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北満の秋は、まるで秋の季節がないかのようである。
ほんの数週間ほどの間に、北満一帯はシベリアから圧し寄せる凛冽な寒気に覆われ、山が萌え盛ったと思えば、次の日には、生い茂った樹葉を一気に散らして大地を凍らしし始める。
いまはその前触れである。酷暑が過ぎ去ったばかりだから、ソ連と対峙するこの国境線一帯は、依然として静謐が保たれているせいで、日中は麗らかで、長閑であった。
このことは、国境を守備する兵たちにとっては、願ってもない平穏の日々であったが、裏を返せば、南方各方面の戦局は、既に終末段階に陥っているという証明であり、近い将来には、ソ満国境全線が業火に包まれるという暗示でもあり、この平穏な静謐に、兵たちが疑問を抱きはじめるころには、関東軍は蛻の殻同然となるのである。
寿の属する連隊も、例外ではなかった。連隊は、その後も動員が行われ、新編部隊の再編要員として一部の将兵は残されたが、あとは抽出され、いまでは、正規編成時の兵員を大幅に割り、陣地は一時的ではあったが、陣地全体で一個大隊までに縮小されていて、寿の属する中隊も、一個小隊程度の再編要員だけを残して、見る影もなくしていた。
真っ先に出されるべきはずの寿は、今回も除外された。粗暴な赤羽と、班内ではいつも要領よく姑息に立ち廻る曳田、それに有帆と岩淵もなぜか残され、「アカ」の烙印を捺されている野下も、新編要員として残留となった。寿の疫病神であった痴鈍な小出は、赤羽たち古参兵の辛辣な視線から逃れる歓びを噛み締めて、これは浮かれ気分で出て行った。
この陣地で、唯一動員を免れたのは、歩兵砲中隊、所謂ホ隊であった。ただ、動員を外された代償として、この部隊は、最後の最後まで悲運に憑き纏われた部隊となった。つまり、肝腎な重砲と山砲の一部が内地へ後送されたために、いまでは砲兵隊の要である重砲は一門もなく、山砲が僅か二門と、あとは丸太の擬砲という、無様な態となるからである。
このために、兵器を奪われて余剰となった砲兵の多くは、事実上の丸腰となって、その上、さらに不幸なことに、戦闘に不可欠な銃火器さえ渡らず、砲兵としての手腕を発揮させることなく、火炎瓶一つを与えられて敵戦車に肉迫して玉砕するという、壮絶な顛末を辿るのである。
大幅に縮小された陣地の各部隊では、内容こそ異なるが、どの部隊も一様にして気が抜けたような日々がつづいた。 陣地での彼らの勤務は、兵隊の補充が行われるまでの間は、衛兵と望楼の監視以外の勤務はなく、暇を持て余した兵たちは、それぞれが好きな遊びを見つけて、時間を潰すしかなかった。
これという気の利いた趣味を持たない寿は、これも再編要員に残された小月たちと暫く雑談をして過ごしていたが、
「ちょっと外の空気を吸いに出て来る」
と、言い残して居室を出た。退屈凌ぎに、行くことのできなかった、例の疎林へ出向いてみたくなったのだ。
だが、その疎林へ行きかけて、ふと脚を停めた。拙いことに、今日はホ隊がその道を塞いでいて、そこは通れないことを思い出したのだ。例のごとく、山砲の臂力搬送訓練が行われているのである。
寿は、その道を諦めて、弾薬庫の道を行こうとしたが、そこも、顔馴染みの下士官は殆ど動員されているのを知っているから、これも気が進まない。しかし、誰にも会わずして疎林へ行くのは至難である。残された唯一の途は、面倒な行き方になるが、他中隊の舎後に設けてある物干場をすり抜け、ホ隊の、かつて有働とかいう兵隊がホ隊の古参兵と揉め事を起こした、あの広場を抜けるより方法はない。それならば、出会うとすれば、各中隊の洗濯物を監視している当番兵か、ホ隊の砲兵くらいである。
