

「そうであります、軍曹殿」

 と、答えた寿に、軽くうなずいた軍曹は、

「さっき、あすこで帽子ば拾うたの」

 と、軍帽の落ちていた場所に顎をしゃくった。

「はァ、拾うたであります」

「なんで拾うた?」

 そう問われても、落ちていたから拾ったとしか答えようがないのだが、軍隊ではそれが通らない。そのままを正直に答えれば、「そン理由ば訊いとっとじゃ」と、必ずビンタが飛んで来る。上官に呼び止められたら、初年兵は、まずビンタからは逃げられない仕組みになっている。

 寿は、それを覚悟の前でこう答えた。

「あのままにしておくと、そいを失くした者が困ると思い、拾いました」

「飯上げば遅らするとどげごつなるか、そいを承知で拾うたとな?」

「はァ、そいは……」

 ビンタなどまっぴら御免だと咽まで出かかったが、それを嚥下して慌てて言い直した。

「いえ、自分は殴らるる程度で済みますばってんが、しかし、失くしたもんのほうはもっと深刻な状況に陥ります。やけん、一刻も早かごつ持主に返さにゃなりません」

 軍曹は、「ほう!」と、感心したように顎をしゃくり上げた。近年見ることのなかった初年兵の肚の据わりように、少々感服したようなのである。

「戦友思いの、ぬしァなかなかよか心懸けばしとるばい。わしゃ最前から見とったばってんが、あれだけ兵隊が行き来しとるちゅうのに、帽子が落ちとっても誰も知らん顔たい。ま、他人の心配より、飯上げば遅らすると自分が怖ろしか目に遭うばってんそいも無理ァなかけんが、そいにしても、ぬしゃ骨太じゃの、よか精魂ば入っとるたい」

 と、寿の肩を二三度軽く叩いて眼尻を緩ませたが、そのあとが、人を小馬鹿にしていた。

「じつァの、そりァわしン帽子たい。おまんにゃ気の毒ばさせたが、本音ば言うとじゃの、今度ン初年子はどんだけ根性ば据わっちょるんかと思うての、ちょっと試しちゃろと悪戯(いたずら)ばしたとたい。すまんが、そン帽子ばオイに返しちゃらんね」

 と、手を差し出した。

 わけを知った寿の肚が怒りで煮え(たぎ)った。気紛れな下士官の悪ふざけで「よか精魂」もないものである。迷惑千万とは、まったくこのことであった。これがもし自分の地元であったならば、寿は躊躇なく相手に噛みついていたにちがいなかったが、この場合は危険の度合いがちがいすぎていた。下級の兵隊の分際で、中隊の骨幹を成す下士官の軍曹に少しでも反抗的態度を見せようものなら、それこそビンタどころでは済まなくなる。

 寿は、軍帽の埃を手で払って差し出した。

「こいは軍曹どんのもんやったとですか。所属部隊がわからんやったですけん、あとで内務班長どんところへ届けようと考えちょりました」

 軍帽を受け取った軍曹は、初年兵の口調など気にする風でもなく、この肚の据わった初年兵をもう一度まじまじと視て、

「飯上げば遅れてしもうたばってんが、おまんはなんも心配せんでんよかぞ。こン遅れは、六中ば通堂ン用事で遅れた言えば、そいで収まるたい」

 そう言って、一方の同僚を睨むように一瞥すると、寿の肩を軽く一つ叩いて何食わぬ顔で帰って行った。

 寿たちが足早に内務班へ帰ると、案の定、内務班では既に飯上げは終わっており、眼を三角にした古兵たちが、寿たちの運ぶ副食の到着を待っていた。

 寿は、ビンタを覚悟の前で、通堂軍曹の言ったとおりを報告した。

 すると、古兵たちの眼の色が瞬時に変って、口をへの字に歪めて黙ってしまった。

 監視役の初年兵掛上等兵も、

「早よおかずば配れ。味噌汁が冷めるばい」

 と、寿の肩を突き飛ばして自分の席についた。

 寿は、副食を配りながら、通堂軍曹の名を出した途端に古兵たちの態度が一変したことに、中隊の骨幹とはいえ、()()が知れた一軍曹の実力の凄さを脳裡へ焼きつけた。

 ――あン軍曹、いったい何者ぞ?

 これが七年前の通堂軍曹との最初の出会いであった。

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