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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 街の商店街は、猛暑にもかかわらず、夕餉の買物客でごった返していた。

 この街は、石炭とセメントの重工業で発展した街である。繁栄した工業地帯の駅前に面した繁華街は、当然のことながら買物客やそれ以外の人々で雑踏となるが、雑踏となるもう一つの(もと)は、その裏側には、駅前の賑やかさとは別の顔があったからである。セメントと石炭が生んだもう一つの顔、それは、酒と女の匂いが充満する夜の街である。

 夜の色街と称されるそこは、日中は世俗とは無関係とばかりに影を潜めているが、陽が沈むと、厚化粧に安物の香水を()き散らした女たちや、労働による汗と埃で()えた体臭を発散させた男たちでむれかえる。店の赤提燈やネオンが輝きを増す頃には、発情した野良猫の淫声を掻き消すほど、そこは賑やかな夜の世界へと変貌する。店の中身は、必ずしも看板に忠実でないのは言うまでもない。

 寿は、これから繰り広げられるであろう男と女の夜の物語を勝手に想像しながら、周囲を見廻すでもなく、色街の酒場通りを歩いた。

 それにしても、真夏の太陽は山の稜線上に落ちはじめたばかりの時刻だというのに、気の早い店の入口には、瞬きのないネオンや赤提燈に灯りが入れられていて、明日の糧をなんらかの形で保証された男たちが、眼を輝かせて、あちらを見、こちらを覗き見しながら歩いていた。

 この一郭に足を運ぶ者は、言うまでもなく性に渇望した男たちである。その多くは、街の近郊に開抗された炭鉱やセメント工場で汗まみれになって働く工員や炭抗夫たちで、(こと)に、殺伐とした炭鉱の飯場の臭いが染みついている抗夫たちは身も心も荒んでいて、彼らには、汗水流して稼いだかねを蓄えるという意識は薄く、その夜のうちに博奕で消えるか、それとも酒と女に費やすかして、内懐に宵越しのかねを残さない日暮し同然の男たちであった。

 酒場通りで出会う顔見知りの男たちのなかには、多少なりとも分別を弁えた者もいて、寿の姿を見てそそくさと路地裏に身を隠す者がいたり、照れ笑いで挨拶をする者もいたが、これらは炭鉱長屋に居住している者か、それとも農家兼業の男たちであった。いまは、まだそれほどの人出はないが、あと半時間もすれば、ここは酒と牝の匂いに飢えた牡たちで群れかえり、商店街とは別の顔、淫欲の街と化すのだ。

 街の灯りも心得ている。日中はなんの飾り気も魅力もない薄汚れたネオンの看板と赤提灯に過ぎないが、夜が深まるにつれて、それが妖艶な輝きへと変貌し、不思議な魔力の輝きとなって、男の欲望を否応なく煽り立てる。これだから夜の(ちまた)の徘徊はやめられない道理である。

 寿は、それらの男たちを肚で苦笑いをしながら、酒場通りを抜けて、駅に通じる道路に出た。

 広大な貨物操作場と並行したこの道路にも、食堂を兼ねた居酒屋や立呑屋が軒を連ねているが、しかし、この辺りは、酒場通りとは一味ちがう雰囲気を(かも)していて、老舗の商家や問屋が間口の広さを競うように建ち並んでいる。

 そのせいかどうかはわからないが、夜半になっても、歓楽街のように路上で喚きちらして馬鹿騒ぎをする者もなく、どの店も、質素が売り物のように暖簾を揺らしていた。

 寿が向かっている居酒屋も、そのような商家が立ち並ぶ通りにあって、これは両隣の立派な商家に両脇を支えられるような形で住居を兼ねた店舗を構えていた。

 駅前広場を通り抜け、目的の店の入口に立ったときは、こざっぱりした気分で長屋を出たときの(すが)々(すが)しさは消えて、上半身の肌着は水で浸したように濡れそぼっていて、汗が上着の香港シャツにまで(にじ)み出ていた。