どうせ暇つぶしに出たのだ。寿は、かつて自分も洗濯物の監視を経験したことを想い起こして、興味本位に、各中隊の物干場を通り抜けて行くことにした。
それにしても、陣地の大半が動員されているというのに、それでも物干場には、襦袢や袴下が所狭しと干されていて、風の吹くままに靡いていた。
いまはそのようなことはないが、寿が初年兵のころには、この物干場ではよく騒動が起こった。襦袢や袴下が盗まれるのである。被服には、所属と官等級氏名を記した名札が縫いつけけられてあり、一目で誰の衣服かわかるようにしてあるが、その被服が、公然と盗まれるのである。希に犯人が割れて戻って来ることもあるが、これは運のいいほうで、殆どはそれきり戻らない。
被害に遭うのは、大抵が初年兵の襦袢であった。殊に、高学歴の幹候志願者は冷たい視線で妬まれていたから、恰好の標的となった。
言い訳を許されない初年兵は、自分の被服が盗まれたらそれこそ一大事である。盗まれたことを正直に報告すれば、盗まれるお前が悪いとビンタの盥廻しをされ、そのビンタが怖いからと秘密にして、被服検査でそれがバレようものなら、尚のこと大事になった。いずれにしても、散々殴られた挙句に、陸軍大臣宛に始末書を取られ、とどのつまりが、完全軍装の装備で、駈足営庭五十周である。したがって、物干場には、こうした盗難を未然に防ぐために、洗濯物を監視する当番兵が置かれていた。稀に二年兵がやることもあるが、努めるのは大抵初年兵である。それでも物干場の盗難は、どこかの中隊で毎日のように起こっていて、一向に絶えることはなかった。
寿は、そうした監視兵の挙手を受けて、七中隊まで抜けて来た。いま通り抜けようとしているこの八中隊の物干場にも、その監視兵が、寸分の隙も見逃さない、鋭い眼を光らせているはずである。初年兵のころの、あの辛かった日々を脳裡に呼び起こしながら、寿は、八中隊の物干場を通り過ぎようとしていた。
ところが、そのとき、干した被服が風に靡いている隙間から、得体の知れない異様な物体が、突然、寿の前を横切った。それは、大きな頭鉢に貧弱な軍帽をお愛想程度に被った、上半身襦袢姿の兵隊であった。瞬間的なことだったので、寿は、てっきり物干場荒しと勘違いして、
「待て!」
と、誰何した。
誰何された兵隊は、ゴリラのような巨体を向けて、ギロリと眼玉を剝いて行きかけたが、相手が普通の兵隊ではないことを知ると、頭から滑り落ちそうな軍帽を慌てて被り直して不動の姿勢をとった。
「きさん、そこでなんばしとっとか!」
「洗濯物の監視であります」
と、そう答えた兵隊は、自分では不動の姿勢をとっているつもりなのだろうが、寿の眼には、丸太のような両腕をダラリと垂らして突っ立っている、それは、まさに、短足のゴリラとしか映らなかった。
その兵隊が、こう言うのである。
「一カ所にいると、洗濯物が盗まれても、わかりませんから、いちいち、数を算えていたのであります」
寿は、妙に納得してうなずいた。髯は綺麗に剃ってあるが、顔の下半分はまるで岩海苔を貼り着けたように青く、見るからに厳めしい面構えなのである。
――なるほど、こン面構えが動き廻っとるとなら、洗濯もんのほうが怖れるばい。
寿は、巨体に歩み寄った。
「それはよか心掛けたいが、なんで呼び止められたか、わかるか」
「……」
兵隊の眼玉が、瞬きと同時に、虚空を泳いだ。
「きさんの欠礼たい。オイはそれを咎めるつもりはなかけんがの、もしこれがオイ以外の古兵や下士官なら、きさんは、ただでん済まんところぞ」
兵隊は理解したようである。
「……あァ」
と、顎で小さくうなずいて、
「わかっています」
