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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 酒豪には、多くの酒の肴は必要としない。次に迎える酒を新鮮に保つための、文字どおり、ほんの「つまみ」程度で充分である。

 寿は、有働ほどの酒豪ではないから、呑むよりも肴に箸をつけるのに忙しかった。

 その寿の手元を見つめながら有働が言った。

「……だけど、あれですね、捕虜の生活も死ぬほど辛かったけど、ほら、憶えてるでしょ、開拓団の村で匪賊の討伐をしたあの晩のこと」

「あァ憶えとるたい。つい昨日ンごつように、の」

 寿は、老母が運んで来た鮎の塩焼きを頭から食いついてうなずいた。

「あのときは、俺ァさすがに今度ばかりは駄目かと、肝っ玉が縮みましたよ」

「オイとて同じたい。人間に銃口ば向けたなァあれが最初やったけんの……」

「あの晩の連中の悲鳴がね、いまでも耳に張りついていて、夜中に飛び起きることがあります」

 寿は、箸をとめて、有働が背にする壁に貼られている一枚のポスターに眼を留めた。それには、ビールのジョッキを手に、愉しそうに寛ぐ若い男女が描かれていた。

 それを見つめながら言った。

「……戦争は死神のお祭りたい。人が死ぬのを見て、死神ン連中は髑髏と舞踏会たい。わしらン部隊も、そン死神ば取り憑かれたお蔭で、あの瓢箪山陣地の悲惨な戦闘ごつなったとたい。二百十名の陣地は一瞬に壊滅ばして、わしらはたったん六人になったとやけんの。死神が見逃してくれたお蔭で、わしらが生き残ったのは奇蹟に値するばってんが、そン代償に、わしらはロスケ(この場合はソ連軍)に苦労ばさせられたとじゃ。酷寒零下で強制労働ばやらされて、死ぬ思いばしたけんの……」

「そうでしたね。俺の残りの人生を一度に全部使っちまったくらい、いろんなことがあり過ぎました」

 そう。あり過ぎたのだ。どこにも持って行き場のない、筆舌に尽くせぬ哀しみと苦労と怒りが……。

 その怒りが、いまも胸の内に閉ざされたまま、(はけ)(ぐち)を求めて喘いでいる。

(あか)()もそうでしたが、(ひき)()()()も、あの氷のように冷えきった収容所で骨と皮だけになって死んだ姿を、俺ァ昨日のように憶えていますよ。俺よりも頑丈だったはずの赤羽は惨めなものだった。見る間にモヤシのようになっちまって、まるで、みんなミイラが被服を着て歩いているようでした」

 酒のせいでもあるまい。充血気味の有働の眼が、少し潤んだように見えた。

「……野下が死んだでしょ。班長殿と二人で石のように硬く凍った土を掘りましたよね。掘り終えて、あいつを埋めようとして俺が(えん)()を置くと、そいつがポンと跳ねて野下の手にちょっと触れたんです。そのとき、乾燥した木炭を叩いたような綺麗な音を立てたのを憶えていますよ……」

 口に運びかけた有働のグラスが、そっとテーブルに置かれた。仲間の悲惨な最後を想い起こして、胸に疼きを覚えたのである。

「……(くに)に帰れず、あっちで死んだ連中ほど不憫で哀れな奴はいませんよ。奴ら、あすこで死ぬために戦闘で生き残ったようなもんだった。犬死ですよ。ロスケが俺たちに、働いた分の給与をきっちり払ってくれていたら、みんな、あんな惨めな死に方だけはしなかったんです……」

 有働の言うとおりである。赤軍が捕虜に対する待遇を充分に考慮していれば、多くの無意味な犠牲者を出さずに済んだのである。

「赤羽も曳田も拗くれた根性ばしとったけんが、根はよか奴やった。みんな死なせとうは……」

 言い終わらぬうちに、突然、入口に近いテーブル席から弾けるような歓声が沸き起こって寿の声が掻き消された。その席の若い男たちが娘たちを歓迎したのである。

 人目を憚らぬ黄色い声が一頻りつづいて、寿は、それが鎮まるのを待ってからつづけた。

「わしゃの有働、あン野下だけァ親御さんの許ば帰してやりたかったとじゃ。初年兵のなかじゃ最後までわしと生死ばともにしたとやけんの。……そいだけが残念たい」

「野下の親、見つかったんでしょ?」

 寿の顔が横に振られた。

「舞鶴でおまんと別れてからたい。オイは舞鶴ン役場さ訪ねて方々捜してもろうたが、赤羽と曳田の骨だけァなんとか届くることァできたばってんが、野下ン親ン消息はまだ不明ンままたい。おやじさんは軍医やばってん、所在はじきにわかる思うたとやが……」