 この店も、まだ開店前の時刻だというのに、灯りこそ入れられていないが、赤提燈が街路の微風に揺れていた。早めの客を呼びこむためではない。男と待ち合わすために、寿が親しくしているおかみに頼んで、店を開けさせたものであった。

 鮮やかに藍色が冴える暖簾の左下には、「松月」と店の名が、遠慮がちに白く染め抜かれている。

 寿は、腰のベルトに挟んでいる手拭い(ハンカチなどという上品な物ではとても間に合わないから、外出の際でもこれを携帯していた)で汗を丹念に拭き取り、暖簾をくぐった。

 小さな居酒屋である。開け放たれた格子戸のすぐそこには、五六人も坐れば肩を擦り合わすほどのカウンターがあり、店内の壁際には、四人がけの粗末なテーブルが三つばかり並べられていて、カウンターの内側では、三十路を迎えたばかりであろう色白のおかみが、老母と仕込みの最中であった。

 天井には、ヘリコプターの回転翼を逆さに吊したような送風機が、いまにも止まりそうな速度で廻されているが、これは単なる気休めに過ぎず、店内にこもった熱気を掻き廻しているに過ぎなかった。

店には、既に二人の客がカウンターに肩を並べて、冷えたビールで喉を潤していた。

 眼が痛くなるような真っ白いワイシャツに、この暑さなのに二人とも乱れのないネクタイを結んでいるところからして、ペンよりも重いものは持ったことのない、どこかの会社員であることは明白であった。商談で通りかかったか、あるいは成立したかで、通りすがりに店が開かれているのを眼に留めて立ち寄ったものらしい。赤提燈にまだ灯りが入っていない店内は、この二人と、もう一人の男を加えて三人である。

 そのもう一人の男、これはカウンターの彼らとは正反対に風貌がちがっていて、普通の人間ではないことは一目であった。ゴリラのような巨体は二人分の席を占有するかのように陣取り、安物の液体が入れられたグラスを両の手で包みこむようにして奥のテーブルに居坐っていた。

 寿は、小声でおかみと言葉を交わしてから、その男の席へ歩み寄って椅子を引いた。

「早かお出ましたいの」

 寿を前に、はにかむように笑ったこの巨漢の男は、戦争末期の北満の(そん)()(現在の中国最北部)で寿と辛苦をともにしたかつての戦友であった。

 髯は綺麗に剃られてこざっぱりとしているが、頬から頸筋にかけては青海苔を貼りつけたかのように青く、五分刈りの大きな頭鉢の顔からは、これも大きな眼玉がギロリと飛び出している。泣く子も黙りそうな厳つい顔のこの男の尻は、それを受けている椅子が重量に耐えきれずに悲鳴を上げるほど立派なものであった。

 一方の寿は、これは男とはまったく対照的で、傍から見れば(そう)()(やさ)(おとこ)に映っているにちがいない風体であったが、被服に隠された肉体は炭鉱で鍛えられたお蔭で、余分な贅肉が削ぎ落とされて引き締まっていた。まさに脂の乗った三十路半ばの精悍な顔つきである。

 老母が冷えたビールと清酒の一升瓶を運んで来て、一升瓶は二人の間を割るようにテーブルの中央に置かれた。

 カウンターから羨ましげな囁き声が洩れた。

 そのはずである。テーブルに置かれた一升瓶は、彼らの口には滅多に入らない高級酒であったから、羨望の眼差しがそれに集中するのは当然であった。

 現在では、銘酒と謂われる清酒は誰でも口にすることができるが、この当時はまだ特権階級に限られていて、巷で酌み交わされる酒は日本酒とは名ばかりの、呑めば悪酔いするアルコール混入の合成酒か、それとも芋の臭いが鼻を刺戟する焼酎か濁酒(どぶろく)であった。本格的に醸造された清酒など、殆どの一般人は口にすることはできなかったのである。