と、与太者のように、ぶっきらぼうに答えた。相手が他中隊の下士官ということもあってか、少々なめている節もある。
「わかっとって欠礼ばしたとや」
「いえ、その、つまり、こんなところには、滅多に人が来ないもんですから、ついうっかりしました」
兵隊は、軍帽の上から頭を掻きながら弁解したかと思うと、今度は開き直ってニタリと笑った。
「ま、会うたびに敬礼敬礼でしょ。俺たち二等兵は、まったく、面倒臭くてたまりませんがね」
「仕方なかろうがくさ」
と、寿は、肚で嗤いながら答えた。
「いまのお前は、ここじゃ最下級の兵隊やけん、面倒臭いでは済まされんところぞ」
「……はい」
「これからは、周囲にも気ば配るとぞ。よかの」
と、言い含めてから、男の襦袢の胸に縫いつけられてある幼稚な字の名札を見て、通堂軍曹から聞き及んだ名と、いつかの晩の騒動を想い出してニタリと笑った。
「きさんが、有働ね」
「はい、自分は、有働義経であります」
寿は、ふーんと軽くうなずくようにして、
「義経たァ、また随分と立派ン名たいの」
有働は、擽っ(くすぐ)たく笑った。
「名前は立派でも、いい加減な親に生まれると、世間もいい加減なもんです。誰も、まともに扱っちゃくれません」
と、軍帽をボリボリ掻いた。
「八中隊に営倉ば塒ン(ねぐら)ごつしとる補充兵がおると聞いとるが、そうね、きさんやったとか」
と、相手の青々とした顎をまじまじと見つめると、有働は、眼玉をギョロリと虚空へ泳がせた。
「いえ、別に、好きで塒にしているつもりはありませんが……ま、そう言われてるんなら、そうでしょ」
上官を上官とも思わないばかりか、人をなめた態度の兵隊をまじまじと視て、寿はうなずいただけで、それ以上は訊かなかった。この男の素性を知ったところで、寿には、関心も、関係もないことである。
「きさんの名は憶えとくばい。もうよか、持ち場に戻れ」
すると、普通の兵隊なら、胸を撫で下ろして、喜んで逃げ去るところだが、なぜかこの男は、その場を動かずに、逆に奇妙な顔つきをして、大きな眼玉を剝いた。
「どげしたとや、早う行かんね?」
「あの、取らないんですか?」
「取るっちゃ、なにをたい?」
「ビンタですよ」
と、有働は、欠礼の制裁を加えられるものと覚悟していたらしい。相手の態度に、少々面喰らったようである。
「こういう場合、大抵の班長殿は、中隊がちがっても、自分を殴ります」
呆れた奴である。営倉を塒にしているやくざな男だけに、変なところで肚が据わっている。
有働は、首を二三度捻ってから、奥歯を噛み締めた。
寿は、物怖じしない、このふてぶてしい態度の、それでいて、どことなく憎めない兵隊を見ているうちに、おかしなことに奇妙な親近感を覚えた。
「きさんのそン分厚かツラば張ったところで、オイの自慢にも手柄にもならん。オイの手が痺れるだけたい。もうよかけん、ぬしゃ持ち場へ戻って、おとなしか洗濯もんの監視ばしとれ」
と、言い捨てて有働に背を向けると、その背に、有働が呼び止めた。
振り向くと、はにかむように軍帽を掻きながら有働が歩み寄って、寿の顔をまじまじと覗きこんだ。
「班長殿とは、あの、前に会ったことがありませんか?」
「ホ、きさんオイを憶えとったとや?」
「俺は、いえ自分は、一度出会った人間は、忘れない性分なんです。これで、班長殿に助けられたのは二度目です」
有働は、照れくさそうに、また軍帽を掻いた。
「助けた? 大袈裟ン奴たいの。オイはきさんを助けた憶えはなかけんがの」
「でも、あのときも、自分にビンタを取らなかったでしょ。今度もそうです。……なぜです?」
殆ど日課的に上官から制裁を加えられている有働にしてみれば、寿は不思議な下士官に思えたのであろう。
「班長殿の班でも、あの、いつもそうなんですか?」
