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通堂軍曹の属する六中隊をあとに、寿が営庭に立ったときは、夜間演習に出発する自中隊の最後列の隊伍が、時計刻みの歩調を刻みながら営門を出るところであった。
本来ならば、寿も参加していなければならないはずのものである。それを心苦しく見送った寿は、空っぽになっているはずの居室へ帰ろうとしたが、先程の乙幹軍曹の態度に腹の虫がまだ治らずにいるために、それを鎮めようという気持ちから、気分転換のつもりで、滅多に出向くことのない疎林へ足を向けた。
疎林へ行くには、二つの方法があった。一つは弾薬庫が管理する動哨路を使うか、もう一つは歩兵砲中隊(ホ隊)の舎後の正規の道を使うかである。
実際には弾薬庫の道のほうが疎林へ行くには近道なのだが、弾薬庫警備は、各中隊の当番割当制であるから、兵隊は無論のこと将校も下士官も特別な用がない限り使わないし、顔見知りの哨兵長が常にいるわけでもない。ましてや営倉下番の身でそれらの眼に触れると、なにかと煩わしいことになりそうであった。このことから寿は、つまらぬ厄災を避けるために、ホ隊の舎後の正規の道を行くことにした。その道で出会う者がいるとすれば、それは陣地内動哨の衛兵か砲兵だけである。どうってことはない。
その道は、ホ隊陣地に据えられている猛々しい砲列と、陣地斜面に構築されている堅固な掩蓋群を見下ろす絶景の遊歩道でもあり、休暇を許されている兵隊は、日中に限っていつでも利用してもいいことになっていたが、それにもかかわらず、陣地の将兵がその道を使って疎林へ行くことはまずなかった。なぜならば、疎林にいちばん近い環境に置かれているホ隊が独占しているからであった。
彼らに言わせれば、その道は山砲の臂力搬送訓練に適した地形であり、多種兵科の兵隊が出入りすれば機密保持の訓練に支障を及ぼすことになる。したがって歩兵砲中隊の敷地内には立ち入るべからずという身勝手な縄張り意識があって、そのことから他種兵科の兵隊を寄せつけず、動哨の衛兵以外は砲兵との衝突を怖れて私的な立ち入りを避けているのである。
本来なら、歩兵部隊と砲兵部隊は、戦闘においては歩砲協同の互助関係でなければならない。戦闘がはじまれば、まず砲兵隊が強力な火力で敵陣を徹底的に叩き、そのあとで歩兵部隊が白兵の威力で以て敵を制圧するという、これが基本的な戦術だからである。そのはずのものが、なぜか歩兵部隊とホ隊は犬猿の仲であった。
同じ連隊の麾下であっても、一つ中隊がちがうと赤の他人として白眼視するのはどこの部隊でも同じだが、それは部隊間の旺盛な競争意識の表れからであったが、兵科が異なると、それはまったく感情を異にするものであった。
ホ隊は、それが特に顕著であった。歩兵部隊を、まるで不倶戴天の敵であるかのように敵対感情を持っているから、尚のこと始末が悪かった。
砲兵にしてみれば、自分たちこそが国家の干城だという自負があり、砲兵あっての歩兵部隊なのだという将校自身が歩兵部隊を軽視して驕っていたから、砲兵もそれが当然であるかのように意識過剰となって、露骨に敵対感情を剝き出しにするのである。
寿も、そうしたホ隊の一面を知り尽してはいたが、認可された公道を歩兵が利用してなにが悪いかという意識のほうが優先しているため、そこでホ隊の将校と出会ったとしても、寿にはなんら臆するところはなかった。
それにしても、眼下に展開する堅固な掩蓋群は、まさに難攻不落を謳うに相応しい構築であった。
それを眺めながら、やがてホ隊の舎後に差しかかると、案の定舎後の広場で屯している古参兵たちが、見知らぬ兵隊を認めるなり白い視線を刺して来た。しかし彼らは、それが下士官であることを知ると、一様に口を歪めて遠巻きに見逃した。