 巨漢の男は、誇らしげなラベルの瓶を手にして、

「へえ、将校用の灘の()ですか。随分とはずんだんですね。こいつは有難えや」

 と、しげしげと見つめて眼を細めた。

「おまんとの約束を随分長かごつ反故にしとるばってん、これはその穴埋めたい。ただしぞ、今日はおなごは諦めるとぞ」

 寿がそう戒めると、男はエヘと笑って、

「それは、あとで考えます」

 と、嬉しそうに舌なめずりをして、早く呑ませてくれと言わぬばかりに、大きな眼玉を弛めて、(ずん)(どう)のような太い腰を伸ばして赤い舌で唇をなめた。

 寿は、清酒の真新しい口を切って、それを男のグラスに注いだ。

 並々と注がれる白銀の液体を見つめて、男は五分刈りの頭鉢を掻きながら顔をくしゃくしゃに崩した。

「上等な酒は、あれですね。酒の色が、さすがに輝いていますね」

 グラスを手にした男は、それを透かすように視て、特上の味を一口含んで感嘆の声を洩らした。

「あァいい味だ!」

 満面の笑みを浮かべて舌鼓を打った。

 寿は、男の満足そうな顔にうなずいて、

「ところでおまん、捜しとる身内は見つかったとや?」

 と、こちらはビールを一口含んで訊いた。

「ああ、そのことなら、ね……」

 と、男は、大事そうに酒をチビリとやってから答えた。

「あの日本一でかい街が、帰ってみると、どこもかしこも焼け野原でしてね、俺はそれでも街じゅう捜しましたが、身内も、世話をしていた女も誰一人いませんでした。もう天涯孤独ですよ。街じゃ飛行服を着た特攻崩れだかの得体の知れねえ連中や半端なチンピラ野郎どもが、まるで、てめえの天下のように我物顔でのさばっていやがるんです。まったく、めちゃくちゃですよ」

 この男の言う身内とは、家族や肉親を指しているのではない。かつてのやくざ仲間のことである。

「昔の娑婆なんてもんはね、班長殿、もうどこにもありませんよ。まるで外国だ。街にはGHQだか進駐軍だかの眼の青い連中が街を牛耳ってやがって、女を連れて街中をチャラチャラ浮かれ歩いていましてね。俺たちのような復員兵を見ると、汚えものを見るような見下した眼で唾を吐きやがるんです。女はね、そんな野郎にしな垂れかかって、一緒になってヘラヘラ(わら)っていやがるんです。アメ公の女じゃありませんよ。日本の女がですよ!」

 男は、そのときの感情が蘇ったか、衝き上がってくる怒りを抑えるかのように、グラスを一息に空けた。

 極東ソ連軍との戦闘に敗れ、捕虜となってシベリアで過ごした地獄の捕虜生活は、理不尽とも不条理とも言える日本の軍隊の兵役よりも辛く、そして長かったのだ。

 その苦役から漸く解放された男は、半年前に寿と復員して単身東京へ帰ったものの、この男が唯一の頼りとした一家の看板は既になく、かつての仲間たちはどこへ消えたのか影さえも残してはいなかった。

 身勝手な欲望から、幼い我子を食い物にした親の消息を尋ね歩いたが、男の親を知る者の話によれば、親は、常習していた阿片に蝕まれて、誰も引き取り手のない無縁仏となったそうである。

 血縁は他にもいるが、どれもやくざとは無縁の堅気の暮らしをしている。訪ねたところで、身内とはいえ、無法者など快く迎えてくれるはずがない。

 男は、それでも憶えている限りの場所を尋ね歩いたが、疎開したのか、それとも空襲の犠牲となったのか、誰も消息すら知らずに首を横に振った。自分を知る者は、もう誰もいなくなったらしいのだ。