寿は苦笑を洩らした。
「ほかの班長なら、ちょっとしたことで眼の色ば変えて制裁ば加うるやろばってんが、欠礼程度ンごつァ無意識のうちに誰でもやることたい。そげな奴がおったら、それは言うて聞かせりゃわかることやけんの」
そう答えると、どこか挑戦的であった有働の眼玉が、俄に尊敬の眼差しに変わりはじめた。
「補充兵の分際で、生意気言ってすみません」
と、素直に軍帽をとって頭を下げた。
「わかりゃそンでよか」
言い置いて行きかけると、有働の声がまた引き止めた。
「なんか? まだなんぞあっとや?」
「あの、班長殿は、何中隊ですか?」
「それを知って、どげする気たい?」
「いえ、ただ、その、ちょっと……」
軍帽に手を当てて、
「班長殿は……」
と、ガキ大将が照れ隠しにそうするように、また軍帽を掻いた。
「あの、こんな言い方をしたら失礼かも知れませんがね、班長殿は、あの、ちょっと変わっていますね。この陣地じゃ珍しいや。ね、教えてくださいよ。何中隊ですか?」
どうやら、有働も、寿に関心を持ったようである。
「オイは、三三の三やが」
「ぞろ目ですか。覚え易くていいや。で、あの、班長殿の外出日はいつですか?」
「外出?」
奇妙なことを訊く相手に、寿は小首をかしげた。
「ね、いつですか?」
「オイの中隊は、確か変更ばされて、今度の土曜と聞いとるばってんが、それがどげしたとや」
「土曜日?」
と、有働は、残念そうに唇を結んだ。
「外出日が合わねえんじゃ、しようがねえな」
「どういうことたい?」
寿が訊いた。
「いえね、外出日が一緒だったら、班長殿をいいところへ案内しようと思ったんです」
「よかところとは、どこね?」
と、訊き返すと、有働の顔が、急にだらしのない笑顔になった。
「女ですよ。いい女と、うまい酒を呑ませる店があるんです。街の裏通りにね」
呆れた馴々しさに、寿は思わず苦笑した。
「お誘いは嬉しかけんがの、補充兵どん、オイときさんとは……」
「中隊がちがうし、下士官と補充兵とじゃ釣り合わない、そう言いたいんでしょ」
言い終らぬうちに、有働が言葉を掬い取った。
「そいつはわかっていますがね。でも、俺は、班長殿と、差しで一杯やりながら話がしたいんですよ。でなきゃ、人間の本心なんてわかりゃしません。そうでしょ。外出が合わないのなら、班長殿の部屋に酒を持って行きますよ」
「営内での飲酒は禁じられとるとぞ」
「え? 下士官でも駄目なんですか? 俺の中隊では、下士官はみんな部屋で、それも毎日吞んでますよ」
寿は、胸の内で苦く笑った。確かにそうである。どこの部隊でも、日夕点呼後の下士官室は酒の臭いが充満している。炊事場かどこか知らないが、居室へこっそりと持ちこんで、盗み吞みしているのである。将校もそれを知っているが、何事もない限りは黙認している。有働は、それを知っていて、寿の反応を試したのである。
「折角じゃが、酒は駄目じゃの……」
と、突き放したが、しかし、来たいと言っている者を無碍に拒む必要もないので、こう言った。
「酒は駄目じゃが、きさんが来ると言うんなら、いつでん来てもよかぞ。ただし、言うとくけんがの、オイの部隊も普通やなかぞ」
有働の大きな眼玉がギョロリと動いた。
「どういうことです?」
「ま、来りゃわかるたい」
下士官の意外な好意的な振舞いに、有働は満足したようであった。
「わかりました。近いうちに、必ずお邪魔します。有働二等兵持ち場に帰ります」
有働は、今度は規律正しい挙手をして、誇らしげに肩を揺すって持ち場に戻った。
その背に、寿は、
「山田乙三(関東軍総司令官)閣下どんも、あれを見たら、無敵関東軍の兵士ここにありちゅうて、さぞかしお歓びンさることじゃろう、の」
嘲笑を洩らした。