「じゃ、そのままですか?」

 寿は静かにうなずいた。

「オイの先祖の仏壇に眠っとる」

「そうですか……空襲で日本はめちゃくちゃに変わりましたからね。でも、野下のおふくろさんもおやじさんも、どこかで生きていれば、いつかは見つかるってもんです」

 消息は、確かに掴めたのだ。だが、野下の両親との面会は遂に叶わなかった。父親は沖縄で戦死していて、母親は、夫と息子の帰りを待ちつづけながら、疎開先で病死していたのである。

 その消息が届いたのは、有働が忽然とこの世から消えて暫く経ってからのことであった。野下の遺骨は、いまは故郷の両親と再会して、両親とともに静かに眠っている。

「兄貴に骨を拾って貰って、あの連中は倖せものだ。少なくとも自分の家に帰れたんですからね……」

 寿がうなずくと、有働がしみじみと呟いた。

「でも、あいつたちはよく頑張りましたよ、特に野下はね。あの寒さのなかを愚痴一つこぼさねえで、俺たちの世話を死ぬ間際までしてくれたんですからね」

 有働のグラスの液体は、分厚い両手に抱かれて静かに温められた。

「……あいつたちが収容所で次々に死んでから、俺たちは一日じゅう、ロスケが食い残した残飯漁りをしましたっけね。憶えているでしょ」

 今度は寿が感慨深げにうなずいた。

「忘れろゆうても、それだけァ忘るるこたァなか。おまんと残飯のゴミ箱ば最初に覗いたときゃ、オイは気持ちば悪うして、吐気ばもようすわで手ばつけられんかったばってんが、そンお蔭で、オイは飢えんで、あン厳寒ば冬を乗り越えられたとじゃ。そン経験があるけん、オイは、いまでも捨てられた残飯を見るたびにあンときンごつば想い出すとよ。やけんが、人間ゆう奴ァ身勝手な生きもんたい。喉元過ぎればなんとかゆうことわざがあるばってんが、いざ自分が落ち着くと、今度ァ苦労ばしたあンときン苦しみを忘れてしまいよるくさ。まっこといい加減なもんたい」

 口に含んだビールは、辛かった過去のそこだけを抉り取っていっそう苦くした。五年という歳月をシベリアで無駄に費やしたあの抑留生活は、苦悶という文字を、ただ肉体深く刻んだだけのものでしかなかったのだ。

 世の人々は、運良く生き延びて帰ったと誉め讃えるが、それを素直に受け容れられるほど、寿たちの心身はまだ癒やされてはいないのである。

 いや、寿たちだけではない。南方の(とう)(しよ)に送りこまれた兵たちもそうである。彼らは、食糧も弾薬の補給も途絶えた飢餓地獄のなかで、野生動物のように雑草や木の根を囓って飢餓と砲火の二重の敵と戦ったのだ。体力や持久力のない者は、軍隊からも同僚からも見捨てられ、無念の白骨を南方の地に何万と曝した。幸運にも生き残って帰還した彼らは、()()切れのように身も心もズタズタとなって、失ったこれまでの時間を取り戻そうと、瓦礫と化した我が台地に立って懸命にもがいているのである。

 ただ寿たちと異なっていることは、敗戦と同時に武装解除されて一時的に捕虜となるが、寿たちとはちがって彼らは無意味な長期的歳月を費やすことなく、全員が短期間に祖国へ帰還しているということである。

 その点、満洲全域に派兵された寿たち関東軍兵士は悲惨であった。彼らは、戦争が集結したのちも、太平洋戦線のようにはゆかなかった。彼らには、内地帰還どころか、凄惨な附録がつけられていたのである。彼らは武装解除されたあと、日本のポツダム宣言受諾が全世界に報知されているにもかかわらず、開放されることなく、そのまま極東ソ連軍の捕虜となってシベリアへ抑留されたのである。