 東京の街に馴染んでいるはずの風は、男には冷淡であった。孤独となった男を哀れむどころか、落ち着く場所すら与えずに、男の背中に冷たい風を吹きつけて無情にも追い立ててしまった。

 行き場を失った男は、唾を吐き捨てて夜汽車に飛び乗った。唯一頼りとする、かつての上官を慕ってのことである。

 男は、呑み干したグラスに特上の液体を注ぎながら、過去を断ち切るように言った。

「それにしても、班長殿、戦争が終わって五年も経っているってのに、いつになったら進駐軍の連中いなくなるんですかね? まるで、てめえの国のような顔で、街のどこもかしこも連中の戦車や飛行機が飛んでいますけど、いったいどうなっているんです? ロッキードだかグラマンだか知りませんがね、昼だろうと夜だろうとまったくお構いなしに、それも低空飛行でブンブン飛び廻りやがるから、うるさくてしょうがねえや」

 男は、また一息にグラスを空けた。

 最初のうちは大事そうにちびりちびりとやっていたが、喉へ運んでいるうちに、銘酒の味など二の次になったようである。まるで水をがぶ飲みするかの勢いで、グラスを立てつづけにあおった。

 この男の酒豪はいまにはじまったものではない。幼い頃から(ねじ)曲げられた環境に育ったせいで、酒とは縁の切れない人生であったことは、既に寿も承知の上である。だから愕くには至らなかったが、それにしても、この男の呑みっぷりは、いつもながらにして豪快であった。

 この男と酒を酌み交わすたびに、この男の胃の腑の構造はいったいどうなっているのかと、不思議に思うほど感心をしたし、呆れもしたが、とにかく豪快で、それも底無しであった。ただ一つ厄介なのは、寿を前にして暴れたことは一度もないが、酔うと酒癖が悪くなり、気に入らなければ所かまわず暴れ出す酒乱であるというのが、この男の唯一の欠点であった。

 一升瓶の底が忽ちにして顔を覗かせても、寿はそれを愉しそうに見つめていた。

「道路だって、そうです……」

 と、男は言いかけて、入口のほうへチラと眼を据えた。暖簾を乱暴に割るようにして複数の客が騒々しく入って来たのと、カウンター席はいつの間にか満席になっていて、それぞれに酔いが廻って客同士が馴染んだらしく、銘々が肩を擦り合わせながら箸で器を叩き、耳障りな軍歌を唄いはじめたのである。

 その蛮声を無視しながら、

「それで、その道路がどげしたとや?」

 と、寿が先を促すと、男は、グラスを干してから、憎々しげに口を尖らせた。

「あの国道ですよ。下関とかいう街につづくあの道。俺たちの長屋の下の道をまっすぐ西に行った雑貨屋の前にバス停がある、その国道のことです」

「やけん、それがどげしたとね?」

「どげもこげもありませんよ。その道路がですよ、進駐軍の装甲車や戦車のキャタピラであっちこっち掘り崩されて、ガタガタなんですよ」

 すると、間髪入れず寿が一笑した。

「なんのこつ思うたら、そげんこつね。そげなこつァおまんが腹ば立てても仕方なかばい。相手は戦勝国の統治国ぞ。相手がなにをしようと、それは勝ったもんが官軍たい」

 と、寿が当然のような顔で答えると、男はそれが気に入らずに反駁した。

「そりゃいまはアメ公の天下ですよ、我物顔で道路を走るのもいいです。そのために道路がめちゃくちゃになってもあとは知らん顔で、その尻拭いを俺たちにさせるのも仕方がないことくらい、いくら馬鹿な俺だって、それくらいはわかっています。でも俺が言いたいのはそんなことじゃないんです」