それらの眼を素知らぬ振りをきめて、これまでじっくりと眺めることのなかった壮大な陣地を眼窩の奥に焼きつけながら、ホ隊の舎後を通り抜け、いよいよ疎林に差しかかろうとしたとき、疎林の少し開けた場所で複数の人影の騒ぎを認めて、寿は木立の陰からそっと窺った。
ホ隊の「縄張り」だから砲兵に相違ないが、見るからに屈強な砲兵数十名が、これも他の男に劣らぬ頑丈そうな一人の兵隊を取り囲んでいた。そのことから寿は、これは砲兵の一人をしごきにかけているのだと直感した。
だが、よく視ると、それは寿の誤認であった。しごきを受けているはずのその兵隊は、ゴリラのような巨体を揺らして、逆に男たちを叩き伏せているのである。
歩兵部隊ではまず見られない複数対一の私闘である。それを寿は、好奇心剝き出しに木立の陰から暫く見物していたが、それにしても、ゴリラのような男は、たった一人で十人もの屈強な男たちを相手にしていながら、まるで疲れを知らぬかのように暴れ廻り、襲いかかる猛獣どもを片っ端から撥ね飛ばしていた。
「砲兵だけあって、なかなかの根性たい」
寿は肚で唸った。
すると、円陣の一人が、素手では歯が立たないと思ったか、突然、背に隠し持っていた帯剣を引き抜いた。
「野郎、刺してやる!」
寿の耳にはそう届いた。
「こりゃ危なかぞ!」
と、危険を感じた寿は、暢気に見物している場合ではなくなった。これ以上傍観していると、つまらぬ怪我人が出そうである。
「やめんか!」
と、号んだときは体のほうが先に飛び出していた。
「それまでじゃ!」
いきなり藪から飛び出して来た下士官に、血走った男たちの眼が一斉に揺れ動いた。
「きさんら、そこでなんばしよっとか。刃物ば持ち出してくさ、馬鹿ンごつ真似ばするんやなか!」
男たちは、下士官の怒声で一瞬たじろいだが、それが他隊の下士官で週番下士でもないことがわかると、ふてぶてしく開き直った。
「どこの班長殿か知りませんがね、ここは班長殿の管轄じゃありませんぜ。引っこんでいて貰えませんか」
帯剣を握った上等兵が下士官に白眼を向けた。歩兵を敵視しているだけに、この上等兵は頭からなめてかかった。
「よそン部隊でんなんでん、そげんこつァ関係なか。上官として見逃せんから止めたとじゃ」
「それを余計なお節介と言うんですぜ、班長殿。俺たちはこいつに真っ当な教育をしてやっているんだ。兵隊のイロハをね、この出来損ないに、正しい躾ってやつを教えてやっているんですよ。放っといて貰いてえな」
寿の眼尻がピクリと動いた。
「ほう。面白か高説ば承ったばい。そいじゃ訊くが、上等兵、ホ隊じゃなにか? 兵隊ば教育すっとに、そげな刃物ば振り廻してやるとか?」
歯を剝き上げて返答に窮した上等兵は、一目でこの場の頭目とわかる、他の者より一廻り大きな体つきの兵長をかえり見た。
それを受けた兵長は、ニタリと笑って仲間を割ると、巨体をゆらりと揺らして進み出た。
「お言葉を返すようで恐縮ですがね、班長殿。いまこいつが言ったように、ここは他兵科さんの班長殿ごときが出る幕場じゃありません。余計なお節介はやめて、黙ってお引き取り願えませんか。ホ隊の躾に口出しすると班長殿、あとでご自分が面倒なことになりますぜ。お怪我のないうちに、お帰りになったほうがよくはありませんか」
言葉の最後は、砲兵隊の飯を長年食っているだけに、古参兵の貫禄と凄みは充分であった。
寿も寿である。よせばいいのに、折角鎮静しかけている感情を再燃させて闘争心を剝き出しにした。
「ほう、そげんこつなら面白か、やって見せろ!」
受けて立った。
「言うとくけんがの、図体はちごうても、きさんらに黙ってやられるほど、わしゃひ弱やなかぞ!」
途端に猛獣の輪が歪になった。ゴリラを囲んでいた一部が寿に鉾先を向けたのだ。
寿は、営倉下番直後の自分の立場など、もうどうでもよくなっていた。つまらぬことから大事な友を中隊から追いやってしまったいまは、悪魔に魂を売ったも同然の心境なのである。
――こン外道されども、叩き潰しちゃる!