 その捕虜の拘束期限は尋常ではなかった。長い者では十年という歳月を、それもソ連軍の奴隷として地獄の強制労働を強いられ、その抑留生活は、人間を一個の消耗品としてしか扱わなかった日本の軍隊を懐かしむほどの、それは非情極まりない過酷なものであった。

 赤軍から給与される糧食は、三百グラムも満たない黒パン一欠片と、アルマイトの汁椀一掬いの雑穀、これが一人一日分の糧で、人間として生きる必要最小限のカロリーを遙かに下廻っていた。つまり、満足な飯が食えるのは赤軍兵と日本軍の捕虜将校だけという身分であることを、冷たい収容所に収監されてはじめて思い知るのである。

 この時点での寿は軍曹という階級を持っていたが、下士官以上は極刑に処されるという話を思い出して、捕虜になる直前に襟章は捨てて一兵卒に成り下がっていた。

 それが単なるデマだということがわかったときは遅かった。自分が下士官であることを申告して下士官待遇を要求しようとしたが、組織的投降部隊ではないことから証明にはならないと認められず、寿がそれに抗議すると、今度は階級詐称をすれば一生帰れないところに送るぞと逆に脅されて、帰国まで兵隊と同じ扱いであった。

 このことから、寿は、生きるための最低限必要とされる給与すらも満足に与えられず、飢えに怯えながら過酷な労働に使役させられたのである。

 捕虜生活に耐えきれぬ者は、必然的にシベリアの大地に斃れる運命を背負わされた。その数、およそ五万五千人とも六万人とも伝えられている。数字が曖昧なのは、抑留された日本兵の数が、五十五万人とも六十万人とも不正確であるために、これも正確な数字が把握できず、抑留先の犠牲者は、そのうちの約一割としか発表されていないためである。寿の体験からすれば、これを上廻る数字であっても決して不思議ではなかった。かつての部下であった三名の男たちもこの数字の仲間である。

 赤羽と曳田は、飢えと酷寒の重労働に耐えきれず、捕虜となった翌年の冬にあっけなく衰弱死してしまった。初年兵時分から寿と寝食をともにした野下も、赤羽たちを追うように、栄養失調に加えて風邪に肺炎を併発してこの世を去った。

 その野下を葬った帰り道、有働は、なにを企んだか、寿の袖を引いた。

「班長殿、このままだと俺たちもあいつらのようになります。俺にちょっと考えがあります。一緒に来てください」

 有働に導かれた場所は、監視の望楼から死角になった、そこは赤軍の兵舎であった。

「こげなとこでなんばすっとや?」

 と、兵舎の物蔭に潜んで寿が訝しげに訊くと、

「あれですよ」

 と、有働は兵舎のゴミ箱へ顎をしゃくった。

「ゴミ箱か? やめとけ、あげなもん漁ってもなんも出て来やせんたい」

「わかっていますよ。いまさら漁っても塵一つ出て来やしません。ここには飢えた連中が何千といるんです。ロスケが棄てた残飯は、一分もしねえうちに連中の胃袋へ入って綺麗に掃除をされますからね」

「そいじゃ、なんでこげんとこへ来たとか?」

 有働はすぐには答えずに、周辺を窺うように眼を動かしてから、寿を見て鼻で嗤った。

「俺が狙ったのは別のところだからです」

「別ンとこちゃ、どこね?」

「廃物給与がふんだんにあるところですよ」

「ちょっと待て。もしかして、きさん、ロスケの厨房ば狙う気か?」

「それですよ」

 と、有働が平然と答えると、寿は慌てて制めた。

「ばか、そいはやめとけ。あすこはお前、望楼からは丸見えで、わしら捕虜は近づけんとこぞ」

「だから、そこが狙いなんですよ。大丈夫です。その辺は俺がちゃんと調べています」

 と、有働は、それを自信あり気にこう説いた。

 赤軍兵の廃物処理は、帝政ロシア時代からこの地に根づいているイラン系クルド人が請け負っていた。

 彼は、毎朝きまった時刻にやって来て、それを馴鹿(トナカイ)に牽かせた運搬用の(そり)(夏は荷車)で回収し、自分が飼育している家畜の豚や鶏の餌にするために持ち帰る。赤軍はその見返りとしてクルド人の家畜を安く買い上げて食料にしていた。有働は、それを悉に観察していたのである。