「どげんこつな?」

「七日前のことです。今日も暑かったですが、その日も、今日みたいに灼けるように暑かった」

「七日前なら、確かおまんは非番やなかったかの」

「そうです」

 男はうなずいて酒を一口啜った。

「その日は、ちょうど休みだったから、不慣れな街の様子を見てやろうと昼過ぎに出かけたんです。それで、太陽の熱でフニャフニャになったアスファルトの上を歩いていたら、自転車を起用に横乗りした小僧がふらふらと俺を追い越して行ったんです。そのとき、間が悪いことに、前からアメ公の戦車部隊がジープを先頭にやって来ましてね、俺は危ねえなと思っていたら、案の定、その小僧、それを避けようとして熱でふやけたアスファルトにタイヤを取られて、自転車ごと道路の真ん中で倒れたんです。戦車は、小僧の体一つ分を残して間一髪で停まりましたがね、一つ間違えれば、小僧は戦車の下敷きになってミンチにされるところだった。それを戦車の黒んぼ野郎、戦車を飛び降りて、いきなり呶鳴り声を上げましてね、小僧を助けようともせずに、逆に自転車を田んぼに抛り投げて小僧を足蹴りにして唾を吐きやがった。俺たち日本人を、まるで虫螻を扱うようにですよ。あの野郎、もし俺が()()を持っていたら、その場で野郎をぶっ殺しているところですよ」

 男は、言葉を切って、また一息にグラスを空にした。

「さっき班長殿は、連中のことを勝てば官軍って言いましたがね、勝てばなにをしても許されるんですかね。そりゃ俺たちは戦争を仕掛けて負けた兵隊だから、勝った連中になにをされたって文句は言えませんよ。でも、女や子供は戦争とはなんの関係もない非戦闘員なんですよ。それでも黙って、連中の言いなりにならなきゃいけないんですかね? そんなのって、まったく不公平じゃないですか。そう思いませんか。班長殿だって、肚のなかではそう思っているでしょ。日本が戦争に負けたからって、なにも子供まで虫螻のように扱うことはねえんだ」

 男の言い分はもっともである。寿は、しかし、男に相槌を打たなかった。

「おまんはそげに言うばってんが、わしらも同じこつば大陸でやりゃせなんだかの」

 と、やんわりと言ったが、男を見据えた眼は悲しげに沈んでいた。

「確かにの、おまんの言うとおり、進駐軍の傲慢な態度は眼に余るもんがある。おまんがそれに腹ば立つる気持ちはオイもわかるが、ばってん、わしら日本の兵隊が大陸でやった行為に較べりゃ、進駐軍がやることはまだ生易しかもんぞ。唾ァ吐かれたり、蹴られたり罵られたぐらいは我慢せにゃならんたい。それをさるるごつ、わしらの軍隊はあっちでそれ以上ンごつばしたとやけんの。おまんも向うで、官軍ば意識で肩で風ば切った憶えがあろうがくさ。占領軍に無意味に殺されんだけ、わしらはまだマシな方たい」

 憶えのある者は、こう言われれば、一言も返すことはできないだろう。男もその口である。ばつの悪そうな顔をして、ゴリラのような頭鉢を掻いた。

 寿は、まだ言い足りずにいたが、敢えてそのことには触れずに、こう言った。

「日本は戦争に負けた。わしらの国はそのお蔭で腑抜け同然になってしもうた。それも事実たい。口惜しかばってんが、いまは米軍さんの統治下じゃけ、わしらはその隷属下に生かされとる身分たい。そやけん口も手も出せん。あの(あら)(ひと)(がみ)と崇められた天皇すら、米軍司令官のなんとかマッカーサーゆう将軍にゃ頭ば上がらんとやけんの。それにこの六月にゃ朝鮮で動乱ば起こったばい。この街にも米軍が駐屯しとるんも、アメリカがそれに介入ばしたせいもあるとじゃ。この先の()(づき)の飛行場には元海軍の航空基地があったとやが、いまは米軍の海兵隊ば空挺部隊が占拠しとるけんの」