そこへ、出て来なくてもいい一等兵が出て来て、兵長の前に岩のように立ち塞がった。
「班長さんよ、この場を収めたけりゃ、まずこの五年兵の俺様を倒してからにしな」
そう言って鼻先でせせら笑うと、分厚く盛り上がった自慢の胸を拳で叩いた。鍛えられた肉体を持つ一等兵から見れば、モヤシのような寿は取るに足らぬ雑魚にしか映ってはいないのだ。
寿は、一等兵を見据えて薄ら嗤った。
「大砲ば扱うだけあってくさ、図体だけァいっぱしたいの。肚も胆も太かごつ見えるくさ」
呟くと同時に体を捻って、疾風迅雷の蹴りを一等兵の喉元に入れた。「こン外道されが!」と、言葉を吐き捨てたのはそのあとである。
一等兵の体は、しかし、大砲を扱うだけあって、さすがに頑丈であった。強烈な打撃を受けたにもかかわらず、彼は二三度瞬きをしただけで微動だもしなかった。
寿は、反撃の体勢をととのえようとしたが、相手の顔を視てニヤリと嗤った。相手は仁王立ちに突っ立ったまま、白眼を剝いているのである。
兵長が、一向に動こうとしない一等兵を覗き視て、
「おい、どうした?」
と、肩を突くと、その一等兵は口からは泡を吹き出したまま、倒木のごとく大地に崩れて凄まじい土埃を上げた。
この一撃は、恐れを知らぬ砲兵たちも度肝を抜かれた。分厚く張られた人垣が、波のうねりが退くように割れた。この種の相手は危険であることを敏感に反応したのである。
頭目の兵長も、これも軍隊の飯を長年食っているだけに敏感であった。素早い身のこなしと鍛錬した武道の構えから、相手が誰であるかをすぐに見抜いて、帯剣を握って闘争心を剥き出しにしている上等兵の手を抑えた。
「おい、やめろ」
と、顔を横に振った。聞き及んでいる風貌と言葉の訛から、将校を半殺しにして重営倉へ入れられた、あの噂の下士官であることを察したのだ。
「こいつは例の札付下士だぞ。相手が悪い」
囁かれた上等兵は、俄に顔色を変えた。
顔こそ知らないが、その残忍性は陣地じゅうに知れ渡っている。陣地では殆ど孤立無援となっている歩兵砲中隊でさえ、あの満砲の黒熊と異名を持つ赤羽が一撃で倒され、将校にでさえ平気で暴行を働く兇暴な男として、部隊中に醜聞が伝搬されているのである。赤羽の後釜としていまでは歩兵砲中隊きっての悪名高い、誰にも臆することのないこの上等兵が怯んだのも、その噂に驚愕した憶えがあるからである。
伸びていた巨体がムクリと起き上がった。喉元への衝撃が強すぎたか、破れた鞴の(ふいご)ように喉をゼイゼイ鳴らして、仲間に両脇を抱えられて群れから外された。
それを見届けて、寿が言った。
「おい兵長、きさんも手ば引け。どげん訳があるか知らんばってんが、徒党ば組んで武器ば使用しての乱闘は極刑ぞ。他隊のこととはいえ、オイが見た以上許さん。やるとなら、上官に申し出て一対一でやれ。とにかく、今日のこン場はオイが預かる。きさんが水ば流すとなら、オイも見なんだごつするが、どげか?」
兵長は忌々しそうに唇を歪めた。相手が噂の兇人だけにこれ以上揉めるのは得策ではない。それに赤の他人の部隊と雖も相手は下士官である。へたに動けば、動いた分だけ不利になるのは眼に見えている。
兵長は、憎々しげに唾を吐いた。
「仕方がねえ、今日のところはあんたの顔を立てて引き退がってやる。おい、引き揚げだ!」
仲間に命じて背を向けた。猛獣の群が、金魚の糞のように連なって、巨体を揺らしながらあとにつづいた。
帯剣を握った上等兵が、帰り際にゴリラへ一瞥をくれて、
「これで終ったと思うなよ。覚えてろ!」
と、捨科白を置き土産にした。
一方、一人残されたゴリラのような兵隊は、闘志を剝き出しに眼を剝いたまま身構えていた。
寿は、巨漢の兵隊に歩み寄って、
「きさんもさっさと帰ね」
一瞥して行きかけたが、兵隊の汚れた顔面をもう一度見直して、ニヤリと笑った。
「そげんしても、きさん、あげな大勢とやり合うとはよか根性ばしとるばい。連中たァ同じ班に起居しとうとや?」