 収容所のゴミ箱は三カ所に設けられてあったが、それらは飢えた捕虜たちの手で塵も残さず清掃されるから、回収に来た馭者が、「ヨッポイマーチ!」と、捕虜を蔑んで喚き散らしているのも眼にしていた。

 ロシア語のヨッポイマーチとは人を罵るときの言葉らしいが、飢えきった捕虜たちにはそんなものは通用しない。しかし、いかに飢えているからと雖も、赤軍の炊事場の廃物場だけは手は出さなかった。少しでも近づこうものならば、監視の望楼から、容赦のないマンドリン(ソ連軍の自動小銃)の銃弾を浴びせられるからである。したがって調理後に厨房から出される廃物だけは、クルド人の馭者のために豊富に残されていた。望楼の監視も、深夜の十五分間ほど夜食を摂るために監視が手薄になる。その隙間を衝けば事は達成できるはずである。有働は、その十五分間を狙ったのである。

「首尾よく行くかの?」

 寿が呟いた。

「それはやってみてからです。これまで誰もあすこへは近づいていません。誰だって命は惜しいですからね。それに、炊事場の連中だって望楼に頼りきっていてゴミ箱なんか無関心です。俺が調べた限りでは、連中の監視が鈍るのは深夜の十二時の十五分間だけです。それ以外は駄目です。だからその十五分が勝負です」

「たったの十五分でやれるか?」

「やれなかったら、そのときは俺たちはナンマイダか、シベリヤのどこかの山奥へ送られるかです。どうせ長く生きられないのなら、やるだけのことをやってあの世へ逝きましょうよ。赤羽や野下のように、飢えて野垂死なんて俺はご免だ。班長殿だってそうでしょ」

「そりゃそうじゃが……」

 野良犬同然に成り下がった者に食い物の選択権はない。食えるものなら、たとえ動物の餌であっても口に入れる。それが捕虜の生きる要諦である。したがってゴミ箱漁りは、有働の指示どおり深夜に決行された。

 赤軍の炊事兵たちも、望楼の警戒兵にまかせて安心しきっているのか、夢のなかである。廃棄場までは難なく忍び入ることができた。

 二人は、捨てられた油脂の一斗缶を手提げ用の入れ物に作り替えて、夏場ならば嘔吐をもよおすにちがいない闇の廃棄場に忍び入り、凍りついた獲物を鑿で割って手当たり次第に詰めこんだ。明るければ視覚が加わるから、手など、とても出せなかったにちがいない。

 その作業を終えると、これも有働の指示で、収容所の森の池に向かって一目散に駈けた。

 池の縁で缶を開けたとき、二人は互いの顔を見合わせて悲痛な笑いを浮かべた。暗闇での手探りだから、まともなものは何一つ入ってはいないのである。

 それも、しかし、ほんの一時的なことである。哀しいことに、人間もとことん落ちると、恥辱を知らぬ獣のように生態系を変えてしまうようである。毎日のように漁っているうちに、最初は触るのも気味が悪かったものが不思議と気にならなくなり、闇夜でも、触った手の感触や嗅覚で、それがどういうものかが瞬時に判別できるまで野生的感覚が養われていた。

 二人は、根気よく、そして注意深く、厨房の幽かな音にも神経を尖らせて、連日廃物を漁りまくった。掠奪した廃物は、二人の肉体の主要な栄養源となったのは言うまでもない。

 そのような日々がつづくある夜のことである。いつものように、漁った獲物を抱えて例の洗い場に行きかけようとしたとき、厨房から少し離れた小屋の辺りで、なにかの呻きに似た幽かな音を耳にして有働が寿を呼びとめた。これまで一度もなかったことである。

「あの小屋のほうからですよ」

 と、有働が小声で言った。

 その小屋は、クルド人から買い受けた家畜の()(さつ)小屋であった。二人は、それを既に確認をしていたが、これまで家畜が解体されたという痕跡がまったくないことから、この日も気にかけなかった小屋である。