 と、ビールを一口啜って、

「そげんこつより、有働、わしらの戦争はもう終わったとじゃ。あの戦争で殺してやりたか人間は数おるばってんが、そげなことはもうどうでんよか。わしらはもう兵隊やなか。過ぎたことは忘れて、わしらは、これから先のことば考えにゃならん。それともう一つ、さっきから気になっとるばってんが、その班長ゆうのはもうやめにせんね。オイとおまんはもうそげな間柄やなかけんの」

 と、空になった一升瓶をかざして、

「おっかちゃん、こいつばもう一本やっちゃんない」

 と、老母に新しい清酒を持って来させた。

 眼の前に置かれた新しい一升瓶に機嫌をよくした有働という名の男は、五分刈りの頭を撫でて、満足そうに眼尻を弛めた。

「あれですね、班長殿、あの、酒もそうですけど、習慣ってのも恐ろしいもんですね。一度憶えて体に染みついちまったものは、なかなか抜けない」

 グラスを空にして高笑いした。

「じゃ、こうしましょうよ。班長殿は、いま飯場もやっているでしょ。飯場には子方の子分がいるわけだし、炭鉱じゃ組長で親分でもあるわけだ。ね、親分ってのはどうです?」

「おまんの世界ならそれでよかばってんが、ここはやくざの世界やなかぞ。そりゃならん」

「駄目ですか……」

 有働は、少し考えるようにグラスに視線を落として、すぐに顔を上げた。

「なら、ズバリ組長ってのはどうです? 飯場じゃ組長って呼ばれているんだから、それなら問題はないでしょ」

「現場ならそれでよかばってんが、オイとおまんの日常の間柄じゃと、それも具合が悪かぞ」

 寿は、にが笑いで答えた。

「……それじゃ、兄貴ってのはどうです? 川尻さんも寿さんも俺には少々語呂が悪いから、いっそのこと兄貴ってことにしませんか。孫呉の部隊ではそうきめていたんだし、それなら、差し障りはないでしょ」

 親分でも組長でも兄貴と呼ぶにしても、この男にとっては同意語的なものだが、確かに歳はこの男よりは食っている。兄貴にはちがいない。

「まァおまんの好きにすりゃよかたい」

 寿は、仕方なく妥協してうなずいた。

「それより、どげな、現場は? 少しは慣れたね?」

「世話になって、まだ半月も経っちゃいないんですよ。飯場はどうにか落ち着きましたがね、炭鉱もこの街も、まだまったく方向音痴ときて戸惑ってばかりいます。班長……あの、兄貴みたいに薄暗いあなぐらの生活には慣れていませんからね。だから面喰らってばかりいますよ」

「いつまでおるとや?」

 と、訊くと、有働の眼玉がギクリと動いた。

「え? あの、いちゃいけないんですか?」

「そうやなか。堅気ばなって、ここでほんまごつ腰ば据える気があっとか、それを訊いとっとたい」

「そりゃ班長殿が、あ、また言っちゃった。すみません」

 と、頭鉢をペコリと下げて言い直した。

「そりゃ、兄貴が許してくれるのなら、俺ァいつまでも厄介になるつもりです。どうせ親も身内もいなくなっちまった天涯孤独の身なんです。いいでしょ?」

 と、寿の顔を窺うように視た。

「ま、おまんがその腹積もりなら、オイのほうは異存はなかけんが……まァよか、当分腰ば据えてやってみるのもよかばい。それより、さァ呑め、オイを忘れんで、こげな遠くまで脚を運んでくれたとじゃ。苦労したあのときのことはみんな忘れて、今夜は存分に呑めばよか。お互い酔い潰れようとも、どうせ明日はオイもおまんも非番の身たい。今夜は元上官とか、そげなくだらん上下間はどうでんよか、無礼講たい。半年ぶりに元気な顔ば見せてくれたとじゃ、の、再会した祝杯ば、存分に挙げようたい」

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