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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 通常に戻った寿の日常も、数週間が過ぎ去った。

 その日の午後、この日は、中隊の外出日ともあって同僚たちは街へ繰り出していたが、衛兵下番の寿は、勤務の疲れもあって、寝台に横たえて微睡んでいた。

 そこへ滅多に顔を出すことのない通堂軍曹が、軍装をととのえて、フラリと寿の居室を訪れた。

「さっき(かわや)で小月と出逢うての、おんしが衛兵下番と聞いたもんやけ、ちょっと寄ってみたとじゃ」

 言いながら、軍曹は、机の椅子を寿の寝台に引き寄せて、腰を下ろした。寿が営倉下番直後に訪ねて以来、あれから軍曹には一度も逢ってはいなかった。

「あの晩、わしン居室へ来てくれたそうやの。留守ですまんごつしたが、おまん、うちン新米軍曹の首ば締め上げたそうたいの。ありゃおまんの話ば聞いて、肝を潰しちょったぞ」

 と、年輪を刻んだ皺を崩した。

「それに砲兵中隊の()()どもじゃ。喧嘩ン仲裁ば入ったおまんに、連中縮み上がったそうやなかね」

「あァ、あれですかの」

 と、寿は卑屈に笑った。軍隊の噂は、まったく、呆れるほど迅速に伝わるものである。

「おまんが助けたあれは、ありゃ八中隊の有働ゆう補充の初年兵での、地方じゃ極道ばしとったげなが、これがまた無頼のやんちゃでの。上官の命令は聞かんわ、勝手に酒保ば行きくさって、酒ば喰ろうて暴れるわの、まっこと酒乱での、手ば焼く困った奴げな。夕べもあのぼけなす、また砲兵の連中と揉めたゆうてくさ、いま営倉へ入っちょるそうなが、懲罰なんぞ、てんで懲りん男らしかぞ」

 寿は、そのときのゴリラのような巨体と、あの執念深そうな眼をした兵長と上等兵を思い浮かべて、あの晩の決着がつくまでは、あのホ隊の連中は、いつまでも有働とかいう男をつけ狙うだろうと思った。

「やくざか、チンピラか知りませんがの、所詮は性根の腐った外道ですたい。そげな奴ァ刑務所にでん……」

 言いかけて、少尉との一件がふと脳裏を掠めて、寿は慌てて片手を振った。

「こげん話はやめましょうたい、班長どん。そいより、どげしたとですか、そン格好は? 珍しか軍装ば揃えて、どこぞの分哨でも出らすとですか?」

 完全軍装の姿に、そう訊くと、軍曹は、外出組の兵隊たちがぼつぼつと帰営する窓外へ眼を移して、呟くように言った。

「お別れたい」

 寿には、その意味がすぐには理解できなかった。

「お別れ? そりゃどげんこつですかの?」

「転属たい」

「まさか」

 寿は一笑に付した。

 寿が信じなかったのには、寿には、それなりの確信があってのことである。それというのも、近々各大隊からの選抜で、中隊単位の編成が組まれて動員が行われることは耳にしているが、しかし、今回の編成に関しては、自分たちの第三大隊は除外されていて、それが最終(実際には、のちに大々的な動員が行われことになる)とのことであった。それに、寿と通堂軍曹は中隊こそ異なるが、同じ第三大隊の麾下にある。このことから、互いの動員はないはずと頭から信じているからであった。

「そげんはずはなか。今回はうちン大隊は動かんはずやけん、誰も出らんはずたい」

 と、軽く言ってのけたが、滅多に勤務など就いたことのない軍曹が完全軍装であることに、寿の胸に、急に不安が衝き上がって蒼い顔になった。

「まさか……ほんまごつ出るとですかの?」

 軍曹は静かにうなずいた。

「わしら兵隊は将棋の捨て駒やけん、そげな駒に選択権はなか。ここじゃと指されたら、黙って動くだけたい」

「そげな馬鹿な! 出さるっとなら、それはオイのほうたい。班長どんが出ることァなか。転属ばさするとなら、なんで、オイに下達ばせんとじゃ!」

 寿の胸に、憤怒が衝き上がった。この通堂軍曹も、耕介と同じ、自分の身代わりを背負わされたのである。二人同時に転属させれば、鎮火した部隊内の感情を再燃させることになるから、大隊長は、小出しに扱ったにちがいないのである。

 その肚の内が明瞭に読めるだけに、倍増した怒りとともに口から悪罵が呪い出た。

「大隊長は卑怯じゃ! 出すとなら、オイ一人を出せばよかことじゃ。オイは、これから大隊長ンところへ意見具申ばしますけ! 駄目なら、奴と差しちがえるまでじゃ!」

 勢い寝台を降りようとした寿の胸を軍曹が制して、寝台へ引き戻した。

「まァ待て、待ちんさい。短気ば起こしちゃならん。この期に及んで騒ぎば立つると、折角落ち着いとるもんに、またぞろ火ば()くるごつなるばい、あの件は、もう終わったとやけん、の、まァ気ば鎮めて坐りんさい」

 寿は、愕然とうずくまった。

「班長どんにゃ、初年兵時分から世話になりっぱなしやった。今度ンごつもそうじゃ。そン恩ばオイは仇にしてしもうた。つまらんオイを庇うたばっかりに、耕介は出された。その上班長どんまでも……オイはなんちゅう大馬鹿もんたい。こンとおりですけん」

 深々とこうべを垂れ、眼を赤く腫らして落涙した。

 軍曹が、寿の肩に手を置いた。

「済んだことを、いつまでも肚に持たんことぞ」

「……出発は……いつですかの?」

「ぼつぼつ集合時間たい」

 軍曹は、腕時計に眼をやって、腰を上げた。

「これで、おまんとは当分逢えんごつなるばってんが、自分をいつまでも責めちゃつまらんぞ。済んだことは済んだことにして、きっぱり忘るることぞ。そげんこつより、いまおまんに大事なことは、何事も隠忍自重たい。短気を起して、無茶ばしちゃならんぞ。それに、どこへ持って行かれるにしても、わしらは死ぬとは限らん。お互い無事じゃったら、いつかは、また逢えるゆうもんやけん、の」

 言い残して、軍曹は出て行った。

 営庭で交わした軍曹の手の温もりは、耕介同様に、いまも掌のなかに、忘れずに残っている。

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