「もしかして、豚かなにかが運ばれて来たんじゃないですかね?」

近づいて覗いてみると、小屋には、有働の予想どうり素晴らしい獲物が檻のなかに繋がれていた。牛である。

「ありがてえ。連中、明日はこいつを(さば)くんですよ」

 有働が咽を鳴らして声を弾ませた。

「こいつを食えば、俺たちの体力は一晩で(かい)(ふく)しますよ」

眼を輝かせた有働はそれに狙いを定めた。

 狙うと言っても、生きたまま掠奪するのは不可能である。つまり、これは明日か明後日にはこの小屋で解体されるはずである。解体後には、食いきれぬほどの臓物が棄てられるのは明白である。有働はそれを頂戴しようというのである。次の夜から、ゴミ箱を漁ったあとはその小屋を覗くのが日課に含まれた。


 その牛が殺処分されたのは四日後であった。

 彼らは、動物の内臓は不潔なものとして食する習慣がない。クルド人の家畜の餌になるか棄てられるだけである。そのご馳走を黙って見逃してはあまりにも勿体ない。

 二人は、廃棄されて凍りついた内臓を鏨で割って、一斗缶に詰められるだけ詰めて素早く森へ走った。

 安全に食するには、当然のことながら入念に洗わなければならない。殊に雑菌の巣窟である内蔵は危険である。

 だが、それを処理しようにも、これが一苦労であった。解氷期は造作もない作業でも、いまは結氷期である。廃物は凍って岩の塊となり、池は分厚い氷に覆われて、そう簡単に水は確保できない。

 そのために、誰の眼も届かぬ場所に二人の作業場を設けて、そこで火を熾し、一斗缶で雪を溶かして洗った。

 洗い終えた臓物は、野菜の屑と一緒に雑炊にして吐気をもようすほど飽食した。残った臓物は収容所に持ち帰り、これは配給食と一緒に煮て、収容所の仲間たちと食った。飢えた者への食の恵みは、人間の生気を蘇らせると同時に心の感情をも支配するから恐ろしいものである。このお蔭で、二人は仲間たちから英雄扱いにされて、収容所では、なにかと便宜がはかられ、寿は、のちに、彼らから大きな救いの手を差し伸べられることになる。

 そうしたある夜、肝を潰したことがあった。

 それは、二人が無心にゴミ箱を漁っている最中に、厨房の裏扉が突然開かれ、そこから現れた炊事兵に二人のあさましい姿を目撃されたのである。これには二人の顔から血の気が引いた。満月の月明かりの下だから、炊事兵にもその表情がわかったはずである。

 迂闊であった。周囲には充分なほど神経を尖らせているつもりであったが、これまで何事もなかったという気の緩みが油断を招く結果となったようである。

 万事を休して恐怖が頂点に達すると、こうなる。二人は、その場に佇立して笑顔になった。

 炊事兵は、しかし、そんな二人を咎めようともせずに悠然と排尿を終えて体を大きく揺すると、両の手を大袈裟に広げて片手をしゃくった。着いて来いと言うのである。

 もうこれまでである。観念した二人は、炊事兵のあとにつづくしかなかった。

 炊事兵は、厨房の扉まで来ると、そこで待てと片手を制してなかへ入って行くと、すぐに顔を出した。その手に握られていたのは銃でも捕縄でもなく、なんと太い黒パン一本が提げられていた。

 あさましい姿は、万国共通に映るらしい。不憫と思ったのか、それとも、捕虜と雖も軍人がそのようなみっともない真似をするなと言いたかったのか、黒パン一本の塊を投げて、「ダワイ、ダワイ」と小声で蠅を追い払うように片手を振った。

 恐縮した二人は、それを拾い上げて、礼も言わずそそくさに逃げ帰った。漁った廃物の一斗缶を二人とも忘れなかったのはさすがであった。

 ゴミ箱漁りは、そのことがあってから暫く静観していたが、やはり空腹には勝てず、自分たちを衰弱から身を護るために再開された。不思議なことに、あの晩の炊事兵はどこかへ転属したか、それとも見て見ぬふりをきめて見逃してくれたか、それ以後は二度と会うことはなかった。

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