訊くと、ぶっきらぼうに返って来た言葉に、寿は唖然とした。
「俺は……いや、自分は砲兵じゃありません。歩兵部隊の補充の初年兵です」
被服があまりにも汚れているせいで、袖に縫いつけてある兵科の色(歩兵は赤で砲兵は黄色)まで気づかなかった。それに人相から判断して、どう見ても現役の顔ではないのとホ隊の敷地内でもあり、他の砲兵に劣らぬ体型をしていることから、寿は、てっきり砲兵だとばかり思いこんでいたのである。
寿は、歩兵にしておくのは勿体ないほどの見事な体躯の持主をまじまじと視て、肚の底から唸った。初年兵の分際で、陣地の将兵すらも敬遠する砲兵とやり合うほどの男なら、素性のほどは推して知るべしである。肉体のどの部分を切り取っても、おそらく分別の一文字も出ないだろうと思った。
「こりゃたまげたばい。補充兵にもこげん兵隊ばおったとはの」
補充兵は痩躯な二国の兵隊とばかり思っていた寿は、思わず口許が綻んだ。他の下士官なら、この礼儀を弁えぬ兵隊の態度に忽ち腹を立てて、眼の眩むビンタを飛ばしているところである。だが、寿はそうはせずに、この粗野な兵隊を冷静に見つめていた。この種の男を懐柔させるには、軍隊流に頭を圧えつけるよりも、柔軟に接してやるのが効果的であることを過去の経験から熟知しているのである。
「歩兵ゆうたが、きさんどこン中隊の兵隊ね?」
と、やんわりと訊いた。
「第三大隊の八中隊です」
第三大隊なら寿と同じ麾下部隊である。寿は、この無分別な兵隊を教育している直属班長に突き出して、その上官の顔を見てやりたい気がしたが、営倉下番の身でそれをすれば逆に藪蛇になりそうだと思い直して、この場は捨て置くことにした。
それよりも、補充の初年兵が、大事な日夕点呼前でありながらなぜにホ隊の「縄張」内にいるのか、むしろそれが気になったから、こう訊いた。
「八中隊の初年兵が点呼前ばして、なんでこげなホ隊ば領内におるとや? もしかしてきさん、無断で班ば抜け出して、ホ隊ば殴り込みンかけたンとちがうか」
すると兵隊は、軍帽の上から頭鉢をボリボリと搔いて、さも当然であるかのような顔で答えた。
「そうじゃありません。あの連中の准尉が事務室に来ましてね、それで呼び出されたんです」
寿は首をかしげた。あの場に准尉らしき姿は見当たらなかったが、この兵隊の話が事実なら、兵舎の物蔭でこっそり傍観していたのかもしれない。
「そいで、きさんの中隊が許可ばしたとか?」
「そうです」
「他隊の准尉が自分の兵隊ば呼び出すのを、きさんの中隊は黙って応じたとか?」
「うちの准尉が行って来いということは、そういうことじゃないんですか」
寿は苦笑した。相手が相手なら、中隊も中隊である。大抵は自隊の体面を繕うために、分別を弁えぬこのような兵隊の揉め事は内々に処理するものである。それをしないで初年兵にはいちばん大事な日夕点呼前に出すということは、この兵隊は、中隊でもよくよく手に負えぬ厄介者だということである。
「私闘は如何なる場合でん禁じられとるとぞ。そいを承知ばした上できさんをホ隊ば引き渡したゆうこつは、きさんよっぽどンごつ扱われとる証拠たいの」
ゴリラのような兵隊には、この厭味は通じないようであった。照れ笑いを浮かべて、軍帽をまたボリボリと掻いた。
寿はもうなにも言う気がしなくなっていた。中隊でもさんざ手を焼かせているにちがいないこのような劣悪な兵隊にかかわると、それでなくとも陣地じゅうの注目を浴びているいまである、今度は滑稽なピエロにされかねない。早々に退散するほうがよさそうである。
「もうよかけん、ぬしゃ早う中隊へ帰れ」
ゴリラに言い捨てて疎林へ足を向けたが、なんだか急に気が乗らなくなって、結局、このゴリラのような無頼漢を中隊まで送る羽目になった。
これが、有働と「腐縁」となる最初の出会いであった。別れ際に名を聞いていたが、ケチのつきそうな名など覚える気は更々なかったから、翌朝目覚めたときにはその名は忘れていた。